故 檀上竹秀の母 檀上貞子
嬉しいにつけ、悲しいにつけ、亡きいとし子を偲びつつも、はや九年の月日がたちました。
小学四年生のとき、岡山市から、山青く水清き山懐に抱かれた静かな瀬野村に転じ、宿望の広島一中にも合格し、次は江田島の海軍兵学校にと、大きな希望を抱いて元気に通学しておりました。
炎天下の勤労作業がこたえたものか、少し顔色がすぐれないのを、吉田先生が御心配下さって、二、三日休養して見よと言って頂き、土曜日、日曜日と休み、月曜日に、「竹ちゃん、今日どうする、もう一日休んで見るかね」と尋ねると、「もう、よう休んだけえ、今日は行くよ、みんな一生懸命やっとるのに、僕だけ休んだら一中精神に背くよ」と、五時の一番列車で出かけました。いつも瀬野から裸足で通学しておりましたが、その日は虫の報らせか、無理にズック靴をはかせて行かせました。
八時すぎ、裏の畠で仕事に取りかかろうとしたとき、雲一つないすみ渡った青空にB29の姿を見上げた瞬間、あの青白い閃光、パッと頬をかすめた一陣の風に、思わず顔をおおい、次に来るものの予想がつかぬまま、夢中で家にかけこみ、不安の数分を過しました。
ふと西の空を見ると、橙色の入道雲が、だんだん大きくひろがっていきます。それがちょうど駅前あたりに見えるし、また、山の中腹には落下傘が二個、フワリフワリと飛んで行きます。
近所の人が「あれは時限爆弾ですけんのう。あれが落ちたところで爆発するんですで」と云い、集まった人々はいろいろ取沙汰しておりました。
ほかに、小学校に行っている子供もあるし、気にかかるので、防空頭巾をもって駅の方へ走りました。村役場の前まできたとき、役場の人が、「あれは爆弾の空中作裂ですけんのう、坊ちゃんは大丈夫でさあ。ここからも村長さん以下四十人が勤労奉仕に出ておられますが、沖の方は心配いりませんよ」と、ここでも思い思いのことをいいあっておられました。そうかしら、そしたら、あれは一体なんだろかと、不安の中を一旦家に帰ったものの、落ちつかず、ソワソワしていると、次々に広島の情報が伝えられ、勤労奉仕に出ていた人が、顔から手から焼けふくれて、着ていたシャツを頭からかぶり、痛々しい姿で帰って来るではありませんか。
やがて婦人会へ炊出し命令が出て、近所の人と集まりましたが、竹秀のことが気にかかって手につかず、後を頼んで家に帰り、大急ぎで麦飯を炊き、草履を二足、リュックサックに押しこんで一目散に駅へかけつけました。
駅へはもうたくさんの人がつめかけていましたが、広島へは警防団以外は一切入れないとのことにがっかりしていると、列車が入り、顔や手や背に火傷をうけて真黒になった人たちが降りて来ます。
その中の学生さんをつかまえて、一中の様子をきくと、「小母さん、一中は全滅よ」と言います。私は、放心したようになりましたが、でも、なんだか竹秀は、生きて帰って来るような気がして、石の上に腰を下ろして待っておりますと、六時頃、誰か、「奥さん、坊ちゃんはいまトラックで、血みどろになって帰って来られましたよ」と、知らせて頂き、嬉しいやら、心配やらで、大急ぎで国道へ出て、トラックを追いかけました。大勢乗った中から私を見つけて、「母ちゃん、心配せんでもええよ、僕は大丈夫じゃけん。先に帰っとるけん、後から帰りんさいよ」と反対に励まされ、私は泣きながら手をあげて応え、言葉は一言も出ませんでした。
気は焦ってもなかなか足が運べず、やっと家に帰るなり、人前も憚らず親子抱き合って、大声をあげて泣きました。頭から顔から纏帯をして、血とほこりとが、からからに乾きついて恐いような顔になっていましたが、元気なので、安心しました。興奮しているので、少し休ませようとしましたが、次々と、わが子の安否を尋ねに同級生の父兄の方が見えたり、近所の方々がお見舞に来て下さるたびに、自分で様子をお知らせしていました。瀬野からの四人の通学生のうち、一人だけが、生きて帰ったのです。
校舎の下敷きになった瞬間、夢中で足にさわったものをけりあげ、肱で瓦を割り、やっと出られるくらいの穴を造って、竹秀が一番にはい出し、次々に出て来る人を引っ張り出してあげたけど、出るとすぐ死んだ人もあったそうです。
宇品の方に火が見えないところから、その方へ走る途中、咽喉が焼けつくようで、行きつく先で水をのむと、何か変なものが口から出た。毒が出たんじゃろうかと、心配しておりました。大河の国民学校で傷の仮手当をうけ、軍医から少し休んで行けと言われたけど、母ちゃんが心配するからと、そこを抜け出たそうです、ある親切な方から、黄粉むすびと、渡賃にとお金を一円と、その当時としては貴重品の純綿のシャツを頂いて頭にかぶり、憲兵さんに乾パンを貰って、やっと、向洋へ渡り、そこから西条行のトラックにのせられたのです。
その翌晩は、岡山の医大医療班が瀬野へ宿泊されたので、診察をうけ、傷口から、ガラスの破片を取り出して頂き、この上は栄養の問題だから、出来るだけ栄養を取るようにといわれました。
そのうち下痢がおこって大変心配致しましたが、幸いにそれも止まり、果物、とくにトマトを、非常にほしがりましたけれど、なかなか手に入らず、近所で御無理をお願いしてやっと分けていただくと、そのトマトをむしやぶりついて食べました。傷は、頭と頬とに、七カ所の裂傷で、一日一回、村の保健婦が手当に来てくれましたが、どうしても血がとまらず、纏帯を取り換えるたびに、ついて抜ける髪、注射をすれば血が吹き出し、頭は少しずつはれて来るので、心配で心配で、本当に不安の明け暮れでした。
主人は向洋の鉄道教習所から、まだ熱くて入れない中を、鉄カブトで水を浴びながら、一中ヘ一番にかけつけて、続いて来られた野口さんのお父様と、探して歩きましたが、竹秀が見当らず、下敷きになった白骨や、プールに浮かんだ死体を見ては、とても竹秀が生きていようとは思われず、諦めて家に帰って来たのでしたが、思いがけない竹秀の姿に、びっくりして、「よくがんばって帰って来た。これから先、何事もこの元気でがんばるのだぞ」と、あの強気の主人も、男泣きに泣きました。自分の子供だけ帰って来だのに、じっとしていては済まないと、隣組の人や知人の消息を探しに、毎日出掛けました。
そのうち、同級生の梶原さんの御遺骨を持って帰ったとき、やがて自分も後を追う身とは知らず、「自分が一人生き残ったんじゃから、早うようなって弔合戦するんだ」と泣いておりました。
十五日の陛下の重大放送があったとき、家のラジオが、原爆以来故障のため、隣できいて帰り、「母ちゃん、日本は降参したんじゃろうか、僕は信じられんのじゃけど、母ちゃん、もう一ペん小母さんに、きいて見んさいや」といっておりました。
栄養を取るにも、何一つなく、十七日頃から気分が重くなり、「母ちゃん、今日一日仕事せんと、僕と話をしようや」と云い出し、私も一緒に寝ころんで、三原の附属幼稚園時代からの思い出話に、一日を過し、「一中の校歌を知っとるか、唄って見んさい」というのに、「鯉城の夕、雨白く……」と唄ってやると、満足そうにきいておりました。
翌日は、頭が桃のうんだのを押えるようにはれて来たので、主人も心配して、村に一人の老医の許へ、おんぶして連れて行きました。すると、どう感違いをしたものか、傷口の骨を、ガラスの破片が残っていると云って切開しましたが、結局何もありませんでした。その時の苦痛は、傍で見ていられませんでしたが、後で縫うても血がとまらず、貧血をおこして連れて帰れなくなり、近所の人のお世話になって、タンカで静かに静かにかえりました。
その晩は大変苦痛を訴え、あまりに可哀そうなので、夜中の淋しい田舎道を、淋しいとも思わず、医院へ走りました。やっと起きてくれましたが、痛止めの薬もなく、一晩中、苦しみ通して夜を明かしました。食慾もなくなり、それから、四十度の熱がつづき、二十三日には、とうとう三原の外科病院に入院することにして、復員でこみ合う列車に、車掌さんの厚意で、荷物車へ、タンカのまま乗せて頂きましたが、西条あたりから、顔がはれ出し、夕方三原へついた時には、仁王様のようにはれてしまいました。
いったん、親戚へ落ちつきましたが、翌朝は容体が悪く、早速入院して、氷で一生懸命冷し、松永の駅長さんのお骨折で中外製薬の薬を次々に送って頂き、出来るだけのことを致しましたが、二十五日には、危篤におちいってしまいました。
頼りに思う医者が手当がわからぬ有様なので、心に神仏を頼みながら寝ずの看病を続けました。
そのうち、ふと大きな目を見開いて、「先生、車を借りました」というかと思うと、「母ちゃん、ここはどこ?」
「三原の病院の病室よ」
「うそ、違う違う。こんなにガラスや、瓦や、石ころがあるのに」
「父ちゃん、はよう瀬野へ連れて帰って。機関車が入った、母ちゃん、早う乗りんさい、早う、早う」
また、死の二時間ほど前、主人が、「竹ちゃんよ、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんのところへ行くか」というと、「父ちゃん、僕は死にゃあせんよ」と云いつつも、呼吸は乱れ、歯ぐきからは魚の腸のようなものが次々出て、よく見ると、あちこちに、斑点も出ています。
医師に、輸血をしたらと相談してみましたが、もうこれ以上の手当はない、輸血の必要はないだろうと云うことでしたが、後で聞けば、輸血とビタミンの補給よりほかに手当はなかったとのことで、宿命とはいえ、諦め切れないものがあります。
一時間ほどたった時、苦しい中から突然、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と御念仏を、切れ切れに唱え出し、私はたまらなくなって、「竹ちゃん、もうそれで充分よ、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんのところへ行って、まっていてよ、父ちゃんも母ちゃんも後から行くからな」というと、握った私の手から、懐へ手を入れました。
「父ちゃん、母ちゃん、お大事に、満十三歳、広島一中、檀上竹秀」という言葉を最後に、大往生をとげました。二十八日午前一時十分。静かな静かな、立派な臨終でした。
夢にでもと姿を求めますが、九年の間に、二度見せたきりです。
もし、あの時、一籠のトマトがあり、輸血をしていたら、あるいは、助かっていたのではないかしらと、いまだに帰らぬ愚痴をこぼしては叱られております。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年) 六二~六九ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |