故 白川義成の母 白川ハツミ
忘れもせぬ昭和二十年八月六日の、あの身の毛もよだつ原爆広島の惨めな形相は、生きながらの、この世の地獄でしょう。
それに先立ち、同年七月二日の呉の空襲に驚き、亡き子義成は、一時不安と恐ろしさのあまり田舎へ帰郷していました。十日間ほどの日数は流れ、その間、義成の母への願いは、「お母さん、広島へかえるまでに一度、うどんを食べさせて下さい」
その声はいまなお私の心底に消えさることなく、時折食膳に見るうどん、それを口にする時は、必ず亡き子への愛着と未練で、手に持つ箸もふるえ、目に熱き涙を感ずることは、母として当り前のことでしょう。いま考えてみると、ほんとうに、やすい申入れでしたが、その当時、戦時下にて食糧不足の時節柄、そのうどんの要求が、子供の最大の願いでありました。子の願いを、母として、どのようにしてでもかなえてやりたいと、早速小麦粉で手製のうどんを作ってやりました。そのうどんに舌つづみを打ち、腹一杯食べて満足した顔のうれしそうな有様をみて、私も心からよろこんだのです。そして再び広島に帰り、相変らず疎開作業に従事していたのです。
八月六日午前八時十五分、爆音のひびきは六十五粁もへだてた山奥の地へも、山もゆるがすほどのひびきでした。もくもくと湧き上がる東方の山の頂きに入道雲のような白煙が、あの可愛いわが子の血肉を焼きつくした、また、苦しめたしるしの魔雲かと、後から思い出し、悲憤の涙やる方なく、当時のことども思い浮べて、新しく流れる涙をどうすることも出来ません。
二十年八月七日の朝まだき、広島へは交通の便も十分にない、原爆直後のことです。子供の様子もわからず、当地から救助応援のトラックが警防団員を乗せて広島へ出動致し、同夜九時頃帰って来ました。
その夜は、子供は怪我をしていても必ず連れて帰っていただけると待ちあぐんだところへ、トラックはかえり、団員の方へ早速様子を聞きに行ったところ、口重く、「おどろかずに落ち着いて聞いて下さい。今日の救助は患者の収容、死体の護送に忙しく、市内は目も当てられぬほどの悲惨な有様でした。黒こげの死体の山、死にもの狂いで呼び叫ぶ学生の口から、お母さんお母さんと親を呼び、また、水を求めるけれども、どうしてやることも出来ませんでした。また、川の中、水桶の中は、死体で一杯でした。臭気鼻をつき、むせかえる悪臭の中を眼をくばってみたが、この地の人はさっぱり見つかりませんでした。市内全滅ですから、生きてかえる人は稀でしょう。勤労学生は全部駄目らしいです」との言葉に、今まで張り切っていた身体が一ぺんにくずおれ、声の限り、涙のありたけ、泣きくるいました。
周囲の人が何かと心やさしく慰めの言葉をかけて下さるけれども、一向耳に入らず、身も世もなく地たんだふんで狂いまわりました。
心をおちつけることも出来ず、十日に、地下足袋にモンペ姿でべんとうをもち、せめて命ある間に見つかったらと、シャツの着替えを入れたかばんを肩にかけ、トラックに便乗してわが子を尋ねるべく、出広しました。そして東から西へと患者収容所をかけまわり、お化けのような患者の姿を、気をつけて、わが子の身体の一部の特徴、中耳炎大手術の痕の孔のある耳の後ろを気をつけて見ましたけれども、その日はとうとう見つけることが出来ず、空しく力なく帰ってまいりました。
とんで十四日、再び出広し、途中可部まで出た時、上空を敵の飛行機四〇機ぐらいが、爆音たかく翼を揃えてとんでいました。ねたみとうらみの念を胸にじっとにらみ上げ、出広しました。そして宇品方面に行き、ようよう船舶練習部内にて、受付帳に、明らかにわが子の名と住所が書いてあるのにおどり上がり、よろこび、係の人に思わず大きな声で聞いたところ、この人は八日に死亡して死体は似島に送り、埋葬しましたとのことに、いよいよこの世には見ることも逢うことも出来ぬかと、泣く涙も出ませんでした。
年月は流れ去り、九年の後もやはり、昨今の悲しい出来事のように思えてなりません。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)一五九~一六一ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |