国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
追憶の記 
森本 トキ子(もりもと ときこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 私達一生忘れる事の出来ない八月六日。あの時市女一年生の二女幸恵が、朝「行って参ります」と元気よくにっこり笑って出て行きまして数時間後、広島市中は火の海と変わりました。

七日、八日探し続け、学校に行っても何の連絡も無いとの事で、夕方重い足を引きずり帰りました。九日似島にいる事が分りました。以下は幸恵の言葉のままです。

一時間作業し、八時休憩になり誓願寺の大手の側で腰を掛け、友達三人で休んでいると、ああ落下傘が三つ、綺麗綺麗と皆騒がれるので自分も見ようと思い、一歩前に出て上を向くと同時にぴかり光ったので、目を抑え耳に親指を入れて伏せたら、その上に一尺幅もある大手が倒れ、腰から下が下敷になり、頭の麦藁帽子は火が付き焼けていました。

長い事かかり大手の下から出る事が出来、あたりの友達を見れば皆目の玉が飛び出し頭の髪や服はぼうっと焼けて、「お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けて」と口々に叫んでおりました。その時目を抑えた者が三人だけでした。「どうせ生きられないんだからみんな一緒に死にましょう。皆さん舌をかみなさい」と言って、「貴女は誰、貴女は誰」と名前を呼び合い手をつないで、そこへ屈んでおりましたが暑くて暑くてとてもいられませんので目の有る者だけ三人「逃げられるだけ逃げましょう」と、転びながら県庁の橋の所迄来たら一人の友達が「私死ぬる」と言って倒れられたので、二人は離れまいねと言って手をつないで、ひょろひょろしながら川迄下りました。その友達も「死ぬる」と言って水の中へずぶずぶと倒れましたので、背中の服を捉えて水の無い橋の下へ引きずって行きました。しばらくすると大きな真っ黒い雨が降り出しました。初めは飛行機が油をまいたのかと思いましたが、咽喉が乾いてたまらないので両手で受け一口くらい溜まったので、それを飲みました。川に水が有っても死人で埋まり、それに人が、があがあ吐きますので飲まれません。

その内私は沢山の血を吐きました。それきり気を失い、夕方寒いので目が覚めて隣の友達を見れば虫の息でした。この人も、もうだめだと思い、こそこそ這いながら逃げようとしましたら、兵隊さんが来て「ここに生きた子がいるぞ」と言って舟に乗せられ、又そのまま気を失いました。二日後に気が付いた時兵隊さんが「気が付いたか」と言って親切にして下さったそうです。

その時幸恵の傷はほとんど無く、額と右手を焼き、それに大手の下から出るのに足の膝が両方共くるりと皮が取れて赤身が出ておった程度でした。すぐ連れて帰ればよかったのですが、軍医さんが、「このくらいの傷は二、三日で綺麗に治してあげます(軍隊の高貴薬で)」と言われ、本人も治って帰ると申しますので、そのままおりました。

翌日から熱が出て、下り出しました。十一日に敵機が似島の上空を十四機旋回しました。そのため引き上げねばいけないと軍の命令で、舟で廿日市の小学校へ連れて行かれました。八幡の小学校でその夜は夜通し南無阿弥陀仏々々と大きな声で念仏を唱えますので、「幸恵ちゃん、ここは病人ばかりだから小さい声で唱えなさい」と言いますと、「はい」と言って又段々に大きな声で夜通し南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言っておりましたが、十三日朝静かに君が代を唱い出しました。そして、天皇陛下万歳万歳と両手を上にあげますので、私が見ておりますと幸恵は、「広島第一高女一年生第五組の橋本先生にお世話になりました。お友達の皆さん永らくお世話になりました。私はお先に行きます。さようなら、さようなら。国民学校の校長先生、尾本先生、お友達の皆さん永らくお世話になりました。私はお先に行きます。さようなら、さようなら。親類の叔父ちゃん、叔母ちゃん永らくお世話になりました。私はお先に行きます。さようなら、さようなら。お父ちゃん、お母ちゃん、お姉ちゃん永らくお世話になりました。私はお先に行きます。さようなら、さようなら」とお別れしますので「隆雄兄ちゃんの処へ行くのか」と戦死した長男の事を言いますと首をうなずきましたので、「ではお父ちゃんも先に行って待っておられるから、お父ちゃんや、お兄ちゃんの処へ行きなさいよ」と言いますと、「ふうん」と言ったきり息を引き取りました。

主人は基町の中国憲兵隊司令部で七日に亡くなりましたが、最後迄言っておりませんでした。市女の生徒さんが六百人も犠牲になられた中で一番最後迄生きておりました。私当時の実情の半分も書き表わす事が出来ませんが、我が子の思い出のために一筆大略致しました。 合掌

送る親送らるる子もにっこりと

永遠(とわ)の別れになるとも知らで

出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)五七~五九ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針