故 三保一心の母 三保アサヨ
昭和二十年八月六日、あの朝は大変朝寝を致しまして、これはおそくなったと、いそいで朝飯の支度にかかりました。前日芋床をあげました際、小さな新芋が五ツ六ツ出ました。それを、初物だからと、朝、お釜に入れ、一緒に炊きあげました。
朝食の支度が出来ましたので、一心ちゃん、御飯よ、と声をかけましたが、返事がございません。何しているのであろうかと奥の部屋に入って見ますと、死んだようによく眠っているのです。今までは一度も、朝、起したことのない子なのに、今朝はどうしたのであろうかと、あまりよく眠っているので起すのがちょっと可哀相な気がしましたが、学校におくれてはならないからと、からだをゆすり「一心、一心」と呼びますと、はじめて目をさましました。しかし、一心は起き出して時計を見ると、おそくなったと急いで登校しようとしましたので、御飯を食べなくては駄目、今朝は初芋が入っているんだからと云いましたら、台所に腰かけて、熱い御飯をふきふき食べ、食べ終るや、走って家をとび出しました。その直後、近所の伊達君が誘いに見えられ、いま行きましたと云いましたら、これも走って後を追いかけて行かれました。二人とも、これが最後の姿とは、誰が思ったでしょう。
それから一時間あまりして、広島を地獄の市と化せしめた原爆投下。あんな威力のある爆弾が出来ていようとは、夢にも思わなかった私たちは、てっきり広島の要所要所に爆弾が投ぜられたのであろうと思いました。仁保方面から見ましたら、皆実町の瓦斯タンクがやられたように見えますのです。
ちょうど当日は、山中高女在学中の姉が、皆実町の山陽工作に勤労奉仕に行っていましたので、安否を気づかって、主人は早速参りました。
行って見れば、山陽工作内は人一人いず、そのそばにうろうろしている人に尋ねましたところ、先生らしい人といっしょにみな逃げたとのことに、一応安心し、今度は一中へ行っている子供が心配になったので、一中へ行きかけましたら、消防服を着ていないといけないとのことに、一応家に着替えにかえり、すぐまた自転車で出掛けました。ですが、その時はもう火の海で、どうしても一中へ近づくことが出来ず、どうかしてと、いろいろに苦心したそうですが、方法がなく、富士見橋から引き返すことにしました。帰る途中、十四学級の藤井君が被服廠の側に倒れていられるのを救けて、自転車の後ろに乗せて帰ってこられました。そして、主人は、その足で中野の藤井君の家まで、無事に私の家におられるからと知らせてまいりましたが、まだ一心が帰宅していませんので、再び探しに行きました。
今度は収容所を探そうということになり、大きな声で「三保一心、三保一心」と呼び歩いたが返事なく、夜中の十二時頃帰って参りました。
翌朝は、明るくなるかならないうちに一中に行き、あちこち探しましたけれど、駄目でした。
それから毎日毎日、二十四日の間、あの子の着替えとおぶい紐、サイダー、ブドー、トマトなどを持って、夜の十時、十二時まで、あちこち探し歩いたのですが、今日もいなかった、今日もいなかったと、しょんぼりと帰って来られ、どこで死んだであろうか、さぞその時には父母の名を呼んだであろう、水が欲しかったであろうと、男泣きに泣いていられました。
主人は毎日毎日、屍体のみ、あれではないか、これではないかと触って歩いたので、ケロイドの悪臭が身体につき、帰って来ると、プーンと臭っていました。
幽霊は迷信だと、いつも馬鹿にしていた主人が、それからは、夜中の十二時、一時に起きて、せめて幽霊なりと出て来はしないかと、一中へ、三度も四度も参りました。やはり、なんにもいなかったと帰り、雨の降る日、こんな夜中に、昔から、よく幽霊が出るという話を聞いているからと云って、十二時に起きて行きましたが、なんにもいなかったから、今夜は思い切り「一心、一心」と一中の周りを大声をはりあげて呼んだが、やはり空しかったと、涙をこぼしていました。
思えば、三月十九日、あの子の試験発表の日は、広島の工廠が爆撃された日で、アメリカの飛行機が烏の群が飛んでいるほど空をおおい、耳をつんざくゴウゴウという音がし、これで試験の発表があるであろうかとあやぶんだくらいです。一心が入学の後は、中国配電、一中と、爆弾を投下され、三度目に原子爆弾投下。そして死。なんだか、あの子の運命は、暗い星の下に生れいでていたのではないのでしょうか。安らかに眠れと願うのみです。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)五八~六〇ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |