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「星は見ている」堀輝人の転機 
堀 司郎(ほり しろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
故 堀弘明の弟 堀司郎

広島一中一年生であった堀弘明が原爆に被災し似島で探し出し、八月十日の死までのことを詳細に報告した父は一九九六年八月十五日九十歳で永眠しました。
 
父が残した弘明の学業成績などの中に当時のことを細かく書いた小さな手帳を見つけました。それを元にこの「星は見ている―熱い、体が焼ける」の原稿を作成したと考えられます。

戦後生まれの私に原爆の日の有様を教えてくれたのは、物心付いた頃より聞かしてくれた祖母の語りとともにこの「星は見ている」の文章でした。父は生涯、機会あるごとにこの体験を話し核兵器廃絶を訴えていました。
 
また、被爆したとき身に着けていた弘明のパンツは「中学生の半ズボン」として原爆資料館に展示され多くの来館者に原爆の悲惨さを訴えています。これも父の原爆への怒りと長男弘明を失った悲しさを示していると思います。

弘明より一歳下の次兄高壮は小学六年で直接被爆は免れましたが父とともに行動し放射能を浴びていました。くしくも、彼は父と同じく教職の道に進み高校数学教師として国泰寺高校に就職しました。彼は毎日一中慰霊碑の前を通り、学生に対して熱心に教育を授けていたと聞いていました。しかし、この在職中、癌という病魔が襲い、一時持ち直し井口高校へ転勤、癌の再発で一九八三年、五十歳で永眠しました。このこともまた父にとって衝撃であったのでしょう。一九九〇年八月七日中国新聞に次のように投書しています。
 
「知ってほしい被爆者の心を」
 
毎日曜日の朝、テレビ時事評論を欠かさず私は見ています。先般の放送で、四十五年前の広島へ投下された原子爆弾で多くの市民が無残な最期を遂げたことと、日本が米国の真珠湾攻撃とは同罪であると申されました。これは被爆者の一人として全く納得のできない暴言で、広島の被爆者の心を逆なでにする言葉であると思います。
 
私の長男は県立広島一中に四月に入学し、八月六日の朝、建物疎開作業中、被爆し一年生二百数十人と教師数人が無残な死を遂げました。当日、広島ではこうした学徒や市民の十数万人の被爆者がおられたことは、世界の人が認めているはずです。この事実をいくら戦時中とはいえ、真珠湾攻撃と同罪であるというのはいかがなものでしょうか。
 
子供を失った遺族は今は高齢化し、一人息子を失って気が変になり死没された遣族も知っています。またあの子が生きていてくれたらと泣き続けて、老後を寂しく涙と共にくらしておられる遺族も数多くあります。
 
日時のたった今日でも慰霊祭が母校で行われますが、両親は既に死没され本人の兄弟姉妹などが全国から参集して当時をしのびつつ、悲惨な爆死を思い出しては終生忘れられない遺族の心を知っていただきたいのです。
 
「原爆で二児をとられ この怒り 
     死すとも叫ばん核兵器廃絶を」堀 輝人 八十四歳

父の他界後一中慰霊祭への出席が途絶えましたが、私の次男健太郎が一九九八年国泰寺高校に入学しました。彼の希望で選択したのですが、祖父、叔父たちの導きがあったのでしょうか、不思議な縁となりました。その年より、毎年慰霊祭に出席し祖父、兄たちの御霊を思い、多くの人の犠牲で作り上げた平和のありがたさを思いこれからの私たちの務めを再確認させています。

出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(フタバ図書 昭和五九年・一九八四年)一九六~一九八ページ 

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