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未来への伝言 被爆の体験と証言 
河合 トミ(かわい とみ) 
性別 女性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市安佐郡八木村
八木の梅林として梅林が広々と太田川にそって有りました。ここは町名も変って居るでせう。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
疎開して居た農家の裏口で突然異様な閃光、続いて驚く程のドカンと言う音。瞬間殺人光線と言う思がひらめきました。広々と広がる稲田の上空にみるみる真黒い菌の様な物が現れみるみる広がり凄いしゅっと成りました。暫くして雨はやみましたが広島市内に居る両親の安否もたまらぬ。一二時頃から前の八木街道をこの世の者とも思えぬ焼けただれ衣装や肌のぶら下った人がぞろぞろと歩く姿が見えました。

父は当日の一六時頃たどりつき見た目は無事でしたが、放射光線でやけどが酷くして背中、額、うで、等ひぶくれに成りそれに蛆がすぐわきます。医者も薬も無く母を探しに行くと言いつゝ一一日に亡く成りました。一五日大手町七丁目の我が家の焼跡から完全に火葬された母の遺骨を拾い八木に帰りついた時終戦の事実を知りどんなに残念に思ったか知れません。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
一週間目に爆心地へ入りましたが被害の情況はみませんでした。心の苦しみは一度に両親を失い二人の幼児をかゝえ、焼跡に行き何度死に度いと思いました事か分りません。

食料が困難に成り自給自足の為八木に土地を買って呉れて居りました。お蔭でサツマ芋、小麦、あらゆる物を始めて作り二人の子供も育てる事が出来ました。セレベス島で生死の分らなかった主人が帰ってこられ幸で御座いました。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
亦と無い恐しい経験を致ました。

思い出してもよく生きのびて来た物とつくづく思います。

今度核兵器が使はれる時は地球の消滅を意味すると思います。二度と戦争の無い時代を切望致します。
  

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