昭和一二年一二月八日、朝ラジオから「戦争が始まる」と知らされる。一二才の時、一年間はやゝ平和そうでありました。
昭和一三年頃から食糧不足を感じはじめました。若い青年は戦地に行かされ女の人、子供達が日本国を守ると云う使命を皆言わされ『ほしがりません、勝つまでは』と。「戦争はいやだ」と口にすれば、罪になり戦争犯罪で口にしない様、親に聞かされていました。
「日本は勝つのだ!」
竹槍を持って敵にみたてた人形に目掛けて「ヤイヤイ!」と突く練習が連日行なわれたのは一四才を迎える頃だったと思います。食べる物も無く次第にお米も野菜も全て配給になりました。闇の物を買わないと命がなくなる。
農家に着物を持って行きお米と交換し命を繋ぐ日々を送りました。父も母も六人の子供を育てるのに大変であったろうと思うのです。夜は電気の光が外にもらない様黒い布を電気にかけ、敵機をおそれる、暗い毎日でした。
学校に行っても勉強は皆作業についやされていき、それでも誰も文句を云う者はいませんでした。
大学生達は皆軍人さんになり、日本の為にと自ら命をささげられ父母兄弟の為と死んで行かれました。
しだいに戦地が厳しくなったのか男の人が少なくなり、一四、一五の子供が国の為に働くようになりました。
食物も無く、野の草を食べ、お米が少しのおかゆを皆、喜こんで食べていました。「ほしがりません勝つまでは」がスローガンで、グチを云う人はいませんでした。
日本中の女、子供達も懸命に生きてきました。
今から、七〇年前のことです。その日は突然来ました。昭和二〇年八月六日、朝のことです。
七時頃「ケイカイ ケイホー!」とサイレンが鳴りました。私は、学徒動員として、広島駅の通信勤務についていました。八時までの朝礼までに広島駅に着いておかなければならない。途中で「空襲警報」となる中歩いて、たどり着き、朝礼の話を聞いていました。その日だけは話が不思議と一〇分程長かったのです。その後は、いつもは、広場で、ラジオ体操をするのが日課のはずでした。
八時一五分になるな!と思った途端、「ピカ!」とし何分か何秒か解からぬまま、気が付けたら屋根は吹き飛び、朝礼を受けていた人達…数十人が飛び散ったガラスを顔や頭、体中にうけ、血が流れ、柱の下でうなり、「お母ちゃんお母ちゃんお母ちゃん」と叫び声、男の人さえも…。
何が起きたのか、只、茫然自失、がれきの中から命かながら出ました。まわりは血だらけの人々、階段の上は柱や木など、どうやってそこから出られたのか覚えていません。すぐ側で顔中血だらけで目も見えていないだろう先輩、だらだらと血が流れている、見ているだけで何もできない。只、必死で一階の窓から外へ出ました。広島駅のホームの屋根は全部ありませんでした。
人々の姿は皆黒く焼かれ顔が目が口が腫れあがり、誰も同じ顔に見えました。体中焼けている人、倒れている人、か細い声で「水を下さい、お願いします」と並ぶように横になり広場はさながら地獄谷の様、人の焼けた臭い、今でもあの鼻につく様な臭いは、忘れられないのです。
私はどこに行こうとしていたのか…。行く先々、学生さんが帽子の所だけ焼けず八丁堀を何人も。溝の側で死んで居る人々、泣いている人、子供を探す人、人、人…。一八才位の女の子が部長さんの子供を子守をして空襲警報が止んだので買物に出たとたんの出来事だったそうです。「この坊やを親御さんの元へ連れて行って下さい、お願いします」と私に云われましたが、広島は火の海、まだ子供の私にはどうする術もなく、木のかげに連れて行き、おんぶしている紐をほどくと、女の子は背中を赤子は胸だけかろうじて焼けていません。可哀相でどうしたらとうろたえるばかり、どうにか油を持っている人を見つけ、頼んで塗ってあげようとしたのですが「私はいいから、赤ちゃんにだけ」と云われ、でもそれだけで何も出来ず逃げる様にその場を去りました。
無我夢中で親兄弟の待つ自宅へと電車に乗っていました。生きているのか死んでいるのか解からない私の姿を探す父の姿を見つけました。
あれから七〇年の月日が流れました。心の中、目の奥に、イヤ!頭の中から、離れません。
あれから…どうされたのかあの女の子は赤ちゃんは親御さんに会うことは出来たのか…。
想い出される人生となっています。
嶋末 満里子
昭和五年六月一六日生
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