(私は三つ歳上、広島市安佐南区在住、有縁の方々から寄せられた情報を基に、この文を綴る)
表梅雄さんは、昭和五年一〇月一九日広島県沼隈郡神村(かむら)(現福山市神村町)で、表竹市・カズエの四男(第五子)として生まれる。
昭和一二年四月 神村尋常高等小学校入学
一九年一一月 学徒動員(広島第二機関区)
二〇年四月 国鉄(現JR)に入社
二〇年八月 被爆
三二年三月 山陽高校(普通科)卒
三二年三月 高橋喜久枝さんと結婚(宇品町に新居)
三七年七月 広島市東区戸坂に新築移転
五一年一一月一日 妻 病死(四三才)
六一年三月 国鉄退職
平成二三年八月二五日 没、院号法名 崇敬(すうぎょう)院釋唯聞居士
墓地 生家の近く
参考
・妻と死別後、近くの専教寺(浄土真宗)へ熱心にお参りしていた
・娘二人が結婚してからは一人暮らし。淋しかったに違いない。
・その一方で娘夫婦や三人の孫の成長を大いに楽しみにしていた。
・また、書道の稽古や旅行などで心をいやしていたようだ。
平成二四年四月 合掌
(被爆体験) ・・・本人の手記より・・・
あのとき、私は仕事で国鉄の海田市駅にいた。
八月一〇日過ぎ、父に頼まれて被爆した長男表一夫(かずお)の行方を探すことになった。
広島城の東側にある広島第二部隊に行き、あちこち聞いているうち軍人らしい人が「多分大野浦の陸軍病院だろう」と教えてくれた。
すぐ大野浦の病院へ駆けつけて尋ねると「西小学校の講堂に設けられた臨時の病院では・・・」というので、一目散に小学校へ。
講堂をのぞいてみると、大勢の人が所狭しとゴロゴロ横たわっていた・・・この世の地獄・・・
やっと兄に出会えたが、嬉しさとまわりのむごたらしさで声が出なかった。
参考(筆者)
・一夫兄はその翌日(九月一日)実家に帰り、九月四日息絶えた。
・その後の治療・・・JR広島駅の北側にある鉄道病院で年数回ほど受診
・最後は胃がんのため約七ヵ月の治療の後病死
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