平成一六年九月二八日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の企画による被爆者証言ビデオ作成に協力し、出演に同意しました。証言内容は次の通りです。
一.被爆前の様子
私は、昭和一六年四月に東京都王子区(現、北区)第三岩淵国民学校へ入学しました。東京は数々の空襲を受け危険が急増したことから疎開をすることを余儀なくされ、伊香保への集団疎開、岐阜への縁故疎開に続き東北仙台の伯母宅へ、東京に残った両親に別れ疎開していました。昭和二〇年六月、父の勤務先である軍需省(現、経済産業省)では、主要官僚の確保を求め地方分散を計画しました。父は何個所かの候補地の中から広島を選び私ども子供を疎開先から引き取り親子六人揃って広島へ赴任しました。
それが原爆投下前一ヶ月少々の六月二八日でした。広島駅頭で感じたことは「兵隊さんが多くいる所だなあ」ということでした。三菱重工の社宅を借り、広島市皆実町三丁目九一二番地(現、南区皆実町五丁目一九番)に落ち着き、私は、皆実国民学校へ転入しました。満一〇歳、国民学校の五年の時でした。
二.被爆時(被爆直後)の様子
広島軍需監理局(後の広島通商産業局、現在の広島経済産業局)に勤める父をはじめ、母と私以下男三人女一人の四人の子供、計六人が広島での生活をはじめて一ヶ月少々の、昭和二〇年八月六日になりました。当日は週末ではなく、本来であれば父は役所へ出勤し私も学校へ行っていなければならない時間でしたが、数日前に母が手術を受け自宅で安静にしていなければならなかったために、父が朝食作りを担当し遅刻覚悟で遅い朝食に取り掛かった時でした。登校を急ぐ私は、一膳のごはんを食べ、他の五人は箸を付けた時に運命の一瞬がきました。
昭和二〇年八月六日は雲1つない快晴の日本晴れでした。七時五〇分頃、朝に発令されていた警戒警報が解除されました。男はパンツ一枚、女は下着一枚、末の弟にいたっては金太郎さん一枚の裸の姿で、朝食の食卓を囲み開放されたひとときを北側の居間で送っていました。私がごはんを一膳食べ、他のものが箸を付けた時、原爆が投下されました。
ピカッと光る強い光線を北側のガラス越しに見て、無意識に北の部屋から南の部屋の方へ逃げました。追っかけるようにグオーという轟音とともに物凄い爆風に曝されました。私は、必死に両手を目と耳に当てて、その場に伏せて難を逃れるよう必死でした。ひれ伏した体の上に建具や家具の破片が覆い被さるようにバタバタと落ちてきました。「これが死ぬことなのだろうか?もし死ぬことなら死とは随分楽なものだなあ」と思いました。
爆風が収まって恐る恐る首を上げてびっくりしました。一〇秒余り前の室内はなく、地獄を思わせる情景があったのです。南北のガラス戸は無くなり、家の中はガラスの破片で埋まり、窓枠の一部が浮き上がった畳に突き刺さり、東西にあった押入れの襖はなく、中のものは襖の破片とともに猛烈な爆風により発生した真空現象で全て吸い出され、家の南側にあったブロック塀の内側に堆く積まれていました。
その瓦礫の中に血だるまになって座り込んでいた父の姿を発見しました。後に数えましたが、全身に九二ヶ所のガラス傷を受けていました。私は、幸いにも右足の大腿部から出血していましたが、ガラスで二ヶ所の傷を受けただけでした。母は、妹と二人の弟たちを連れて私とは別のルートを経て、風呂や便所がある方へ逃げ、傷一つなく難を逃れました。
当時住んでいた官舎は、広島高等学校(後に広島大学教育学部、現在の広島大学付属小、中、高等学校)の北側に小さな溝川を隔てた位置に建つ一戸建ての住宅でした。東西は壁構造で南北はガラス戸を多く使った南向きの明るい二階建ての家でした。俗に原爆はピカドンと呼ばれていますが、爆心地から二・五キロメートルの所にいた私たちにはピカッと光った直後にグオーという物凄い爆風の音が聞こえただけでした。南北のガラス戸は木っ端微塵になり、一面ガラスの破片が飛び散っていました。猛烈な爆風の通過により発生した真空現象により畳は浮き上がり、窓枠の大きな破片が畳に突き刺さっていました。東西の壁面に床の間と押入れが設置されていましたが、真空現象により床の間の置物や押入れの中に納められていた品々(勿論、フトンなど大物を含み)が壊れた建具や家具とともに屋外へ吸出され、南側にあったブロック塀の内側に叩きつけられたように瓦礫の山を作っていました。勿論、ブロック塀自体も爆風によって外側へ倒壊していました。
父はピカッと光った光を見て、一瞬何だろうと考えたと、後に言っていましたが、北側の窓ガラスの破片を一身に受けた形となりました。習慣で目鼻を両手で覆いひれ伏せたと言っていましたが、ガラス片を運ぶ爆風が身体の下を通りぬけたと思われましたが、頭、額、胸、手足の前面に限定して九二ヶ所のガラス傷を受けていました。
当時、広島高等学校に陸軍の輸送隊が駐屯しており、兵士が直ぐ駆けつけてくれました。父の大怪我を見て直ぐ軍のトラックを配車し、父の収容の準備をしてくれました。母は病後であることを忘れ、父を担架代わりの半壊した戸板に寝かせ、一軒おいて西隣の松島さんの力を借りて兵士とともにトラックへ乗せ、父はそのまま何処かへ収容されました。
後に残された母と私たち兄弟は一時途方にくれましたが気を取り直し、母は父の着替えなどを持って父が収容されていると思われた宇品の病院へ父を探しに行きました。私たち兄弟は傷んだ家で母の帰りを待ちました。昼食時には松島さんの家で白米のおにぎりをご馳走になりました。
午後、父を探し出せぬままに母は帰宅しました。妹と弟を松島さんに預け、母と私は足の踏み場もない室内を片付け僅かな寝場所を作るのがようやっとでした。父に関する何らかの連絡を待ちながら当夜は母と二人で自宅に寝ました。ガラスの破片や家具や家財の尖った破片が散在する家の中を素足で後片付けしながら良く怪我をしなかったものだと今でも不思議に思います。居間の壁には朝食のおかずだった茄子の煮物が貼りついていました。後にこの煮物を「ピカドン煮」と名づけ当時を思い起こしています。
二-一 父探し、似島へ
八月七日、原爆が投下された前日同様、晴れ渡った日でした。父が宇品沖四キロメートルにある似島に収容されているかもしれないとの情報を頼りに、私は母とともに似島を尋ねました。似島には弾薬庫(私は、そのように理解していましたが、馬匹検疫所が本当のようです)がありましたが、急遽、その建物を病棟にし、野戦病院として被災して負傷した人々を収容していました。父は最も奥まった病棟に収容されていました。九二ヶ所の傷を持つ負傷者とは思えぬくらい元気な姿を見てほっとしました。私だけが父のもとに残り、母は妹と弟を引き取りに一旦自宅へ帰り、翌日揃って父のもとへ集まり、全員の安全を喜び合いました。数日経ち、父の傷の回復具合もよく、また自宅近くの日本専売公社の一角に診療所が開設されたとの情報もあり、自宅へ連れ帰りました。
二-二 似島で見たもの
似島へ着いて桟橋に続く真っ白な砂浜には数え切れない多数の死者が筵で覆われ並べられていました。多くの人々が筵を一枚づつ剥がし、必死に肉親を捜し求める姿は悲惨と言う以外、言葉がありませんでした。病棟と化した兵舎には多くの患者が横たわっていました。殆どの患者は重度の火傷をしていました。夏場でハエが蔓延し、火傷の傷口が真っ白に見えるくらいに、ウジを産み付けていたので患者は痛みを訴えていました。ピンセットで一匹づつウジを取り除いてやる肉親の姿もありましたが何とも悲惨で残酷なものでした。患者の間を通りぬけて父の姿を求めましたが、喉の渇きを訴え「水をくれ、水をくれ」と私の手に縋る患者も多くいました。医者や看護婦から、水を飲ませると直ぐ死んでしまうので絶対に飲ませてはだめだと、事前に注意を受けていたので、心を鬼にしてそれらの手を払いのけ前に進みました。
後にこの野戦病院へ運び込まれた人は約一万人と云われていますが、連日、多数の患者が運び込まれ、多数の患者が死んでいきました。父がいた病棟は一番奥まったところにありました。その病棟の奥の広場は臨時の火葬場でした。直径数一〇メートル、深さ数メートルの大きな穴を掘り、敷き詰めた薪の上に死体をびっしり並べ、その上に薪を敷き詰め、更にその上に死体を並べるというように何層にも積み上げた上に油を撒いて、夜を徹して数人の兵士が焼却していました。この作業は連日、連夜続けられました。何とも痛ましい残酷な光景でした。
魚の鯛を焼く匂いが、似島で連日、連夜火葬していた時の匂いと良く似ています。いつの日からだったかはよく覚えていませんが鯛の塩焼きをご法度にしました。
三.被爆後数年間の出来事
似島から自宅に帰り、父の診療所通いのリハビリが始まりました。近くにあった専売公社内に臨時の診療所が設置されました。毎日近所からリヤカーなどを借りて父を診療所へ連れて行きました。父は役所へも出勤できず、私も登校の目処もなく自宅で後片付けの日々でした。
八月一五日玉音放送があるとの知らせがありました。幸いにも私の家のラジオは戦災から免れ、近所の人が多数集まりました。正午から始まった玉音放送に涙していた父や多くの大人の方を強く記憶しています。
戦争が終わると、戦時中より悪い生活環境が襲ってきました。何をいっても過度の食糧難でした。少ない砂糖やとうもろこしの粉の配給があっただけで、ひもじい日々が続きました。父の傷の回復を見ながら、父について食料の買出しに行ったことを覚えています。一ヶ月位経った後の市内では数少ないバスが走っていました。夏だから良いようなもので、窓にはガラスがなく、すし詰めの車内では天井を真っ黒にするくらいのハエが群れをなしていました。一面焼き野原には、未だくすぶっているものや馬の死骸が放置されていました。買出しで得られるものは米や麦のようなものではなく出来の悪い南瓜や冬瓜のようなものでしたが貴重なものでした。七年間は草木も生えないだろうといわれていましたが、鉄道線路脇に群生した「鉄道草」を食用に供したことは有名な話です。
原爆が落ちて一年位経過した後に、基町の陸軍病院の跡地周辺に被災者向けの市営住宅が急遽、建設されました。皆実町の官舎は元来借上げの官舎で、市営住宅の建設とともに基町に移り住みました。私たちが借りたところは、陸軍病院の跡地で第二基町と呼ばれた地域にあり、小さな庭のついた住宅でした。極度の食糧不足に対応するために庭を含む全ゆる空地を耕し、畑にしました。土の中から次から次へと遺骨が発掘されました。近くに緑地帯があったので、その一角に供養塔を建て、地域の人々が持ち寄った遺骨を埋葬し、冥福を祈りました。遺骨の発掘は数年続きました。
四.その後現在に至るまでの事々
被爆時は六人の家族でしたが、翌、昭和二一年に弟が生まれ、七人の家族となりました。絶えず被爆が原因となる健康の異変を気遣ってきましたが、被爆という大変な災難に遭いながら被爆家族全員健全な生活を送ってきました。
父は健康回復後、復職しました。比治山にあったABCCより呼び出しに応じ何回も足を運び、検診を受けていました。父を除く家族は呼び出しもなく一切足を運ぶことはありませんでした。
父の治療休暇中、父の同僚には不幸な情報がありました。原爆が投下された当日有給休暇中に人が広島に異変を知り、急遽役所があった八丁堀の福屋のビルへ出勤し事務所の後片付けをされた方がいました。数ヶ月後に髪の毛が抜け、歯茎から血を流しながら死んで往かれました。本来、父が出勤していてかかる姿になるところが身体中に大怪我をしたために助かり、本来災いから外れていた人がその渦中に入って亡くなるという運命のいたずらを感じました。父は長くそのいたずらを恨み被爆を忘れようとしていました。
こんな父と母の間に被爆翌年の昭和二一年九月に末の弟が生まれました。父は昭和六〇年九月に七六歳で、母は今年平成一六年二月に八九歳で他界しましたが、被爆経験が明らかになると家族の婚姻に悪影響が出るとの一言で、頑なに被爆者手帳の申請を拒み続けました。恐らく、末の弟に被爆2世としての影響があることに気掛かりだったと思います。
私は昭和六二年に、父が原爆死没者として原爆死没者慰霊碑に収められた時を機に、自分が原爆被爆者であることを強く認識し、被爆者としてのデータを提供するとともに、核兵器のない世界の平和作りに少しでも貢献できないものかと考え、被爆者手帳の交付を申請し、認可されました。その際、母に一緒に申請しようと持ちかけ、関係者の方からも誘いがありましたが頑なな気持ちは変わらず、終生被爆者の認定を拒みつづけました。
私は、肺結核、二度のヘルニア手術、蓄膿症の手術、椎間板ヘルニアの手術など多くの入退院を経験してきました。現在は、変形性脊椎症による腰痛に絶えず悩まされています。いつ、どこで、被爆に起因する新たな病気に遭遇するものか気掛かりでないとは云えません。私は被爆時に右足太股に二ヶ所ガラス傷を受けました。通常傷跡や手術の跡などは日を経るに従い薄くなって行き、時には消え失せることがありますが、被爆時の傷跡は年をとるに従い大きく鮮明になっています。この優位な差を見ても、被爆の影響は何らかの形で私どもの体内に残っていると思われます。
私には娘が二人、孫が四人います。被爆者の子孫として、生まれた時から今日に至るまで何らかの異変が起きないものか絶えず不安の連続です。将来もこの心配は続くことと思います。幸い、娘については被爆者2世の健康診断が定期的に行われていますので、欠かさず受診するように勤めています。
五.被爆者として辛かったこと、悲しかったこと、そして、願うこと
私ども家族は、広島へ被爆するために疎開したように感じています。一方では、被爆当日、母の健康不全から家族全員が自宅から離れることができなかったことや、父が全身に九二ヶ所のガラス傷を受けたために、爆心地での後始末作業に従事できなかったり、家族全員が爆心地に近い自宅を離れ似島へ行っていたり、など、ラッキーな面もあって被爆という貴重な経験をすることができました。この貴重な経験を世の平和のために披露することは人として義務だと思います。
被爆の後、広島から離れることができなかったので文句の云いようはありませんが、日々辛く苦しい生活が続きました。一番に思い出すことは何と云っても食糧難でした。僅かな食料を求め、口に入れられるものは何でも、空腹を癒すものであれば何でも食べたように覚えています。
しかし、このような環境にいる自分に、悲しさを感じたことは一切なかったように思います。病弱な母親に代わり質屋通いをしたり、僅かな食料を求めまわったりしました。空地を耕し質の悪い野菜類も作りました。しかし、一切の悲壮感はありませんでした。毎年、八月六日の原爆記念日に、慰霊碑の前で家族の死を悼み、涙ながらに拝みつづける母親の姿を見ることは、実に悲しく、辛いことでした。
私は、現役時代に仕事を通じ世界各国の人々と交流を図ってきました。核兵器の恐ろしさを話し、来日した人にはできるだけ広島市平和公園へ案内し彼らの目や耳で原爆の恐ろしさを直に知ってもらう機会をつくってきました。自分の目で、耳で原爆の恐ろしさを知った人は、一様に核兵器の廃絶を口にします。世界で唯一の被爆国の国民として口を揃え、世界に核兵器の廃絶を訴えつづけなければならないと思います。
私は、次の三つのことを願っています。
一.原爆は第二次世界大戦の最中に投下されました。一度に20万もの人が被爆し、その多くは死んで逝かれました。遺族の方々には忘れられない出来事だと思います。しかし、あの戦争がなければ、投爆もないし、被爆もなかったのです。残念ながら、戦争を選んだ責任は私たちにもあるようです。恨みや憎しみを捨て、将来同じような苦しみや悲しみが来ないようにしなければならないと思います。このような環境の中で、日本の政府が取っている態度には大きな憤りを感じます。世界で唯一の被爆国で、数十万人の貴重な命を失った経験国として、世界に対し、とりわけ、アメリカに対し、核兵器廃絶を強く求める義務があると思います。原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式では勿論、国連の場で、サミットの場で、首脳会議の場で、核兵器廃絶を叫びつづけることを義務と感じていただきたいと思います
二.政府は、被爆者に対し、医療補助に努めているといっていますが、一方では、原爆症の認定では訴訟問題まで発展しています。真に、国の責任を感じるならば、少なくとも旧市内での被爆者や入市被爆者に対し原爆症を適用する姿勢を示していただきたいと思います。
三.自分自身に関することですが、是非、被爆者最年長者になりたいと思います。今、身体に纏わりついている病を廃絶することはできません。しかし、これ以上悪化しないようにすることは不可能ではないと思っています。幸いに、良い環境に囲まれて日々を送っており、日々精進し目的を果たしたいと思います。その間に、一人でも多くの人との会話を持ち、核兵器廃絶の協力を得られるよう努力したいものです。
|