故 信濃功の父 信濃俊次郎
九年前忽然と消えた長男功。「第一学年十三組」生徒の生れ出てからの十四年間の思い出、それは喜怒哀楽の縮図ではあったが、所詮は親の生き甲斐であった。
県立第一中学校への入学は、中学校へ進学学童のあこがれであり、願いかなった子のよろこびはひとしおであり、親の誇りは譬うべくもなく大きいものであろう。
春とは云え、まだ底冷えのする大講堂での入学式、子も親もよろこび満たされた心のときめきは、どうして包みきれよう。顔はおのずとほころび、心はずむ思いであった。
この感激のまださめやらぬ八月六日、子は突如として、永久に親から去った。
敗戦の年である。水のほかは何一つ自由に得られるものはない。日々の弁当も中味は思いかなうことは少ない。
観念しておろうが、せめて煎餅の一枚、飴玉の一つでもと親はあせるが、それもなかなか思うに委せぬ。
もとより靴なぞのあろう筈はない。はだしで通学、はだしで勤労奉仕である。親と子に、時代の間隔と環境の相違はあるが、それにしてもあまりにふびんである。
しかし必勝を信じさせられた子は、何を訴えることがあろう。数十分後に恐ろしくも襲いかかる危難も知らず、今日の奉仕に元気よく登校して、遂に与えられたものは、あまりにも悲惨な焦熱地獄ではなかったか。
夢にしては、目覚めることのない痛ましい夢である。ありし日の姿を眼蓋にとどめるには、あまりにも忽然と逝った。しかも夢にさえ求めることの出来難いはがゆさは、なんとはかないことであろう。子を探しあぐねておよそ一ヵ月、偶然の機会で死亡の場所を聞き得た。私は神仏に手を合わす思いである。
似島は罹災者を探す縁者のゆききで、まだ相当の混雑であった。探しつかれた人々の姿は、悲しくもうら淋しい。
部厚な罹災者名簿を血まなこに探しても見当らぬ。
遺族の悲歎に、いささかもかかり合いのない係員は、名簿はこれよりほかにないと、そっけなくあしらう。必死の私は、しつように押問答になる。故意か偶然か、違う場所から一冊出て来た。
ああ……八月七日、十六時。覚悟のことながら、思わず奈落に落ちる。やっぱり死んだ。滝ツ瀬の涙は拭いもあえず、粗末な軍用封筒に納められた四、五個の骨片を抱いてかえる。帰船の中で、求める人を探し得たのは私一人。悲しみの中にも、ホッとした喜び、しかも偶然の機会で辛うじて知り得たわが子の死と場所、寸秒の差、紙一重の違いで、あるいはまだ今日もなおなやみ続けているかも知れぬ。
私はいまだに、これと否との場合を仮想して、りつ然と肌に粟を生じるの思いをしている。が、私らは、まだ自分自身を慰めている。もっともっと悲歎のあけ暮れをなさる親御のある筈である。無惨に姿変ったわが子、行方も知れず帰り来ぬわが子、まことに慰める言葉もない。
ああ、広島地方小学生の憧れの的である広島一中に入学を許された昭和二十年度の紅顔の一年生約三百名は、あの日、渡辺校長をはじめ、在校諸先生に護られ、三年生の一部約五十名とともに、必勝を信じつつ、忽然と不帰の客となったのである。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)一二八~一三〇ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |