故 花谷一良の父 花谷本六
次の一篇は創作風に書いて、昭和二十三年七月、警察機関雑誌「いづみ」に掲載されたものです。
正月の楽しかった冬休みもすんで、どの学校でもいよいよ三学期の授業がはじまった。わけて六年生ともなれば、早くも上級学校の選択をしなければと、受持の先生も父兄も、子供の将来を想い、心配事が増すのである。
広島市の南の端にあるM国民学校でも、進学する児童の上級学校の選択がはじまったのも当然である。
松の内も過ぎたある日のこと、警察部のB課に勤務している宏平が、わが家に帰ると、妻の芳江は「お父さん、一良が学校から帰って、先生が一中へ入るのはむずかしいからやめなさい、そのかわり附中を受ければ必ず合格するから、家へ帰ってお父さんに相談しなさい、と云われたが、あの子は他の者に負けはしない。どうしても一中を受けてみせると、今まで泣いていたのですよ」
「一良や、なぜ先生は一中をとりやめと云われるのか」
「お父さん、六年生で一中志望者がたくさんあったが、先生が十三人に減らされ、他の学級では四人受けるが、そのうち二人は、兄さんが一中の上級生で合格するのは間違いないが、君は万一落ちた時が可哀相だからと云われるのよ」
宏平は、こうした先生の心遣いに感謝せずにはおられなかったが、一良の意思にも逆うことが出来ず、子供の将来のことを思い、また、一良はM校の秀才児として常に優等の成績で、先生の信用も厚く、六年生の二学期には全国優良健康児童として表彰されたほどで、わが子のすべてを知っていたので、一良なら、一中でも間違いなく入れると信じていた。
その後、先生も他の先生を通して、一良に附中を受けるよう説得されたが、依然として初志をまげない意志の強さに、父母も感心して、一良の思うままに進ませることにした。
ある日のこと一良は、
「お父さん警部試験は何時あるの。お父さんも長く警察にて部長では駄目じゃ」と云えば、父の宏平は、
「お父さんは部長でよいのじゃ。日本一の巡査部長になるんだから」と云った。
「では、日本一の部長になる自信があれば、警部補になれるじゃあないの。僕はお父さんが許してくれた一中へ試験を受けるから、お父さんも近く試験があれば、どうしても受けなさい。僕と競争をしよう。お父さんが本を見なければ、僕も張合いがないよ」と一良は淋しそうな表情であった。
宏平は、警察に職を奉じて十九年になるのに、一巡査部長としてみずから甘んじ、他の人々の栄進するのにも気をとめず、平凡な勤務をしているのである。負けず嫌いの一良は、歯がゆく感じていたこともよく知っていた。長男として生れた一良が、将来を約束される重要な時に、この淋しい気持を朗らかに、そうして力づけるのには、今まで受験すまいと思っていた宏平も、一良にひかれて考試試験を受けることになった。
「一良や、お父さんが間違っていた。お父さんも一生懸命勉強して必ず合格してみせるから、あんたも負けないように勉強しなさい。あんたが云うたように競争をしよう」と云えば、一良はさも嬉しそうに頷いた。
それからの宏平は、一良の前途をおもう一念から、苦しい勉強をするようになり、硬直した頭にもその跡が残るようになった。
そうした苦闘が報いられて、宏平は一良が待ちに待った考試試験に合格し、その月の終りには警部補に任官して広島からほど近いK署に勤務することになった。
一良の喜びはたとえようがないほどで、母は「こんどは一良の番よ。お父さんに負けないようにね」と優しく励ますのであった。
その年の三月中旬に、いよいよ一中の入学試験ははじまった。
他の子供は大抵親に附き添われていたが、一良の父はあくまで独立独歩の精神を通させようと、附添いもせず、先生に頼んで、励ましながら見送った。
試験の結果が発表されて、M小学校受験者十三名のうち九名が合格し、一良も、見事栄冠をかち得た。互いに励まし互いに競争した父と子は、おのおのその目的を達したのである。
小学校を終えると、一良は母や弟妹と、父の住むK町へ移って、一家揃って楽しい日が続いた。若草の萌える四月、一良は母と弟妹に附き添われて、大きな希望を小さな胸に抱き、入学式に臨んだのである。栄光さんと輝く一中の帽章は、一良の戦闘帽につけられた。時に十四才であった。
「一良や。あんたも知っている通り、一中はこれまで大臣や偉い人をたくさん出しているから、これらの人に負けないように、また、学校の名誉を汚さないように、しっかり勉強しなさい」父母は大きくなった一良の頭から足の先までじっと見つめるのであった。
その頃、戦争もいよいよ悽愴苛烈となり、鳴り響く警報下で、一良ら幼い学徒まで、今日は何々の作業にと動員されて、勉強は名ばかりであったが、一良は作業で疲れて帰っても、すぐ机にもたれていた。
ある日のこと「お父さん、一良は学校から帰るとおやつをくれとねだっていけませんから、よく云い聞かせて下さい」
「一良や、お互いに国民は不自由を忍んで職域に奉公しているのだよ。それがわからんようでは、一中の名を損うことになるから、今日限りやめなさい」宏平は、今までにない怒りを含んだ口調で叱りつけた。一良は机に向かっていたが、父の怒気が障ったか、振り返って泣きながら、「僕はやめるよ、僕はやめるよ」と言った。
宏平は、今の叱り方は過ぎておった、一良の弁当のほかはほとんど薄い雑炊で、空腹になってねだるのは無理はない、と心の中で詫びるのであった。
妻の芳江は、一良に向かい、「お父さんが警察に出ていれば、闇買いもできないから、我慢をしなさい。お父さんはひどく叱られたが、気にしないように勉強しなさい」と父に告げたことを心で詫びて、優しく諭すのであった。
「お父さん、今日、先生が将来の希望を書いて来いとこれを貰ったが、僕は科学者になる。科学の遅れた国は、何にでも負けるから、この欄へ科学と書いてよ」一良が小さい時から科学の本をよく読み、僕は立派な科学者になるんだと何時も云うておったから、宏平は希望欄へ科学と書いてやった。
「お父さん、今日希望を申し出たら先生は、他の子供は皆軍人になると云うのに、君一人、科学者になるとは変っているね、と云われたよ」
母の芳江は広島が空襲されねばよいがと、毎朝不安そうに見送るのである。途中で警報が鳴れば、先生に許されていたので、低学年の一良は帰って来ることもたびたびであった。
「お父さん、今日は土曜日で早く作業が終ったから、一緒に水泳をやらない」
きん吊一つで日焼けした体を川辺にもたれて父を見上げた。宏平は二、三年水泳をしたことがないのに、どうしたものか、一良が乞うままに家の前の大川の淵に飛び込んだ。
「お父さん、水入をするよ、こんどは石拾いをする、今度は何泳ぎ」などと、あまり上手でもない妙技を見せていた。
「こんどは水かけをしよう」これには宏平も閉口したが、仕方なしに水かけをはじめた。すると、弟の幸一と妹の菊江もかけつけて来た。芳江は川べりから面白そうに眺めていた。
蟬が鳴きやんで長い夏の日が暮れると、毎夜のように母の芳江は、「今晩も警報が鳴るから、早く休みなさい。一良ちゃんは明日も作業があるからね」と促すのであった。
その晩空襲警報が鳴り響いて、宏平はK署へ、芳江は身支度をして、何時もなら子供を起すのであるが、一良の作業の疲れを思い、眠らせてやろうと、すやすやと眠る子供らを見守っていた。
八月六日の朝、一良は裏庭で、「今日は作業が七時にはじまるのだ」と小さな足に急いで巻脚絆をつけながら、何時もと違った力なさそうな口調で、「お母ちゃん、僕は頭が痛いよ」と云う。母の芳江は、日にあてられたか、毎日の水泳で風邪を引いたのであろうと思い、「頭が痛ければ今日は休みなさい」「休んではいけない、僕は行くよ」と低い声で母を顧みた。
「それでは仁丹をあげよう」と少しの仁丹を与えると、何時ものように戦闘帽にリュックサックを背負い、「行って参ります」「では怪我をしないようにね」母に優しく言葉をかけて出て行く、大きくなった頼母しいわが子の後姿をいつまでも見送った。それからまもなく、突然鋭い閃光に続いて、一大轟音が起った。
ああ、広島がやられたのではないか、刻々に伝わる広島の惨害に、一良はいま何処におろうかと、不気味な予感がおそいかかって来る。探しに行ってやりたい。いま、一良は父母や弟妹の迎えに来るのを待っているだろう。思えば立っても坐ってもいられない。だが宏平は、職務上、わが子を顧みる余裕もなく、送られて来る悲惨な人々の看護に、いまはどうする術もない。一良や許してくれ。お父さんは行かれない。
妻の芳江は、その翌日からただ一人で、今日はあの島、この病院、明日はあの収容所と、わが子を探し求める人々とともに、狂人の如くさまようこと幾日か。宏平も勤務の余暇を得て、せめて一良の最期の地たりともと、収容者の名簿を探し求めたが、それも遂に空しく、今は絶望のどん底にたたき落されたのであった。
科学者にならんとして、偉大な科学の力によって死んで行った一良、宏平は、あまりにも運命の神の悪戯を呪わずにはおられなかった。一良に乞われるままに、受験のために相励まして競争したことや、たったこの間何年振りかで、恐らくはじめて親子が水かけをして戯れたことなど、過ぎ去った思い出が走馬灯の如く脳裡を去来するのである。
一良は、いまは、多くの学友や、ともに死んだ人たちとともに、世界平和の礎となって、香煙立ちこめる広島の供養塔の下で眠っているのである。取り残された父の宏平は、希望を失って淋しい中にも亡き一良に励まされ、広島に近いT町で、一良や学友、市民の人々の冥福を祈りつつ勤務にいそしんでいる。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)九〇~九六ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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