故 正木義虎の父 正木生虎
かつて義虎の誕生日に、私は冗談半分に、
父に似て子の質おかし青嵐
と駄句りましたところ、子供としては、こんなつまらぬ親にでも、親に似ているということは嬉しいことか大層喜んでくれました。
「子の質嬉し」とも「楽し」ともせずに、「おかし」としたのは、せっかく似てくれた父には長所よりも短所の方が多いからなんだよと申しましたが、それでもいいのだと申して喜んでおりました。
事実、義虎は、顔は母によく似ておりましたが、性質は私そっくりと申すほどでした。ごく最近まで、妻はよく、「義ちゃん、あんまりのんき過ぎる」とか、「もっとしゃんしゃんなさい、だらしないじゃありませんか」とか、「男はもっと覇気がなくてはいけません、暇さえあれば朝から晩まで本を読んで、家の中にばかりいるけれども、時には外に出て元気に遊んでおいでなさい」とか申して、義虎をたしなめておりました。
「学校へ行って参観していても、体操の時間など、義ちゃんのぐにゃぐにゃした手の上げ下げを見ていると、お母さんまで恥ずかしくなるくらいですよ」と申して口惜しがったりしました。
そして私へは、「どうしてあんなに張合いのない性質なんでしょう」と、こぼしたこともありましたが、私は、「ナニ、人間というものは、小さい時から完成した性質を持ったままで大きくなるのではなく、種々な過程を経て完成するものだから、もっと大きな眼、長い眼で見てやらなければいけないよ。ただ、正しい道に外れないように、このことだけは、親として厳重に監視している必要がある。正邪の判断力をしっかり与えるようにしておけば、それからあとのことはだんだんとよくなると思うね。大人になってからは、結果ということがすべてを支配することもあるけれども、子供の間は、動機さえ正しくあり、善であるならば、結果はたといまずくても、それは大目に見てやるべきではないだろうか」と義虎をかばいながら、なんだか自分自身の弁解をやっているような自分に気がついて、おかしく感じたことがあるくらい、義虎は私の幼時にあまりにも似た性質をもっておりました。しかし、正しいと知ってこれを踏み行う実践の点では、私より勇気があったと思います。
それは、私が鎮海要港部の参謀をしている頃ですから、義虎の六つか七つの時ですが、鎮海の町にお寺の住職を園長とする小さな幼稚園がありましたが、そこに入りたいと申しますので、それでは自分で規則書を貰って来、また、願書は書いてあげるから自分でそれを持って行って、入園をお願いしなさいと申して、後ろから見えかくれについていって様子を見ておりますと、なんら悪びれるところなく、どんどんと幼稚園に入って目的を達して来ました。
これについて私の思い出しましたことは、私が小学校の四年か五年の頃と思いますが、その頃は東京の牛込におったのですが、父に、イーストレーキ先生のところで子供にも英語を教えて下さるそうだから、二人で行って様子を聞いて来なさいと、十二郎という、私のすぐ下の弟と二人に云いつけられて、その家の門のところまで行ったのですが、「十ちゃん、中に入って聞いて来いよ」「兄さんだもの、兄さんが行かなくちゃ」と譲り合ったあげく、とうとう目的を達しないで帰って来て、父にひどく叱られたことを思い出して、これが親馬鹿と申すのでしょうか、こんなわずかなことにも、この子は、自分よりすぐれていると思って喜んだものですが、この実践力は沖山先生の御指導を受けるようになってから、目立って発達して来るとともに、最近の一、二年になって、態度の上にも多少しっかりしたところが現われて来て、妻も、以前のようにだらしないこと、姿勢の悪いこと等について、こぼさなくなりました。
夜泣きするうないなりしぞ寒稽古
鎮海以後、戦隊参謀として海上勤務を続けていた私が、大東亜戦争勃発直前、皇族附武官として東京に勤務するようになって以来、約四年間、海軍士官としては珍しく子供たちと親しく朝夕を送ることが出来、またこの期間は、沖山先生の御苦心がようやく芽を吹いて、義虎もどうにか諸君に伍してついて行けるかに思われるようになって来た時でありますので、私としては、誠に思い出深い期間でありますが、おそらく義虎としても、思い出の多い期間であっただろうと思います。
身を鎧い百合の芽土を貫きぬ
時には出勤の途次、少し廻り道をして第一師範のあの蔦の塀に沿って子供を校門の近くまで送って行ってやったこともありましたが、こんなことも、家庭に親しむ機会の少なかった私としては、楽しい思い出の一つです。
校門や父子別るる蔦のみち
そのうち戦局は遂に、次代を背負う少年諸君の疎開を必要と考えられるようになり、義虎も学友の多くの方と一緒に、浅間温泉に疎開することになりました。
旅の子のねむり安かれちちろ虫
疎開先ではどんなにしているだろうと気にかけておりましたところ、沖山先生の御膝下で暮せないのは残念だけれども、先生や友達と愉快に暮しているから御安心下さいとの手紙が来て、大いに安心しました。そして当時種々の問題を残していた集団疎開も、先生方の御努力によって、きっと完全なものになることを信ずるとともに、協同生活によって義虎の得るところも多かろうと思いました。
みすずかる信濃高原吾子の秋
ところが戦局はますます重大化して、私の仕事も毎日家から通勤することを許されなくなり、役所に近い第一ホテルの一室に泊り込んで、そこから役所に通って仕事をすることになりました。そのため、いわゆる一般的の疎開の意味をも含めて、家族を広島に疎開させることになり、義虎も浅間から引揚げて広島に行きました。
広島師範の附属には東京第一師範附属からの転校というのですぐに入れて貰えました。この学校は広島の郊外に在り、後ろには猿猴川という太田川の支流が流れ、前は一面の畑です。そして義虎たちの移った家は、この畑の南の端に、学校は北の端にありました。義虎は毎日、弟の孝虎と妹の和子とを連れて、枯蓮が茎ばかりになってへし曲ったり折れ下がってうっ伏したりしている道を、泥田の間の道を、それから葱や唐菜の畑の中を、やがて葡萄棚の下の道を真直ぐに二十分ばかり、吹きっさらしの北風を真ともに受けながら学校に通いました。途中で、附近の市立国民学校の生徒、ことに朝鮮人の子供にいじめられる妹や弟の友達などをよくかばってくれたものでした。
学校では、沖山先生の御教育の結果、国語や綴方に余力があったので、その余力を自分のあまり得意でない算数と体操に傾注して、算数の力はめきめき向上し、体操も木馬で向うずねを黒じにしたりしながらも、随分高い木馬も飛び越えられるようになり、自分自身の持っていた力に自分ながら驚き、また喜んでおりました。
義虎からの手紙で、いま残っているもののうちから、その頃のものを抜き出して見ますと、
十九年十月二十七日附で、
「お手紙有難う御座います。お母様も僕も孝虎、和子、成虎みな元気でその日その日を送っています。昨日は和子ちゃんのお誕生日でした。沖山先生とは二回ほどお手紙をやり取りしました。先生は一生の恩人ですから、これからいつまでもお手紙を差し上げるつもりです。そちらは随分空襲が多いでしょう。お体に気をつけられ、爆撃を軽視して犬死などしないで下さい。ここの学校へ来て一番困るのは、運動がとても進んでいることです。しかし沖山先生の『ふまれても根強く忍べ道芝のやがて花咲く春は来ぬべし』のお言葉を思い出して、一生懸命やります。では、くれぐれもお体を御大切に、さようなら」
また、二十年二月三日には、
「お父様お元気ですか。家の者みな元気ですから御安心下さい。今日学校で寒納めの駈足がありました。道順は学校→的場→専売局→広陵中学校前→丹那橋→楠那→仁保→学校と数粁の道をかけて鍛錬しました。汗びっしょりになりました。途中『陸軍特別攻撃隊一宇隊陸軍少尉大谷秋夫君生家』と書いた柱が立っていました。古い二階家でした。拝んで通りましたが、感慨無量でした。これからもまだ寒いですから、お体を御大切に。さようなら」
広島附属での受持の先生は早瀬先生と云う方でしたが、その先生の申されるには、「正木は、広島高師附属にもどちらにでも入れると思うが、どちらにするか。正木の特質としては、附属向きだと思うが」とのことだったそうです。そのことに関して妻から私の意見を聞いて来たので、私はどちらでもよいけれども、一中の方が素朴、剛毅の気風が一層濃く、肉体的にも精神的にも鍛えられることが多かろうから、軍人を志望する義虎としては一中がよろしかろうと返事をしました。義虎も「ぜひ、お祖父様の在校された一中に入りたい」と申して、他の軍人志望の友達とともに一中に受験しました。
一中入学の発表された日は「道芝の花が咲いた」と云って非常に喜んだそうです。そのうち広島も危険になりましたので私は、母と妹一家を厳島の対岸の大野村の、山の中にある別荘へ、また、妻子をその隣の玖波町に在る本家の二階へ移すことにしましたが、義虎は既にこの戦争における予備隊ではない予備隊の待機位置から、最前線に馳せつける途中にあるのだという私と義虎の一致した考えによって、そして一刻も早く最前線に到達して国難に当らせるために、また当るためには、年来の希望である海軍兵学校を、幼年学校志願に変えることさえ決心して勉学に励んでおりましたので、義虎は一人だけ広島に残ることにしました。そしてちょうどその頃、私の叔父が広島控訴院検事長として広島に転勤して来ましたので、その官舎に義虎をあずかって貰うことにしました。検事長官舎は、京橋川が猿猴川を分流する分流点の少し上流の川に沿ったところにあり、泉邸という浅野侯爵の邸に隣り、大きな竹藪などのある古風な広い家でありました。
義虎は一体に、誰にでも好かれ、可愛がられる子でしたが、そこでも可愛がられて、楽しい生活をしておりました。
東京の家では、家が狭いので、箱につめたまま押入の中や部屋の隅に積み重ねてあった祖父と父との集めた書籍、それは引越のたびにいつも母の苦情のもとになった数十個の木箱の本も、いよいよ玖波への疎開の時運びきれないで、焼いてしまったそうですが、その時義虎に欲しい本は上げるから勝手に選び出しなさいと、妻が申しましたところ、大層喜んで木箱の蓋を開けて、中から出て来る一冊一冊の本に眼を輝かしながら選び出し、これを木箱五、六個につめて官舎に持って行きましたが、その本を、書斎として貰った八畳の間に飾って、僕の宝だと申しておりました。
官舎には、中学校の友達がよく遊びに来たそうで、その時は、「叔父様が来客に会われる時のように、応接室にお友達をお通しして、アームチェアにちょこなんと腰をかけ、愉快そうに話をしていらっしゃいますが、やがて書斎に行って、御自慢の本を見せたり、裏の川へ行って一緒に泳いだりしていらっしゃいました」と、空襲に生き残った叔父の家のばあやが申しておりました。
そして、「いつもおとなしくにこにこしていらっしゃるのに、時々滑稽なことをしたり云ったりされて、皆様お腹をかかえてお笑いになるようなことがありました。いつかは、旦那様をたずねておいでになった検事さんが、玄関のベルを鳴らされたのを、お友達かと思ってお座敷に掛けてあった天狗のお面をかぶって玄関に出られたので、ドアーを開けた途端に検事さんが大変びっくりされて、そのあとはみんなで大笑いでした。ほんとうに面白いお坊ちゃんでした」と申しておりました。
その頃の義虎の手紙には、
五月八日に、
「お父様お元気ですか。僕は中学へ入ってから一遍も病気をしません。四月二十九日にお母様たちが玖波に行かれましたが、ちっとも淋しくありません。(中略)ここの官舎はとても広くて、裏は竹やぶになっていて筍がたくさん生えております。三十日、こちらは空襲で投弾しました。詳しいことは言えませんが、中国配電に落下、また、一中の物象教室の側にも一弾命中して崩壊してしまいました。祖母様の家は少しゆがんでしまいましたが、幸い御無事でした……(と早速祖母の家にかけつけて見舞った時の様子を書き)もうすぐ水泳がはじまります。裏の川(京橋川)で練習して、今年こそ本式に泳げるようになろうと思います。(後略)」
五月十六日には、
「(前略)僕の学級は第十四学級と言って、先生は広沢貢先生とおっしゃる方です。とても朗らかな先生です。この間あった算数の考査は、惜しくも九点でした。十点が三人しかおりませんから、まあ褒めて貰ってもいい点です。しかしだんだんむずかしくなって来るので油断は出来ません。昨日の英語考査は完全に出来たと思います。ナイフで傷つけたより深く切りつけたと思います(なんのことだか判りますか?)(中略)学校では名前はもちろん皆おぼえたし、よく遊びもして、時々は喧嘩までする始末です。いま一番力を伸ばそうとしているのは数学と体操であります。(中略)祖父様の名で先生からも友達からも注目されています。
言いふらしもしないのに、友達はどこから聞いて来たのか、『中将』『中将』などと言うので閉口です。ではお体をお大切に、盲爆に御用心」
五月二十二日には、
「(前略)戦局ますます重大な秋に当って、一中では軍事教官深町中佐指導のもとに、本土決戦において米英を撃滅する準備を着々と急いでおります。例えば手榴弾投げの練習として、安全弁を噛み切り、叩いて四秒のうちに破裂しますから、破裂しないうちに敵に投げつけ、敵がひるんだところを白兵戦で銃剣突撃をやるのです。
遊び時間でも鋲の附いた靴をはいて竹登りをしたり、相撲をしたり、また、学校の行き帰りも駈足をしたり、リックサックの脇にバンドを附けてぶらぶらしないように工夫したりしています。これは、前線へ弾薬等を運ぶ時にぶらぶらして速力を落すことのないようにするのです。(後略)」
そして私か呉へ出張したついでに義虎と会った、その最後の別れの後、義虎から来た手紙は、八月三日夜認めたもので、広島空襲の翌日、すなわち八月七日に私の手に届いたのですが、この手紙は今までの子供らしい手紙とは思われないくらいのもので、その心底を吐露した健気な内容を見て、私は誠に心打たれる思いでした。手紙は主な単語はすべて英語で書いてありましたが、訳して書いて見ると、次のようになります。ただ広島駅で最後に別れたその別れるという言葉にBreak offという字の使ってあったのには、この手紙を手にした時、義虎の生死を心配していた最中であっただけに、私はなんとなくドキッとしました。
「拝啓、お暑くなりましたが、お変り御座いませんか。今日の新聞を見ると、東京にも敵機が襲来して来たようですが、お障りは御座いませんでしたか。学校は毎日のように教練です。
八月から第二学期がはじまりました。
馨叔父様が間もなく幼年学校の疎開先から休暇でお帰りになります。昨日大叔父様が放送されました。この間、純忠と半紙に大書したのを勉強室の壁に貼って置きましたら、ナカさん(家のばあや)が『マアお見事な字でしょう、なんてお利巧なことで御座いましょう、ハアハア』と感心していました。
これはお父様だけにお話するのですけれど、あの玖波からの帰り、一緒に広島まで来て広島駅でお別れした時、どうしたのか官舎に帰り着くまで涙が出てしようがなかったのです。決してこちらの生活か不愉快なわけではないのですが、お別れするのがとても淋しかったのです。このようなことは手紙であるが故に書けるのですが。
次に僕は今、全力を尽して親孝行をしているつもりです。もちろん、それが子供として当然のことですが、この頃になって、やっと両親のためには水火も辞さぬと強く思うようになって来たようです。
僕はとてもお父様を優しいと思い尊敬していますから、どの友達へも『日本中で家のお父様より優しいお父様いるかなァ』と言ってお父様自慢をはじめます。お父様に対してこんなこと書いてお父様が果して喜ばれるやら悲しまれるやら、あるいは怒られるやら僕にはわかりませんが、きっとお父様は笑われるでしょう。しかし、笑われたって構いません。僕は真面目なんです。こんなこと皆に言いふらさないで下さい。これは日本中に一人お父様にだけ打ち明けた話なんですから。これから大切な話になるのですから、失礼ですけれど英語で書いて誤解されると困りますので、英語で書くのは止めます……(と自分の両親に対する気持を書き、続いてお父様、お母様の、お祖母様に対する態度を見るに、お父様の孝行振りには敬服するが、お母様のお祖母様に対する孝行は外形的には非の打ちどころがないけれど、内容的に精神的にはもっと深く心から孝行をされる余地があると思う、そういう風にされたならば、お母様の孝行は評判になり、そのためにお父様の人格から後光が出るだろう。お父様もそんなことをお母様に言うのは言いにくいかと思うけれども、自分は親のためには水火も辞さぬと覚悟しているのであり、お母様に対しては一時は失礼にあたるかもしれないけれども、そうすることがほんとうの孝行だと思うから、今度玖波に行ったら、お母様に申し上げて見ようと思う)という意味のことを書き、(最後に)もう二十一時が鳴りました、お父様にまで御説教を聞かせて御免なさい。(と結んでありました。)」
そしてこれは、義虎没後のことになりますが、この手紙を見た池上本願寺では、これは既に童子の思想ではないと申して、一たん決った秀岳日義童子という戒名を信士号に昇格して、純徳院温清日義信士と改めてくれました。岡山、呉と中国地方の都市も次から次と壊滅せしめられ、広島の運命も時期の問題と思われました。しかも、まさか原子爆弾が、こんなに早く出現しようとは思いませんでしたが、呉に対する空襲から考えても、何か新手の攻撃をやるものと思われましたので、私も官舎にいて空襲に会った時は、その時の風向きによってこれこれの処置を執れと申し送り、義虎も指示された方法のほか、筏で川の中に避難することも考えて、その筏も用意してあると返事をよこし、敵の攻撃は待つあるの姿勢で待ち受けておりました。
ところが思い設けぬ原子爆弾の攻撃でした。私は爆心から六、七百メートルのところにある一中、しかもそれは、明治初年からの学校でほんとうに古い校舎ですので、爆心から二粁以内の人畜は全滅と称せられる今回の空襲下において、万に一の生存の公算もあるまいと考えて覚悟はしましたが、この炎天下に路傍で腐爛し、あるいは野犬の貪り食っているであろう愛児の姿を想像すると、いかにも耐えられない気持がしたので、妻に、広島まで十五里あるか二十里あるかしらぬが、ともかく歩いて行って死体を探して収容して来いと命じようと、長距離電話をかけたところ、その電話で知らして来たことは、無傷でいま玖波に帰っているということでして、私は自分の耳を疑うほどでした。
妻も、七日の夕方、警察で貰ったという高下駄をカランコロンいわせながら帰って来た時は、声をあげて泣いたと申しておりましたが、義虎はなんら興奮の状態を示さず、「随分恐かったでしょ」と聞いた母に、「ちっとも恐くなかったよ、恐いなんて少しも考えなかった」と答えて、翌八日には「二日以上何も食べていないのだから」と母の止めたのにかかわらず、ちょっとお祖母様に元気な顔を見せて来ると云って、海岸に沿って一里ばかりの国道を、それから約二丁ほどの坂道を上って、祖母のいる別荘に行って来たそうです。
義虎の遭難報告であり、また絶筆となった手紙は、今ここに持ち合わしておりませんが、その手紙によると、あの惨状の下で、私のかねて指示しておいた通り、比治山に避難した点、その他の様子を見ても、全く平静に適切なる判断を下して行動していることがわかり、あの、まだ子供の姿の義虎の体内に宿る沈勇に、わが子ながら感心を致しました。
私は、義虎の無事を聞いて安心するとほとんど同じ頃に、新聞の論調の少しくおかしいのに気がつき、それとなく方々に探りを入れた結果、八月十一日になってほぼ終戦の避くべからざる状態にまで立ち至っていることを確認し、国民として、軍人として、執るべき道について、あるいは夜を徹して苦慮し、あるいは深夜に至るまで友人と論じて、頭は全く家のことから離れてしまいました。そして遂に八月十五日の終戦の大詔を拝するに至ったのです。
国破れ夾竹桃のただ紅き
「為万世開太平」有難き詔書を拝しながら、凡夫の悲しさ、まだ、いわゆる軽挙盲動と称せらるる行動あるいは自己満足と言わるる処置が、頭の中を去来するのを如何ともすることが出来ませんでした。
その間に、義虎の最後の手紙が届き、妻からは、少し熱が出たという知らせがありました。八月二十九日午後には、妻から義虎の容体悪化の手紙が来て、私はよほど帰宅しようかと思いましたが、その頃は既に、すべてを忍んで終戦の事務を円滑にやらねばならないとの覚悟が出来て、その仕事に邁進していた時でありますので、帰宅を思い止まるばかりか、たとい義虎が死んでも帰らないと決心しました。そしてこの気持は、きっと義虎は判ってくれると信じて、仕事の手を緩めませんでした。しかし今にして思えば、その時は既に義虎はこの世にはなかったのです。そして、実際に義虎の死を確認したのは、九月一日でした。使いの人が、妻の手紙を持って上京して来たのです。
真珠のさやけきままに吾子逝きぬ
秋の風清き仏となりにけり
私が帰宅して骨となった義虎を抱いてやったのは、死後一カ月の九月二十一日でした。妻から聞いた義虎の最期は、ずいぶん苦しがったようですが、よくその苦しみに耐えて、立派なものであったことを知って、私は嬉しく思いました。ことに、死に対する恐怖心を少しも表わさなかったのは、不思議なくらいに感じます。
遭難当時のことは前にも申し述べましたが、熱が高くなってからも少しも死を恐れている様子はなく、お医者さんのことですから―義虎の枕もとで、「ピカドン(原子爆弾のこと)にやられると、早かれ遅かれ助かりっこはありませんよ。坊ちゃんも助からんでしょうなー」と申したそうですが、義虎は、「人相見が僕のことを七十四才まで生きると言ったけれども、あれは十四才の間違いだったのかもしれない」と平気な顔で申したそうです。
町から広島市に家屋疎開の跡片づけに行っていた百何十人の人々が、次々に死んで、家の隣のお寺で毎日毎日、お葬式のお経の声が聞えるので、妻が「ほんとうに亡くなった人々はお気の毒なことだ」と独言したのを聞いて義虎は、「だって、僕も死ぬかも知れないよ」と申し、妻は、思わずハッとして、もう涙が出そうになったのに、義虎は他人事のように言ってのけただけだったそうです。
林檎が食べたいと云いながら、田舎のことでとうとう食べられないで死んでしまったのですが、その林檎も諦めて、「僕は林檎ももう食べたいとは思わない、なんにも要らない、ただお父様に会いたいだけだ」と言った。その父も帰ってやれず、義虎も連合軍が上陸するというようなことを聞いて以来は、一言も私のことを口に出さず、ただ母に、「できるだけ僕のそばにいて離れないでね」と頼み、「お母様近頃ずいぶん優しくなられたね」と、母の日夜をわかたぬ看病に感謝しつつも、「でも、成ちゃんをあまり甘やかさない方がいいと思う」と末弟のことを気にかけていたそうです。
そして、二十八日の夜は、弟妹の名を代る代る呼んで、言葉はよく判らなかったけれども、それぞれに何か言い残すような口調で申しておったそうですが、二十九日の午前八時二十分、「お母様」と母を呼び、母に手を取って貰い、「葡萄酒」と申してシェリーグラスに注いだ葡萄酒をちょっと口にし、微笑さえ思わせる静かな表情で、そのままこの世を去ってしまったとのことです。
義虎たちを広島に疎開させたのは私です。義虎に一中を受けさせたのは私です。義虎を広島へ遣らなかったならば死ななかったであろうということは考えられます。しかし義虎は、自分たちが広島へ行くことは、単なる危険を避けての疎開ではなく、これによって、父に毎日二倍以上の仕事をさせることが出来るのだということを充分知っておりました。
また、附中を受けさせておいたならば、集団疎開をしておったから、助かったろうと考えられます。しかし義虎は、病床にいるある日、徽章も帽子もともになくなったからと、ボール紙で一中の徽章をつくり、妹に銀紙を貰ってこれを張って、体が治ったらこれをつけて学校へ行くのだと楽しみにしており、一中という学校を心から愛しており、一中に入ったことを後悔するということは少しもなかったので、義虎としては、父を恨むというようなことは微塵もなかったと思うのですが、私としては状況判断を誤ったことを悔やみ、つい愚痴に似た気持にもなるのです。
煩悩のふた親照らす秋蛍
つい義虎のことを長々と書いて仕舞いました。義虎を失ってから後の私たち夫婦の淋しさは、下手な俳句では現わし難いけれども、
憂しや身は秋の百葉の照る陽にも
稗の穂に淋しき道となりにけり
秋空の天際遠く吾子在るや
白萩や夢杳かなる黄泉の吾子
実際、天を仰ぎ地に目を移し、花を眺め草を見る何かにつけ、フッとわき出て来る淋しさ悲しさをどうともすることが出来ません。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)一一〇~一二五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |