故 長博幸の姉 長喜美子
博幸は一体に変った子だったように思う。腕白かと思えば意外に「はにかみ屋」であったり、剽軽者で、しかもコチンコチンの正義感の持主だった。
いたずらに輝く大きな眸、そのきかぬ気を現わす引き締った口もと、何時になっても、あの日玄関をはしゃぎながら出て行った姿のまま、フイと目の前に現われるのではないかとの錯覚にとらわれるのだけれど……。
弟の追憶記などといっても、あまりに思い出は多く、尽きるところを知らず、拙い原稿にまとめることはなかなかむずかしい。やむを得ず断片的に、博幸在りし日の出来事を拾ってみて、俤を偲び、姉としてその死を悼みなつかしむ気持をそのままに綴ってみようとして、ペンをとった。
幼い頃の博幸はなかなかの剛の者であったようだ。しかし、そんなに体が大きいわけでもなく、口が悪いわけでもないのだけれど、その意気込みたるや、真に一兎を追うに百狼を追うすさまじさがあり、年上の子供まで、その意気には圧倒されていたようだった。気弱な兄が、年かさの腕白(わんぱく)連にいじめられて帰ると、四才になったばかりの弟は、両手におもちゃの剣を持って「仇討ち」に走って出たものだった。
こんな記憶がある。何時もの調子で勢い込んで仇討ちに走りでた博幸の、まだ危なっかしい足取りをあやぶんで、母がそっと垣根からどうなることかとのぞいていたら、相手の男の子はいずれも六年くらいの大きい子で、出て来た弟があまり幼いのにあきれ、且つあどけない顔付きが可愛かったものか、相手にせず、笑っていたが、しゃにむに博幸がむしゃぶりつこうとするので、小さな石をポンと投げてよこした。それが弟の肩先にちょっと触れると、弟は火がついたように泣いて帰って来た。そして、如何にも口惜しそうに、廻らぬ舌でしゃくり上げながら、母にいいつけたものだった。「お母様、僕、つよかったのに、石投げるから、肩の骨にひびきがいった」と……。
年長の相手が、からかい半分に飛び道具の石を使った卑怯さが、何より口惜しくてたまらないのではないかと、私はボンヤリそんなことを感じながら、その時顔を真赤にして泣く博幸を、窓の桟につかまってじっと見ていた。
弟が数え年五才になった頃、一家は東京から北京に移った。大連までの船の中の博幸が、如何に人気者であったかは省略して、北京当時の博幸のおませ振りを一つ書いて見よう。
支那人の阿媽二人と、コックが一人いて、その頃の母は毎日支那語とお習字を、家に来られる先生に習うくらいで、閑に過していた。そんな関係で、よく母は、弟の手をひき、歩いて十分ばかりの日本人小学校に、兄(三年)と私(一年)のお弁当を届けてくれた。博幸は、母の腕にぶら下がりながら「お母様、あの家ドシャ人(注=ロシア人)のとこよ、いつかダクダ(ラクダ)の鳴きまねしてくれたから」などとよく廻らぬ舌でおしゃべりしながら、元気について来ていた。
そんなある日、もう二十メートルくらいで学校というところの芝生に、博幸はしゃがみ込んでしまった。「疲れた」と云って動かないのである。母はついでに歩かせようと思い、「ボクは強いんでしょう、ホラ学校がそこに見えるのに、お俐口だから歩きましょう」となだめたらしい。すると博幸は、ようやく立ち上がり、手を後ろに組んで仔細らしく首をかしげて、「しかし」と云ったそうだ。「しかし、遠いんだもの」と……。
まだ満足に舌のまわらぬ子供が、と母は、もっともらしいそのしかめ面を見て、思わず吹き出してしまったという。
父の職業柄、転々とする一家は、博幸が幼稚園に入る頃は、広島の家に帰っていた。
キリスト教会の幼稚園で、クリスマス・イブに、弟は数多いお祝いの人々の前で御挨拶をした。その頃には、一種の愛嬌だった舌足らずもなくなり、割にしっかりとした面を見せていた。
幼稚園から一、二年までの弟は、とにかく泣かなかった。そして自分が正しいと信じたことは譲らず、そんなことで厳しかった祖父にしかられても絶対にお詫びを云わず、よく母をハラハラさせた。観音小学校に入学してから博幸は、ますます腕を振った。高学年の兄が週番で校内を巡ると、必ず弟は誰かの胸倉をつかまえてけんかしていたらしい、弱い者いじめは決してしなかったけれど……。「長君、子分にしてくれよ」などと頼みに来る友達が現われたりして、さすがに博幸もてれてしまったことがある。
そんなに腕白なのにもかかわらず、三人兄弟のうちただ一人母に似た面ざしは、兄や姉の私と違う。中高の、目の大きい、まつげの長い、愛らしいものだった。川中島の剣舞をしたのもこの頃だったと思う。
弟が小学四年の頃、私たちは附中に入学した兄を残して、両親とともに満洲に渡った。涯しない曠野は、弟にも私にも、こせつかない大らかな気持を植えつけてくれるようだった。あまり丈夫でなかった私も、弟と一緒に、六月頃には、咲き乱れる天然の花園の中を、忠霊塔の立つ丘のあたりを駈けり、歩き、力一杯の声で歌をどなった。
しかし、弟の顔はきりりとした感じの表情から、多少神経質なものに変り、目とまつげが一層印象的になっていった。時折、わけもなくこぶしで涙を拭うことがあり、「女々しいわ」と私はよくいったが、この頃から博幸は、「僕は長生きしないんだ。若桜でいさぎよく散るんだ」と口にするようになった。大臣とか大将と大きな望みを抱いた一、二年当時の志を、半分にけずり「せいぜい少尉か中尉までだ。僕は将官にはならない。あんなの売残りさ」などといったりした。
しかし博幸は剽軽者だった。わざと大阪弁で野球放送の口調をしてみたり、「あのね、おっさん」とやったりした。そして、よく私と喧嘩をした。たたかれた後は、必ず弟の部屋のドアに『入室禁止。勉学中、面会謝絶』などと書いた紙がペタリと貼られた。が、この喧嘩もだんだん張合いのないものになっていった。何故なら、弟が私に向かって、いかにも鷹揚になったからだった。私が如何にむきになっても、博幸は笑って相手にしない。なんとなく悟った人間のように……。
そして気の合ったお友達と囲碁をやり、詩吟をやり、偉人伝を読んで修養しているようだった。なんだか急に大人びて来たようだった。が、やはり、食事時などはだめだった。博幸と私が隣合せに坐ると、必ずひじで小突きあうし、見かねて母が二人を差向いの位置に坐らせると、お互いにイイーッとやった。
アイス・スケートは、私より弟の方が進歩が早く、氷の上で少々気取ったポーズをとって、父に写真を撮って貰うころ、私はようやくよちよちと氷の上を歩く程度だった。これも、しばしば喧嘩の材料になった。
そのうち私はハルピンの女学校に入り、両親と弟のいる国境の街を離れて寮生活を送るようになった。冬休みに帰省する私を、博幸は首を長くして待っていてくれた。いたずら気から不意に帰って驚かそうと、電報も打たずにいた私を、弟は今日か明日かと毎日駅に出て待ったらしい。一向私から音沙汰ないので「なんだ、お姉様なんか帰って来なければいい」といって半ベソで怒ったそうだ。悠々と帰った私も、後から母にそのことを聞かされて、ちょっと済まない気がした。
帰省した日の弟の日記には、喜びにはずんだ字で「今日お妹様が帰って来られた」とあわてて姉と妹の字を間違えて書いてあり、そっと出して見た私も、思わず吹き出してしまったのだけれど、考えて見れば、本当に可愛い弟だった。
正義感の強い博幸は、級の中でも反対派の要領主義者と時折激しく争ったが、不思議に反対派の人から、後までにくまれるということはなかった。
昭和十九年六月、当時六年生の弟と私は、父を東満佳木斯(とうまんチャムス)にのこして内地に帰った。広島の祖父母が中風になったからだ。そしてその年の暮、父は満洲から比島に渡り、祖父母が相ついで他界すると母と子供たち三人は、だだっ広い家の中で、母にもたれ、それでも練塀一杯に咲くつたばらや、ベランダの上にふさふさと垂れるぶどう、祖父母が随分と力を入れていた鯉をはじめ種々の金魚などに小さな幸せを感じながら、それぞれの動員現場で一生懸命働いた。
博幸の一中の試験合格は、その頃の吉報だった。「合格だった」折からの空襲警報の中を、お友達の三角さんと発表を見に行った博幸は、気の抜けたような声でそう云って帰ってきた。厳しい戦時の耐乏生活の中で、発育盛りの弟の一番生き甲斐のある生活は、一中入学により実現された。勢いよく登校する博幸の後姿は、見通し暗い戦いの中でも、いかにも幸福そうだった。
二学期には、十二学級の級長にさせて貰い、「勉強嫌い」と私が綽名していたほどなのに、何時の間に級長になったのかしらとびっくりさせた。そして弟はますます張り切っていた。
が、それなのに、戦いの苦しみは食糧難を通じ、更にひしひしとこの伸びようとする若芽に迫るのだった。池をのぞくと庭は、何時の間にか菜園になっていた。内地の事情にうとかった母は、この食糧難の抜け道を、買出しや闇買いに求めることをはずかしがったけれど、配給だけでは到底食べられないと判ると、馴れないことに苦労しながらも、田舎に買い出しに通った。しかし、三度の食事は盛り切り、私たちに満腹出来る量ではなかった。
そしてある日、こんなことがおきたのだった。強情なほど我慢強い博幸が「御飯が足りない」とこぼした。ない中を工面する母は、食べさせたい情と、食べさせられない事実のためにイライラした。そして「いやしい言葉を使ってはいけません」と云わねばならなかった。ところが、何時になく、博幸は黙って食卓を離れない。涙さえ浮べている。母はやり切れなくなって怒った。そして「それではお母様が食べないでいますから、このお皿のをお上がり」と云った。当り前のそれまでの弟だったら、そんな女々しい態度はせず、意地にでも母のお皿に手を出さなかったであろうに、その時はしばらく黙っていたが、ほろほろと涙をこぼしながら母のお皿をとって食べたのだった。可哀そうに、私はその時のことに思い至ると、いつも哀れさといとおしさに胸が火になる。
原爆後、母は大事の場合に備えて埋めてあった一升瓶のお米を掘り出し、声を上げて泣いた。あんなに食べたがり、いじらしくも我慢した博幸に食べさせたい。お米は焼け残ったけれど、博幸はいないのだ。
運命のあの日、八月六日、筆にするさえ厭わしい呪いの日。書きたくない。しかし、十四才で世を去った博幸の最期の日を、やはり私は敢えて書かなければならない。
博幸は国防色の学生服にゲートル。「お母様これ舟みたいだね」と笑わせた母の手製の靴に、戦闘帽を目深くかぶり、疎開家屋の奉仕作業があるからと、お弁当をおむすびにして貰って、嬉しそうに「お母様、僕の部屋散らかっているから、後をよろしくお願いします」と挨拶して出て行った。玄関のポーチのところで、誘いに来られたお友達がかくれていたとかなんとか云って、大さわぎしながらかけて行った。そしてお友達も博幸も、それきり二度と帰らなかったのだ。
博幸ちゃん、帰らぬあなたを探して二十日あまり、お母様とお兄様と私と、見るも無惨な阿鼻の巷をさまよいました。夜中に何度となくお母様は、あなたの名を呼んでは飛び起きられました。私も夜な夜な死体を焼く火を見ながら仮寝の床につき、あなたの夢ばかり見ました。
最初は、元気に広島県立広島第一中学校生徒と叫んでいる博幸ちゃんを、次には、橋のたもとに黙ってしゃがんでる博幸ちゃんを、そして三日目には、片足失って玄関に立つあなたを見て、飛び起きました。しかしそこには玄関の跡形もなく、やけただれた家の跡、焼トタンのすきまを通して星がまたたいていました。荒廃の焼野原の中、思わず声に出して博幸ちゃんと呼びましたよ。涙さえ忘れ、生埋めから逃れ出た時の全身の痛みもありませんでした。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)二八~三五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |