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熱い、体が焼ける 
堀 輝人(ほり てると) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
故 堀弘明の父 堀輝人

八月六日の原爆の朝、弘明は、朝七時半までに登校しなければならないので、草津の自宅を六時半頃に出発した。虫が知らせたのか、祖母の語るところによると、当日朝起きる時に「今日はタイギーノー」と言ってなかなか起きなかったそうである。また、「広島は五、六日頃は危険なのだそうだ」と前夜独言を云っていた由でもある。なんとなく、二、三時間後の広島の惨事を虫が知らしていたのであろう。

日頃、本人はアズキ飯がすきなので、前夜五日の夕食にこれを作って食べさせたところ、非常に美味しいと云って腹一杯食べ、翌る朝もまた、昨夜の残りをくれと言って、これを非常に美味しそうに食べ、急いで家を出発したそうである。一時間後には、原爆という、世にも恐ろしい生地獄が身の上にふりかかるとは夢にも知らず、出て行ったのである。出発に当り、足が重かったのも無理からぬことと思った。
 
しかし、当時の学徒は皆ガン張って、勝つまでは一億一心となって戦うという気魄が満ち満ちていた。だが、今になって考えてみれば、当日は、なんとかして無理にでも引き留めておけば、こんなに悲歎にくれることはなかったろうにと悔やまれてならない。いま生き長らえていれば、もう大学の三年生になって、立派に力強いことだろうにと愚痴をこぼしてみることもある。私はこの記事を書き書き幾度か涙がにじみ出て原稿用紙をぬらし、涙でペンの先がボンヤリと見えなくなるのである。
 
あの日、私は、同郷の草津町の三島、田村と三人で、三人の子供(ともに一中在学)をさがしに出た。一中のグラウンドの芋畑の中で「一中の生徒はいないか」と連呼した。そこここからかすかな返事が聞えた。誰もみな息たえだえであった。二、三人がかたまって横になっている。息の絶えているのも数名いた。遠くの方で野犬の遠声が聞える。まだ市街の所々にはボーボーと火の手が上がっている。飛行機の爆音も聞える。しかし同伴の三人とも、死を恐れず、胆力もすわっているような気がした。
 
ちょうど、鷹野橋附近で、軍からカンパンの配給がなされていたので、それをもらって、そんな子供たちに渡してやったら、ただ「有難う」と云っただけで食べようともせず、グタリと倒れたままである。校舎の下敷きになって、腰部打傷のため歩行困難らしい。言葉もあまりない。私どももなんら為す術もなかった。多分、あの子供たちは、その当夜のうちに静かに眠ったことと想像する。
 
プールのそばにはたくさんの女子学徒が倒れていた。もう息が切れているのもある。二、三人の若い娘さん(中国配電)は「私らはここをはなれまいね」と固く抱き合ったまま、もう死の直前のようであった。この恐ろしい爆弾の威力と惨酷さには、実に身の毛もよだつ思いがした。そして、このたった一発の爆弾は、どんな爆弾なのだろうかと反問してみたが、さっぱり分らない。しかも、探し求めるわが子の姿は発見出来ない。不安と絶望の一夜は明けた。翌八月七日、一中の生徒は、先生とともに日赤で手当を受け、トラックで宇品に向かい、似島方面へ多数送られ、多くの兵隊さんが「一中の生徒を救え」と一生懸命にやって下さったという情報を得たので、私は早速似島に渡った。検疫所の桟橋を渡ると、物凄いほどの一般男女学生が避難し、実に凄惨、生地獄そのままの情況を呈していた。死体が、広い夏の草原に山ほど積まれ、それぞれに荷札様のもので住所氏名が死体にくくりつけてある。次から次へと軍船で、兵隊らしい死体が運ばれて来る。苦しさのあまり下水の水のところまではい出たまま倒れているのもある。
 
軍医がかけまわっているが、なかなか手は行きとどかない。うめき叫ぶ生死の境をさまよう群衆の中を、私は狂人の如く「一中の生徒はいないか」と絶叫して尋ね廻った。「ハイ、私は一中の生徒です」と、多数の患者の申からムクムクと頭をもたげて答える者が何人かいた。いずれも人間の姿とは思えぬ変り方で、ほとんどパンツ一枚のあわれな姿であった。火傷をしていない生徒は、ひどい打撲傷で足腰が立だない有様である。
 
ある部屋で私が叫ぶと、一婦人が、「この隣の学生さんが一中の生徒さんです」と教えてくれた。傍によって見ると、本人はほとんど昏睡状態である。私か軽くゆり起すと、かすかに眼を開けた。パンツの荷札に鉛筆で、草津町田村、と記してあった。

「君は草津駅前の田村君か」と尋ねると、しばらくして不思議そうに私の顔を眺めて、「ハイそうです」と力なく答え、そのまま眠ってしまった。「しっかりしておれよ。草津のお母さんの方へ連絡してやるから」と、耳のそばで云ったが、なんの返事もなかった。

隣のオバサンから氷のかたまりをもらって口の中に入れてやると、ほんとに美味しそうにカリカリとかんで、再びグタリと眠りについた。私は後髪を引かれる思いで次の病室へと向かった。同伴して捜査して下さった三島さんが、「息子さんがおられましたよ」と私に急報して下さった。
 
私は急に、わが子の姿を見るのがなんとなく恐ろしくなり、少し足がゆるんだ。弘明は、一番奥の兵舎の一隅の板張の上に横臥していた。
 
パンツ一枚である。全身火傷で、わが子の日常の姿は全く認められず、火ぶくれになって顔面はふくれ上がり、パンツのネームと軍の荷札の名前によって、ようやくわが子たることを確認するほどであった。私も、もうこれでは駄目だと思った。

前記の田村君はその後どうしているかと胸がさわぐので、再び彼の収容室に行ってみた。彼はもうこと切れていた。(八月七日午後三時頃)体はまだ温かい。あまり苦しんだ様子はない。私は合掌した。せめてもの形見にと、彼のパンツに縫いつけてあった名札を取りはずして、懐中に入れた。
 
再び私は合掌して死体に別れを告げて、死の寸前にあるわが子の傍に帰った。しかし、なんとも施すすべもない。ただ茫然と、悲惨な姿の子供の傍にいるのみである。長男は昏睡状態を続けている
 
またしても田村君のことが気にかかるので、もとのところへ行った。もう死体はどこかへ運ばれていた。兵隊さんがタンカで運んで出たそうである。私は思わず懐中から彼の最後の形見のネームを取り出し、静かに見つめて空をニランダ。そして、彼の冥福を心から祈った。私は、彼のネームをまた大切に懐中深くおさめた。前記の田村君は、長男の同級生の田村享君で、中島町から草津町に疎開し、常に登校を共にしていた親友で、父は島の郵便局勤務であるが、現在は出征中で、一人息子とのことである。形見のネームを母上に届けた。母上は涙を流して喜んで下さった。似島には夏の夕日が遠慮なく照りつけ、一種異様な臭気と熱気がただよっていた。死の直前のウメキ声は、そこここの足もとに絶え間なく起っている。全く地獄絵そのままである。
 
私はまた急いでわが子のそばへ帰った。
 
「弘明や、お父ちゃんが来たんだ、シッカリせよ、きっと早く治してやるから」と、力強く耳もとで叫ぶと、少しばかり目をあけてうなずいたらしい。顔面は全部火傷、頭部(帽子のきわより)にだけ頭髪が残っていた。手、腕、胸、背、足のそこここを火傷して、手の皮は両手ともブラブラで、ボロを付けたようにさがっていた。なんと云っても十四才の中学一年生のヤワラカイ皮膚で、重労働もしたことのない体なので、熱湯から引き上げたような状態で、手のつけようがないと云っても過言ではなかった。

わずか二尺先の隣には、別の患者がうめき声を立てている。同室患者が次々と死んで行くはしから、また、新しい重患者が運ばれて来る。室内は、屋根のトタンの熱気と、患者の臭気と、火傷の腐敗とにより、一種異様な臭気がただよっている。火傷の跡にははや白いウジがはって、その上にハエが一ぱいにたかっていた。

長男は昏睡状態だが、苦しいのか、寝返りをしたがる。つかむところがないので、むしろの外側から軽く起す。寝台もなく、粗末な部屋で、これも当時としては如何ともし難い。水を要求するので竹製の食器で水を少しやる。周囲で十三、四才の同年輩ぐらいの少年少女が、両親の名を呼んでいるうちに、次々と物を云わなくなって絶命する。

以下は、長男が、熱と毒素にうなされて無意識のうちに云ったことを、その枕の傍で速記した、そのままの言葉を記載し、それに少しずつ説明を加えておく。この簡単なうわ言の中に、幾多の意味が含まれていると思う。

「兵隊さん、お茶か水か下さい。この前から、まだくれていないのです」
 
「兵隊さん、看護婦さん、どうかして下さい、頼みます。有難うありました」

校庭南方の雑魚場町で疎開作業に従事中原爆にあい、一応先生と生徒がかろうじて集合、日赤病院へ行ったらしい。当時の兵隊さんと看護婦さんが唯一の頼みで、このことが頭に沁みこみ、父のいることにも気がつかないのだろう。

「先生は御無事ですか、一中の先生は御無事ですか」
 
「市役所の中心はどこかの?」

「分度器の目盛がこまかくなければいけません」

「番号を打ちましょうか。先生、僕が行ってきます。図面へ番号を打たいでもよいのですか」

数学の実習実測作図の学習の時のことを思い、日頃の勉強の有様の一部を云ったものだと思う。

「どうか頼みます、兵隊さん頼みます。兵隊さん、氷か水か下さい。死んでもよいですから、たった一つ下さいや。おがみます、おがみます。田村も三島もみな氷を食いよります」
 
「有難うありました。また、頼みます」
 
「吉田先生! 森先生! 早く早く」
 
「どこですか、先生~! 先生~!」

「早く逃げましょう。早く早く」
 
「ここはどこですか、似島ですか。ようここまで来たことよのー」

「命には別状ありませんか。死ぬかもしれません。いたいです、兵隊さん。背中がいたいです。早く起して下さい。頼みます」

「看護婦さん、治療して下さい、どうか頼みます」

「兵隊さん、助けて下さいや。田村や三島はどうしたかのー? 一緒に早く家に帰りたいのー。宮島電車はありますか」

「永田の病院へ早く行きたいのー」

「オバチャン、オカアサン、早く帰りたいの」

「帰れるかの?」

「先生、帰らして下さい。母を一目だけでよいですから……」

「起して下さいや、僕はどのくらいの形になっているのかの。もう死ぬるばかりか知ら」

「おばあちゃんらが、わしが似島におることを知っているのですか」

「学校へ行きたいのー」

「増村へ行って氷をもらおうや」

「増村よ、冷たい氷を頂戴や」

「兵隊さん、僕はまだ生きとるのですか」

「いつまで行けばよいのかのー?」

「舟の後が高いのー、日に当るといたいのー」

「死体が河に流れているのー」

「僕は日赤へ行き、宇品から似島というところへ舟で来ました。十三学級の堀弘明です」

「オイ、危ない。スコップとバケツを探して下さい」

「おばあちゃん、どこにおりますか。早く探して下さい、僕の受持です」

「僕の本やリュックサック、服に名前が書いてあったかのー」

「どこへ行ったかのー、名前を書いてあったの」
 
「ああ、あついあつい、体がやけるで」

「早う逃げようや」

爆撃と同時に黒煙に包まれ、所持品を探しても見当らず、そのまま無一物にて避難したらしい。
 
「藤原先生、今日母が死にましたから、学校を休みますと伝えて下さい」

「骨はどこにある」

「おばあちゃんのー」

「兵隊さん、永田病院へつれて行って下さい」

「頼みます」

「僕、死にそうです。どうしたら治るんでしょう。看護婦さん頼みます」

「先生、帰らして下さい」

「母が骨になっています」

「おばあさんの死体をどうした?」

「高壮よい、高壮よい」

祖母、母、弟の高壮の様子を気にし、もう死んだものと思っているのかも知れない。

「早く起してよ、弁当をしっかり作ってよ、お母さん、おばあさん。早く起してよ。いま何時?」

「お父ちゃん、家の者の命はありますか」

「兵隊さん、どうしてこんとうになったんですか」

(アメリカが爆弾を落したんだよと答えてやる)

「アメリカの糞野郎!」

隣の親切な看護のおばさんが一個の桃を下さったので、氷で冷し、切って口に与える。すいつくように食し、「ああ、おいしかった、おいしかった」
 
「もうないんですか」少し与える。

「ああ、美味しかった」

「起して頂戴や」

「上野ガーデンヘ行って下さい」

「僕、もう死にそうです」

「宿題があるんです」

「頼みます、頼みます」

「桃が美味しかったの。生れてはじめて食った。ほかの者にやったね。田村や三島にもやって下さい」

「お父ちゃん、よう助かったのー」

「お父ちゃん、家の者の命はありますか」

「早く帰りたいのー」

「電車へ乗ってもよいかの? 電車へ乗るまいか? どうしようか、おこられたら、いけんけん。兵隊さん、乗せて頂戴や、早く帰りたいです」

「プールのほとりをちょっと見さして下さい」

「吉田先生、森先生」

「僕、死にそうです。どうしたら治りますか。看護婦さん、看護婦さん」

「ここにおります。一中の堀弘明です」

「水筒の水を下さいやー」

「氷を下さいや」

「品がないのー」

やがて、祖母との連絡がついて、祖母が来島した。

「おばあちゃん。よう助かったのー」

「わしゃ死ぬるんだろうかの?」

「明日は学校へ行かにゃならん、荷物やリュックサック、靴などに名前が書いてあるか」

早く全快して、すぐ高田郡の高南村の親類へ行くのだから、しっかりしておれよ、と祖母がはげます。しかし本人は意識もうろうとしている様子である。

「田舎の高橋君はどうしたかの?」

「高橋よーい、高橋よーい」

高橋君は、高南村の高田鶴酒造業で有名な高橋宗貫氏の一人息子である。高橋君も原爆症で最期をとぐ。実父高橋宗貫君は、筆者の幼少時代の友人である。去る四月急逝す。
 
八月八日、九日となるにつれて、ほとんど昏睡状態を続け、九日にはもう、本人も死の予感があったものか、「もうわしゃ駄目じゃ、死ぬるんだろうて」と云って、物も言わなくなった。軍医は注射をしてくれるが、なんの変化もない。火傷は少しはカサカサと乾いたようである。
 
八月十日の夜になって急に容体が変化し、軍医も度々カンフル食塩注射をして下さった。そのたびに「いたいのー」とかすかに声を出すのみであった。
 
夜は灯火管制で、広い部屋に小さいローソクの火が一個あるのみ。間もなく空襲警報発令。真暗闇の中で容体は次第に悪化し、呼吸も困難。弘明や、弘明やと呼べども、もう返事もしない。時々「アーン」とかすかに声に出すのみ。祖母は抱き起すようにして、いま永眠せんとする初孫に向かい、「弘明やー。おばあちゃんと云って頂戴やー」と耳の傍で叫べば、ごくかすかな声で「おばあちゃん」と返事をする。冷たい水で口をうるおす。呼吸次第に困難になり、手先、足先などから次第に冷たくなり、遂に永眠した。大した苦しみもなく、自然と呼気を引き取る。
 
隣近所に居並ぶ付添いの人々も口をそろえて、大変に惜しい子供さんを失われたと、看護婦、軍医の人まで惜しんで下さった。

出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)四六~五七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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