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爆心地から1.2キロで 
渡邉 晋一(わたなべ しんいち) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2018年 
被爆場所 広島市山口町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県糸崎鉄道学校業務科 三年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は広島県沼隈郡浦崎村(現在の尾道市)の生まれです。八人きょうだいの長男で、広島県糸崎鉄道学校の業務科に通っていました。被爆したのは鉄道学校の三年生、一七歳の時でした。

原爆が投下される前、私は広島鉄道局の広島車掌区に学徒動員され、車掌として鉄道の門司―京都区間に乗務することになりました。鉄道職員の多くが召集され人手が足りないので、学生が働かなければならなくなったのです。学校では三次方程式を習う直前で、勉強するのを楽しみにしていたのに、動員で学業は止まってしまいました。女子も動員されていましたが、乗務する区間は男子より短かったです。車掌の仕事は乗客数を数え、駅からの連絡と相違ないか、不正乗車がないか確認することや、車両内を歩き回って空席の状況や立っている乗客の人数を見て、客車の数を調整することでした。車両によって定員が何人か分かるので、車掌が調べた数の統計によって、例えば通勤時間帯は五両編成を六両に変えたり、学生の多いところは一〇両くらい出したりしていました。

広島市山口町一〇番地(現在の中区)の中国ホテルが宿舎になっており、私は浦崎の自宅を離れて、そこで生活していました。中国ホテルは電車通りから五〇メートルほど南に入ったところにあり、他よりも少し背の高い三階建ての建物でした。一階には軍隊の事務所があり、三階は女子の階で、私は二階の三人部屋でした。爆心地からは、一・二キロの距離です。

その頃は食糧事情が悪く、宿舎で出される食事は、ご飯の中にもやしが入っているような、まずくてとても食べられたものではありませんでした。車掌として乗務している間の食事は小さな小さなむすびが二つだけで、まったく足りません。みんな一七、一八歳の食べ盛りですから、いつも空腹でした。腹が減るというのは本当につらいもので、イモの茎を取ってかじるようなこともありました。時々実家からイモをもらうと、すぐに列車の車掌室に隠して持ち帰り、動員されている友人たちと分けて食べました。列車には警務乗務員がいて巡回しており、食糧を運んでいるのがばれると没収されてしまうのですが、車掌室は調べられないのでそっと隠すことができました。

●八月六日
八月六日、私は夜間勤務を終えて門司から戻り、中国ホテルに帰って寝る支度をしていました。同室の二人は勤務に出ていて不在でした。服を脱いで下着姿になったとき、突然窓の外がパッと光りました。

光った!と思った私は、とっさに部屋の窓と反対側の隅へ走って逃げました。ウオオーという轟音と同時に端まで飛ばされ、建物は一瞬のうちに倒れました。私は落ちてきた梁や桁に左肩から腕、腰と足を挟まれ、割れた窓ガラスの破片が全身に刺さりました。左の太腿にも割れたガラスが刺さって裂けています。挟まれて身動きできない体を必死で動かしていると、建物がグラグラ揺れて隙間ができ、私は壁を破って外にはいだしました。中国ホテルは道路にかぶさるように倒れていて、東側の角の方が燃え出していました。街中が同じ様なありさまでした。私の足は出血が止まらず、拾った荒縄で縛りましたが、血はダーダーと流れ続けていました。

そのとき隣の崩れた屋根瓦の間から、誰かが助けを求めているのに気が付きました。それは碁会所の娘さんで、閉じ込められ中から棒で瓦を突いて居場所を知らせていました。家にはもう火が付いています。私はすぐに瓦を剝いで、娘さんを助け出しました。娘さんは私の足を見て、縄は痛いだろうからこれで縛りなさいと、自分のしていた紅白の鉢巻きをくれましたが、私を置いて走って逃げて行ってしまいました。

私は走れないので、歩いてその場を離れました。突き刺さったガラス片を指で探っては抜き、足を鉢巻きと縄でぐるぐるに縛って逃げましたが、痛くてどうしようもありません。それでも歩いていると、見知らぬ人が「切れている足を動かしちゃいけん」と板をくれて、それを足に当て固定しました。街中全部が燃えて、熱くてたまりません。地面も火災の熱でぬかるんでいて、裸足ではまともに進むことができなくなりました。道路のアスファルトが火災の熱で溶けて、足が沈んでしまうのです。私は転がっていた草履と下駄を片方ずつ見つけて履き、何とか歩き続けました。

川岸に出ると、石段に人がいっぱいいました。みんな川に入って、水面に頭を突っ込んで水を飲んでいます。私も喉が渇いて水が飲みたかったのですが、足のけがで川に入ることができず、街の防火用水も二重三重に人が取り巻いていて、近づくことができませんでした。そうして水を飲んだ人は、どうしたわけかみんな次々と死んでしまいました。

私は広島駅に向かい、京橋川を渡りました。駅前橋を渡ろうとしましたが、両側の家が崩れて、道を塞いで燃えているような状態でした。仕方なく遠回りして猿猴橋を渡り、倒れた家屋の上を踏み越えて、やっとのことで広島駅にたどり着きました。非常の際の避難場所は決まっていて、第一避難所は鉄道病院、第二避難所は広島駅裏の山でした。しかし鉄道病院は燃えていて、そちらには行くことができません。駅舎二階にある車掌区にも行ってみましたが、全員退避したのか誰もいませんでした。

●東練兵場にて
私は第二避難所に行こうと、広島駅の北側にある東練兵場に出ました。東練兵場は、兵隊が訓練を行う運動場のような広い場所です。そこにも大勢が避難してきており、その中に両手を横に広げ、腕に袋をぶら下げて歩いている人があちこちにいました。何の袋を下げているのか気になって近づいて見ると、それは袋ではなく、やけどで腕の皮膚がくるっとむけて、手首のところで垂れ下がっているのだと分かりました。皮膚のない肌から、血がブツブツとにじんで出ていました。私は自分もけがをしていましたが、その人たちはもっと悲惨で、かわいそうで気の毒でなりませんでした。

第二避難所は人が多すぎて入ることがでず、東練兵場に戻ると、兵隊が、機銃掃射にやられるから二葉山の方へ逃げるようにとメガホンで叫んでいました。「あっちへ行け、行け!」と繰り返し聞こえましたが、私は足が痛くて、もう歩く力がありませんでした。それに、力を振り絞って二葉山へ逃げたとして、もし誰かが捜しに来てくれたときに見つけてもらえないのではないか、という思いがありました。乗務を終えた車掌の同僚は、横川で汽車を降りて橋を渡って広島駅の方へ帰るので、私はその通り道に近い練兵場の隅に寝転びました。気分が悪くなり、墨汁のような黒いものを吐きました。

横になっていると、私のそばをたくさんの人が通り過ぎて行きました。服の襟と袖口を残して身に着けているものが焼けてしまった女性が、かばんで体の前を隠して歩いていました。夫婦らしき人は、菰に死体を包んで、ひもでくくって運んでいました。菰から足が出ていたので、子どもだと分かりました。

●同僚に助けられ
何時ごろだったのか分かりませんが、同僚が練兵場の隅にいた私を見つけてくれました。無事だった同僚たちは、手分けして避難した仲間を捜していたようです。飯ごうに水を入れて持ってきてくれて、泥だらけだった口をゆすぐことができました。水を飲ませてもらい、それでやっと生き延びた心地がしました。それから一緒に避難所に連れて行ってくれて、私はそこでまた寝転がっていました。

避難所には私の他にも、たくさんのけが人が横になっていました。寝ていると兵隊がやって来て、ずらっと並んだ負傷者を次々と見て回り、私を見て「顔面蒼白、脈不明」と厳しい声で言われました。そして「君と君は車へ乗れ」と指示して、列車のところまで連れて行かれました。あの兵隊は負傷者の中で助かる見込みがあるかどうかを見て、治療の優先度を決める今でいうトリアージ(選別)を行っていたのだと思います。私は駅ではない場所から、列車に乗せられました。中は座席の上もガラス片が飛び散っていて、みんな痛い痛いと言っていましたが、私は座席をひっくり返してガラスを払い落とし、座る場所を作ってあげました。

私は足のけがの出血が止まらないまま、列車に揺られて西条(現在の東広島市西条町)にある傷痍軍人広島療養所へ送られました。列車を降りて踏切を渡ったのは覚えていますが、その後のことは意識が朦朧としてあまり思い出すことができません。

●療養所にて
気が付くと、私は一二人部屋の奥から二番目の寝台にいました。一番奥にいた女の人の手には、ウジ虫がいっぱいはっていました。その人は療養所にいるのが分からないようで、「嫁が私を流しの下に寝さしてからに……」とうわ言を言って、ウジの群がる手をかいていました。血管の間もウジがうごめいていて、両手を寝台に置くことができず、ずっと手を宙に浮かせていました。私の右側に寝ている人は腹部が裂けていて、腹の上にはみ出た腸が乗って動いているのが見えました。呼吸に合わせるように、腸がポコッポコッと動く光景は、気の毒で、とても恐ろしいものでした。病室は、人間が腐るものすごい臭いが充満していました。
看護婦さんが私の体に刺さったガラス片を抜いてくれましたが、これがとても痛くて、私は気を失ってしまいました。もちろん麻酔などはありません。ガラス片はその時全部取りきることができなくて、今でも体のあちこちに残っています。

療養所に送られて何日かたった頃、警察が私のところへ来て住所を聞かれました。そこでようやく家族と連絡がつき、八月一一日に父親が西条に来てくれました。その日、我が家では四歳の妹が疫痢にかかって亡くなり、葬式の最中だったそうです。そこへ私が西条に入院しているという知らせがあったので、式の途中ではあったけれど急いで迎えに来たのだと言っていました。父は広島のことを聞いており、連絡があるまで、私はもう生きてはいないだろうと思っていたそうです。父は私の寝ている部屋に入って一目見るなり、ここへ置いておいたら死んでしまう、何が何でも連れて帰ろうと思ったそうです。療養所の医師から「今動かしたら死ぬよ」と言われましたが、親戚に医者がいるからと無理を言って、連れて帰ってくれました。家へは西条から汽車と船を乗り継いで、やっとのことで帰り着きました。

●自宅に戻ってから
家に帰ってからも大変でした。私の体はけがだけでなく、毎日夕方になると三九度の熱を出し、全身の毛が抜け、ひどい貧血になりました。当時は何の病気か分からず、田舎の医者は原爆症など見たこともないので、治療の方法がないと言われました。しかし父はあきらめず、私のいとこからAB型の血を輸血してもらい、池で毎日コイを一匹ずつ釣ってきて、その頭をちょん切ってお猪口一杯くらいの生き血を飲ませてくれました。そうやって療養し何とか体が動くようになるまで、三年かかりました。坊主頭で青い顔をして寝ている私は、近所の人から伝染病だと思われ、毛嫌いされました。家の前が道でその向こうは海なので、一番涼しい道に面したばんこ(縁台)で横になっていると、近所の人が「病気がうつるからそこは通るな」と言って、子どもに家の前を避けさせました。私はそのことが悲しくてなりませんでしたが、父は「うつるんじゃったら、家族が一番にうつっとる、そんなものじゃない」と言ってくれました。しかし「人が自分の子に対して『ここは通るな』というのは分かる、親心というのはそんなもんじゃ……」とも言っていました。

私は自分自身の判断と運もありますが、親が必死に助けてくれたおかげで、生きることができたのだと思います。

●戦後の生活と差別
鉄道局の仕事は、辞めざるを得ませんでした。発熱して寝ている枕元に駅の助役さんがやって来て、戦争が終わって外地から鉄道員が次々復員してくるから、病人は辞めてくれと言われました。父もまた、その時は私が生きて元気で働けるとは思いもしなかったので、あっさりと辞めることになってしまいました。私は鉄道学校で業務科の駅長コースだったので、他の復帰した同級生には、後に駅長になった人が何人もいます。

体が回復して、広島市内で就職が決まったとき、履歴書に三年間の空白があることを聞かれました。被爆したために療養していたことを伝えると、そのことは記入しないようにと言われました。きちんと採用試験を受けて合格していても、原爆症だったことが書かれている履歴書では採用されないのです。原爆に遭った人はいつ発病するか分からないので採らないという雰囲気は、どこにでもありました。履歴書は三回書き直し、空白の期間は家業の製材を手伝っていたと書きました。そのため、後に前立腺の病気やリンパ腺の病気、腹膜炎などいろいろな大病をしましたが、被爆したことを証明する際にも、履歴書では原爆に遭っておらず三年間の療養もしていないことになっているので、なかなか申請することができませんでした。私は退職するまで、被爆したことは隠して勤めていました。

●平和への思い
被爆体験は、できれば話したくないことです。家族の間でも、話題にすることはほとんどありませんでした。結婚して子どもたちが成人し、孫も健やかに育ったことを確かめて、やっと口を開けるようになりました。

戦争は、もうしてはいけません。戦争を経験した者は、それをよく分かっています。私は被爆前は健康で何もいうことはありませんでしたが、原爆に遭ってけがをし原爆症になり、差別を受けつらい思いをたくさんしました。原爆は他の兵器と異なり、DNAにまで影響を及ぼしかねません。核兵器は人類滅亡につながりかねないもので、絶対に使ってほしくありません。様々な問題は話し合って、平和的に解決してほしいと願っています。

平和はこの上なく大切なものです。
 

  

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