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児玉 久夫(こだま ひさお) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 海軍兵学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
被爆時の状況

昭和二十年八月、当時私は十六才で江田島の海軍兵学校に在学してゐました。八月六日、原爆が投下された時、私は、江田島の飛渡瀬(ひとせ)の海岸で訓練中でした。八月十九日無期休校となり、私は復員致しました。江田島からは、海軍の船が、私共の乗ったカッターを曳航して宇品港に着き、皆実町、比治山本町、段原大畑町、荒神橋、大洲町などを通過し、自宅に戻りました。自宅は天井が落ち、ガラスは全壊、屋根瓦は一ペン爆風で浮上って落ちたので雨もりが激しい状態でありました。

宇品港に着いて上陸しましたが、木造の民家は、悉く焼け失せてわずかに鉄筋のビルが残っている丈で、己斐、横川方面の山際まで見渡せました。学校からは、教官が八月六日爆弾投下後すぐに視察に行かれた結果、一発の新型爆弾であると判りましたが、その性質は全く不明のままでした。

私は翌日から、一週間以上大手町二丁目、国泰寺の前に在住していた従姉妹の熊野よしみと、その子供、熊野武男、海軍兵学校先輩も行方不明となってゐたので、捜索の為、朝早くから暗くなるまで、瓦礫の中、市内全域を回りましたが、二人の姿は見つかりませんでした。一つ丈、瓦礫の中から、見覚へのある焼け焦げた花瓶を見つけ、家に持って帰り仏壇の側に安置し、二人の位牌と思い、家族共々手を合せました。その後、熊野武男先輩は戦死と判りました。
 
被爆直後の症状及びその後の健康状態の概要

私は、八月二十五日頃から、身体に何とも云い様のない倦怠感と、歯茎からの出血がありました。その時は理由など全く判らず、近くの医師に相談しましたが、有為な解答は、得られず、そのままにしてゐました。それ以来、疲れると、歯茎から出血があり、無理が出来ませんでした。

十六才までは、いたって健康な身体の持主であり、小学三年生では、三千メートルを、泳いで表彰されました。

旧制中学修道では、マラソンで、一万メートルは軽々と走っておりました。風邪を引くこともなく、健康優良児でした。結婚後も、下痢便、軟便、便秘の繰り返しでした。又三十代後半には、心臓肥大と診断されていましたが、あまり深刻に考へる事はありませんでした。

五十五才の時、仕事の都合により、広島から、東京に居を移しました。

一年後の四月、突然脳内出血を発症、二ヶ月入院、右半身麻痺、リハビリで何とか、杖で歩ける様になりました。

その後、心筋梗塞発症、翌年、脳梗塞、又翌年、心筋梗塞と入退院の繰返しが何年も続きました。次は、七十六才の時、心不全を発症。

日大病院の救命センター入院、気管挿かんを十日間、心不全は克服しましたが、大腸癌が見つかりました。心臓も大腸も手術不能。

心臓の一番良い状態を見はからって、

平成十八年二月二十日、心臓手術、成功。

平成十八年四月四日、大腸癌手術、成功。

後に不整脈が度々起り、電気ショック、四回受けるも直らず、心臓への電気治療を二度受け、不整脈は起きなくなりましたが、年に二・三回心不全が起き、入退院を繰返しました。又、甲状腺機能低下症と診断されました。

入市被爆だと申せ、重複発症こそ、原爆症の特徴ではないかと、強く思うものであります。私も八十一才、先が見えており心身共に毎日が、堪難いものがあります。

                  平成二十二年九月十日

                        児玉久夫
  

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