昭和二〇年八月六日朝、広島市千田町、広島電鉄車庫前、広島工業専門学校、正門に近い校舎二階教室にて、数学の講義が八時に始まった。
当時毎日の様に、銀色のB29が広島に飛来し、何時もの様に去って行くのを教室の窓より見とどけ、安心して黒板の公式をノートに写し取り始めた。午前八時一五分頃一瞬右側の校庭に閃光が走った。写真のマグネシユウムの大量の使用かと思ったが、白中の世界となり、私の手先さえ見えない、立ち上り、自分の位置を定める為め両手を伸ばして平衡を保とうとした。閃光はジリジリと数秒続いて、今度は熱風を伴もない、とても堪え難い熱さに変って立って居られない。だんだん身体をシャガンで顔を下に床に伏さった途端、爆風により押しつぶされ、気を失った。気がつくと私、大型木造梁の下敷きとなっており、教室の机と机の間に身を伏せたお蔭げで圧死、負傷を免がれていたが、腰のあたりを強く打って痛い。教室内は真暗で「ほこり」と「すゝ」に包まれた情況で、数分ジーツとしてゐた。当りは級友達の叫び声と怒気でどなる声に交って痛みを訴へる、うめき声も聞こえる。長く続いた、ま暗やみの中から、前方、教室の入口から長方形の型が現れたので、それに向って、机と机の間を這って、其処に到着すると、之が教室への入口と伴った。二階への階段は押しつぶされて、二階の床が、地面のすぐ側まで下ってゐるのが見える。こわれた木造物の間をくぐり抜け、漸く地面に降りた。まぶしい真夏の太陽の輝きで目がくらむ様だった。五、六人私より先に出ていた級友が、私の姿を見て、「お前、すごくやられたナ」と云ふ、見ると頭から顔、胸部全面血だらけである。怪我の様子を確め合って呉れた級友が、頭にも身体何処にも傷口が無いので、之はお前のでなく、誰かほかの人の血だらう…と云ふ事になった。モー駄目だ、人生之でお了ひかとチラッと思ひ急に弱気だった私も、此の声を聞いて急に元気を取戻した。(私の机のスグ前に坐っていた呉一中出身の人が逃げるのが遅く、天井から落下した梁の直撃を受け、頭を強く打て亡くなられた事を後日知らされた。)
サテ、どちらに退避しようかと迷った。数ケ月、又、先月にも呉海軍工廠で中学五年生卒業後も、専門学校生徒として勤労奉仕中にグラマン艦載機のロケット弾空撃、B29大編隊による爆弾攻撃でTNT爆弾の雨をふらされてゐた身には、タッタ一発で、後で行けど行けど、大被害を受けた災禍の街を迷ひ乍ら逃げるのだが、呉で見た数々の爆弾による大きな穴は地面には何処にも無く、不思議な体験だった。
府中町、コゴモリ(鹿籠)への自宅方面を見ると、比治山周辺で煙と焔を見て、反対の古江、己斐方面に向ふ事にした。庚午新開と云ふ辺りを、橋も少く小舟に二人老婆を入れて漕いだり、電鉄の線橋をレールの上をバランスを取り乍ら歩いて己斐国鉄駅当りに着いた頃、一転あたり暗くなり、大粒の黒い雨が降り出した。バケツをひっくり返した様なドシャ降りである。中学校五年間走された宮島マラソンの要領で、夏の暑さをまぎらわす涼しい雨の中を、気持良く走る中、古江を過ぎて、井之口まで来た頃、雨も止み、一農家の老婆の手招きで止まり、縁側に坐らせて戴き、お茶をもてなしてを受け、色々と広島の惨禍の様子を聞かれた。
モー此処から先へ逃げる必要無いと判断して、自宅に戻らうとした。己斐中町の親戚、川本秀雄(好子叔母)叔父宅に寄って見て驚いた。天井は飛び床と畳は大きな波の様に、ハネ上って、重なり合ひとなった畳の上に従兄弟の川本恭生(当時、広島市中二年生、十日市附近の防災用家屋撤去作業中に被爆)が全身、やけどで残り少ないシャツ、ズボンが真黒によごれて横たわっている。顔や手の皮フは真黒いスゝに汚れて、あご下、手指先にとどまって、ブラ下っている。瞼はふくれ上って、目は見えないが、声丈けはシッカリしてしゃべる。しきりに水を欲しがるが、大量の水を飲むと死んで失ふと言われ、筆を水で唇を湿らせてやるとホットし乍ら話し続ける。「亘さん、此の戦争は勝つのだらうか…」等と言ふ。傷ついて他の従姉妹の手当に精一杯の叔父叔母を後に、夕刻五時に、心配している祖父母の事を急に思ひ出し、おいとました。広島市中は火の海でしたので、三滝、横川、二葉の里へと急ぎ足の途中で、数限り無い火傷の上、顔、手足の皮フをブラ下げて歩いたり、力尽きて立った儘々の少年、少女多数を見て此の爆弾、戦争中、何故に、非戦闘員の此の命に危害を加へるのかと、大人ばかりの惨禍を見た呉の大空襲を経験した私が、此の日始めて、心からの怒りを覚えたのは此の時でした。やがて陽もやがて暮れ行く、広島市北寄りの周辺の人々は生き残っても、手か足も失ひ、息も絶々の一刻を過ごしていた。橋無き川を列車の鉄橋を渡って広島駅前まで辿り着いた駅裏に山と積まれた松根油のドラムに引火して、大きな焔と煙、熱に包まれた広場を後にして大洲の国道へと向ふ。所が、此の国道一面に負傷した人で一杯でした。此の人達の唯一の安息の空間が此処だった。旧制中学一、二年生位が多い。「お兄さん、お水を下さい」、「私のお家に連れて行って下さい」と我先にと話し込んで来る。中には私のズボンを握って離そうとしないも居る。「済まんな、私もお祖父さん、お祖母さんが待っているので、急そがねばならないので…と」何んとか、其処を抜けて夕刻、コゴモリの入口に辿り着いた。呉から来た海兵団が国道を空けて呉れ広島へ向ふのだとトラックの上から大声で叫んでいる。
私の祖父母の住んでゐる居住地、安芸郡府中町鹿籠は広島中心地から七、八キロ離れた、小高い丘の向ふ側にある為め、殆んどの家屋が屋根の瓦が乱れて済み、飛んだりしないで被害が少なかった。
その集落の入口に在った祖父母所有の貸家に住んでゐた従姉の郁子、その夫、有川武典さんを訪ね当時、陸軍兵器学校の教官だった武典さんに問われる儘々、私の見た新型爆弾の威力と、人体に及ぼした様子、郁子の弟、川本恭生の全身火傷などを説明した。
武典さんは、その一発で之れ丈け広範囲に渡って熱を持った破壊力を及ぼした爆弾に対して「さてわ、原子○○」と云ったのが腑に落ちないまゝ家に向った。あの化学で習らった、あの極小の原子と、この爆弾がどう関係が有るのか?…と、云った。広島工専卒の先輩の陸軍兵器将校の意中、本当の意味を探そうと考へ乍ら我が家の裏門に着いた。ソッと、扉を開けて入ると、祖父が仏壇の前で線香をあげ、ローソクに火をつけて、お経を唱へてゐるのが目に入った。
「只今!」と云ふと、祖父が「亘か…?お前、足が有るか?」と云ふので「ハイッ、有ります」と云ふと、いきなり縁側から庭石に降りて来て、私を掴み「此の大馬鹿者ッ、一体、今の今まで、何処をほうつけ廻わっていたのだ…」と云ひ乍ら、私の頭を何度も何度もたたいた。たゝかれ乍ら私はハッピーだった…と言ふのは祖父は三年も先に連れて日本に帰った兄の面倒は良く見たり、話すが、私は置きざれ勝ちで、かかわっては呉れなかったので、ワアー、祖父さんは私の事も好きだったんだと判って嬉しかった。
祖母の話によると祖父さんは、三回位、裏山に登って、燃る広島を見下して「亘を助けに行ってやりたいが、此の火の海じゃどうにもならん」と言ってわ、降りて来られたそうです。兄、浩之は当時、中支、漢口附近で従軍中であった。
早速、風呂を沸かせて戴き、頭を洗ふと、コチコチに血で固った頭髪の中から出るわ、出るわ、ガラスの破片が出て来る、三回位、風呂場の流しの所にしゃがんで、お湯をかけ、何十個と取り出したら、急に疲れが出て来た。滑るように寝床に入り、木石の様にグッスリ眠った。
翌朝、己斐の川本家から、長男恭生が六日の夜中一二時に息を引き取った。葬儀を明日八月八日に行ふので、手伝ひ乞ふと、お使ひの方が見えた。
八月八日、祖父と私は上下夏の制服にまとって、ゲートルをしっかり足に捲いて、己斐へと向った。広島市内の稍々北寄りのコースを取り、相生橋を渡って市中を通けようと試る。アスファルトの道路は熱く、ピョンピョン鳥の飛び歩きを試み、道路脇に土の表面を見ると、其処を歩いた。相生橋の下は何百と云ふ人の死骸が浮き、満潮のセイか、殆んど流れていなくて茫然と人々が眺めている。そんな暇なく、セッセと歩いて正后前、己斐に着いた。お経をあげて戴いて、私達が従弟の亡骸を、手造りの木のお棺を肩にかついで、裏山の急坂を登り運び適所に長方形の穴を掘り、又、引き返へして薪も運んで、叔母が火をつけた。家族は木と木の間に蚊帳を張り、まどろんだ頃、真夜中、又B29一機が飛来して来た。「私は恭生と一緒に此処で死ぬから、お前達は谷間に向って逃げて呉れッ」と叔母は言ったが、B29は何もせず、私達の真上を飛び去って行った。
まぶしい陽の光と、鳥のさえずる声にたたき起こされて、穴の中を蚊帳の中から眺めると、理科教室に吊してあった物と全く同じサイズの従弟の白骨が横たわって居た。
八月九日、葬儀を済ませて、昼頃、再び炎天下の広島市の舗道と脇の地面を歩いて自宅に向ふ。観音町あたりを通過すると、数一〇メートル先の小学校の校庭に、壊れた机、椅子、数々の木材が積まれて、三階建の高さになった景観を見る。小学生など子供の死体の焼却場を作った…と聞かされて、今更の様に幼子女が受けた被害のひどさに心が痛む。漸く我が家に着いて、ドカッと横になる。
此の日、八月九日から八月一九日迄、一〇日間、原爆症となり激しい倦怠感と無気力に襲われ床についた。広い座敷の真中に寝かされ、食欲は全く無く、祖母のすゝめる「どくだみ」の茶を飲まされた丈けで、コンコンと眠った。天皇陛下の終戦を告げる玉音放送も、まぼろしの様に聞いて、又眠り続けた。
真ヒルに、蝿が鼻の上に止まっても、自分の手を上げて追ひ払ふ力も無く、鼻をムズムズ左右に動かして逃す。一体此んな状態が何時迄続くのかと、不吉な事許りを考へてゐた。
床について一〇日目の早朝四時頃、すごい空腹感におそわれ胃袋が、ゴロゴロと音をたてゝ鳴って来た。早いので少々我慢してゐたものゝ直ぐお祖母さんを何遍も呼ぶと「おー、おー、お腹がすいて来たかー、良かったー」と言ひ乍らお粥を作って下さった。之を口に運ぶ度、元気が身体中に沸いて来た。「ああー、助かった」と思った。
九月に入ると、向洋の川本弘君と、広島工専に様子を伺がい、今後の方針を知る為め出頭したが、方針が未だ揃っていないので、勤労奉仕として通学、半倒壊の木造片を一本づつ外づして片付ける作業に通ふ。ランチ・タイムには、半ぱな校舎のテッペンに坐って弁当食べながら、「どうも、あたりが臭いな」と言ひ乍ら中食を了へ午后の作業にかゝる。段々片付けるにつれて、下が見えて来る。そして其処には死骸が見付かったりした。
一〇月から、二〇粁位離れた広の元航空廠の跡を校舎として、授業が始まった。広島校舎の再建も始まった。
何処となく、校内の数多いゝ専攻科の中から、再建資金募金運動などが起り、楽器の演奏の出来る連中が中心なって音楽会を広島の荒廃地に建てた仮舞台の上で、のど自慢の歌をやったり、バイオリン、ギター等の特種技能を持った連中が続々と現れて、寒空に向って芸を続出させて、一般観客から資金を稼いだり、GHQ払ひ下げのジープを使って自動車部が出来上り、中学時代の野球選手が集って広島工専チームが出来上り、中国地方の強豪、荒巻選手(投手)の属する鳥取医専と決勝で一対〇で破れる位迄に成長した。
旧制高校で黒帯まで取って毎日励んだ柔道部も、GHQの命令で出来なくなった。有名な熊本の柔道家が戦地から、帰国、橋の上から放尿してゐるのが見付けた、アメリカのMP隊員がジープで通りがかりに之を止めようとして、「之を夢見て、懐しい日本の故郷に帰ってやっているのだ、何が悪い」と揉み合ひとなり、此の人、米兵次から次へと川に放り投げた事件以後こうなったと聞いている。
幸ひラグビー部が、元広島一中、大阪の北野、天王寺出身の経験者が発起人となり、部員募集で強力なスクラム・メンバーを作りたいと言ふ事を聞き、「一体、どうすればイゝのだ」と尋ねると、敵のランナーをタックルで止め、スクラムで前に進む丈けで良いと聞き、之なら出来そうだと思って入部。
広島の名門崇徳中学、及びOBなどと練習試合を重ねる中、武者修行の自信がついて来た。旧広島練兵場で練習、試合を行ふ最中、タックルして、グランドの土表面を見るとなし見ると、無数のガラスの破片が混っているのだが、一つもさゝらない。此の頃、学生、罹災者の殆んどが、火傷か、ガラスが身体内に入ってゐたのだった。此のガラス片、人体治癒能力が有る故(セイ)か、外へ外へと向って出て来る。
「リフリ―」の笛で、試合を一寸中断救護班が入ってガラスを完全に揉み出して、ヨーチンをつけ、絆創膏を張り付けて、「ホイッソル」ゲーム再開、試合続行。三年目に中国地方の覇者となり、全日本高専ベスト8として、大阪花園球場に出場した。
その後、北大を卒業して、祖父母の日頃の影響もあって、どうしても自分の生れたアメリカが見たい、妹や弟が見度いので父母の住む北カリフォルニヤのローダイと云ふ生れ故郷に帰った。丁度朝鮮戦争の最中だったので、徴兵となり、二年間従軍の後、除隊となり、ロスアンゼルス市の「ノース・アメリカン」航空機製作所に入り、機体設計技師として働き始めた。
献血運動に参加してみようとしたが、カンパニー・ドクターから「お前の血は要らない。一度ファミリー・ドクターに診て貰へ」と言われる儘々、検査を受けると赤血球が可成り低い事を知った。食物とバイタミンのすゝめられた物を毎日とって、一年目で低目だが「ノーマル」となった。結婚して、二男一女を授ったが、病院の窓越しに直ぐに手と足の指の数をかぞへ、言語にトラブルが有るかどうか、来る月も来る月もチェックし、疲れてVasectomyの手術を行った。
広島一中同級生の川崎洵一五段と、バッタリ出会って又、柔道助教師としてロングビーチ道場に通って、三五、六年がたつ。ナショナル・レフリーとして、可成りの全米柔道大会に出場して勤めたが、腰痛、膝痛で「リタイヤ」した。
八〇才を過ぎて、血友病(hemophilia)と診断され、Von Willebrand Diseaseの為め、止血困難となる病ひの為め、手術が仲々出来ない身体に成ったので毎週一回、ナースが来宅注入(Alphanate)して呉れている。人工関節、左膝手術中、止血に時間がかかり、バクテリヤ四種類を体内に侵入させ、三種類は退治出来たが、Anti-Bacteria medicine、Zyvox600ミリグラムを飲んで肩所に押へてゐる。バクテリヤが一つ丈け残っている。早朝三〇分、杖二本をついて、腰痛を主としてかばい乍ら歩く。樹木の多いゝ所、芝生の中の道を歩いて立止まり、深呼吸をすると血液が浄化されて、元気が出るのが判る。脚は七〇ポンド膝下持上げ運動、ダムベルは一五ポンドを両手に持って、腕持ち上げ、両脚立上り運動を行っています。
八〇代後半に入った途端、血友病と云われ遺伝であり、急に快復するのは難しく、人工的凝血剤Alfarnateを毎週一度注入し乍ら小康を保って意義有る生活を送っています。よく寝て、よく身体を動して、小学校の先生に言われた通りに姿勢を正しく保っている妻の助言が一番良く利く。社会の真只中、正直に正道を歩む子等、そして、スポーツや学業に励めむ孫達の姿を見るのが一番の楽しみであり、生命力アップになってゐると思ひます。
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