建物疎開に動員され被爆死した動員学徒は、被爆当日だけでも学徒七一一九名、引率者一三二名死亡、重傷者二四五三名、ほんとうに多くの学徒が死亡。縫部正康も八月六日被爆し、被爆死した弟を捜すため八月七日、八月八日と広島市中島新町へ入市。その後の被爆病は苦しみの連続。被爆者が苦しんで死亡した人、今も私のように被爆病で苦しんでいる人も多いいと思う。その苦しみの一人として、私の被爆病体験(被爆後の病)を書き残こすこととしました。これが核兵器の廃絶に役立てばと思う。
私は被爆後、被爆病で体調が悪いが他人に話すことも出来ず、また被爆二世の我子に影響はないか心配。初めの頃は、被爆後の私の体の痛みは、原爆が関係しているとはぜんぜん思わなかった。平成二八年被爆後七二年過ぎて、私の病の主な病名は、頚椎脊柱管狭窄症が災いしていることを知らされた。以前は、この病を発見するためのレントゲン技術がなかったそうです。そのような時代で、私の体の痛みはどこえ行っても病名もわからず、治療の方法がわからず、私はその痛みで長い間苦しみ続けている。でも、私の体の痛みについて親兄弟に心配かけると思い、話しは出来ない。その当時は、被爆した人は結婚出来ない、被爆したことを隠せと云われていた。
そのような時代でした。私は子供の頃被爆する前は、親につれられ畑仕事、山仕事で畑への肥料の運搬、芋等収穫時等、重いものを背負い運搬。山仕事では大木の伐採等、その木に登りロープ掛け、畑では鍬仕事、子供の遊びで山登り、近くの山は全部登った。今八八才、その山の状況も良く覚えている。ほんとうに体については問題はなかった。しかし被爆後はどうしてか体調が悪い、体が痛む、体がダルイ。こんな調子でも被爆が原因とはぜんぜん思わなかった。
そんな状況でしたが、電気通信局へ就職することが出来、喜こんだものです。就職後は体調が悪い時でも朝星夜星、一生懸命働いたものです。私の体の痛みは、痛みだすと大変苦しいがズート続かない。そんなことから私の体調のことを話さず、仕事をすることが出来た。しかし、ほんとうに職場の皆さんにご迷惑をかけました。それでも、私の体調のことは、誰にも話すことが出来ませんでした。ただ医師(医務室)で診察を受けるが何の病か分からん。医師は血管注射をと、何回も受けました。体調は良くならない。忘れもしないが当時の看護婦さんは、何時も私に向かって、この注射よりテンプラ一枚食べた方が良いと云われた。でも私は医師の指示に従がうしかない。私の痛みは続く。あるときは非常に痛む、脂汗が出る。時間がたつと収まる。他人には話も出来ず、たびたび医師(医務室)で診察を受ける。
ある日、医師から広島逓信病院へと紹介され、逓信病院でも私の病の原因がわからん。そんなことからか検査、検査、その検査も楽じゃない。腎臓結石の検査、レントゲンでは判断出来ず、膀胱から薬を入れての検査、ほんとうに苦しい検査でした。でも私の病の原因は不明。そんなことからか、広島駅前のレントゲン専門医へ紹介、その検査でも私の病の原因はわからん。逓信病院でまた色々と検査。その後、十二指腸潰瘍ではないかと、その薬を飲むように指示され、その薬を飲むことになった。でも体の痛みは変らない。そんなことを親兄弟、職場の皆さんに話すことが出来ませんでした。でも職務は続けて頑張りました。
そんな所へ、親から結婚の話があったが、私は私の体調を考え、被爆者であることから断わった。その時期は被爆者は結婚出来ない、女性は嫁にも行けないとの噂があり、私は結婚する気にはなれない。見合の話があっても、その都度断わった。ところが、親からお世話をして下さる人に悪いので、見合だけでもして呉れとすすめられ、何回も見合しました。私も申しわけないと思っていた。もう、断わることは無理かと思っていた頃、良い縁があり、昭和三二年一二月結婚しました。私の体調のことは妻にも話しすることも出来ず、自分自身苦しんだものです。
結婚して間もなく、また非常に強い痛みで締めつけられ脂汗が出る。また、どこの医者へ行っても、その痛みの原因が分からん。ただ、痛み止めの薬をと、でも痛みは止まらん。ほんとうに、何人もの医師にお世話になったが、良くなる兆候はない。このとき、始めて妻に被爆したことを話した。妻は無音。そのうち、呉県病院外科の医師との出合があり、相談したところ、そのレントゲン写真を持ってこい、元呉県病院院長先生のところへ診察を受けに行こうと云われ、一諸に行きました。その医師は、この手術は腹をあけるだけと説明があり、痛み止めの薬を飲むしかないと云われ、またそれからが大変。痛みはひどくなり、苦しみの回数も多くなる。その痛みが出るともうドテンバッタン、脂汗が出るわ、いてもたってもおれん。でも、どうすることも出来ない。もちろん妻は心配して見てるだけ。でも、その痛みを誰にも話さず仕事、仕事を続けたものです。(その頃はすぐ着く電話、すぐつながる電話にするため、私たちの仕事は大変な量の仕事をこなさなければならない時代でした)
そのうち、島根県大田市へ、電気通信局外工事の監督の仕事で行った時、その大田市内の貸家に住んでいたとき、またその痛みが出る。これを見た貸家の人が、私の子供が大阪でクロロマチンを作っている。これが良いと思うと取寄せて呉れ、神にもすがる気持ちで飲み続ける。なんと不思議、今までの痛みがなくなる。ほんとうに喜こんだものです。でも、私の病は何が原因か分らない。
その後しばらくして、妻が子供が出来たと云う。私は喜こんだものですが、私は被爆者で、マトモな子供が生まれて呉れと祈るだけ。そんなことから親兄弟にも話出来ず、心配したものです。産婦人科で診察を受けた時、どうしてか、この度は子供を生まない方が良いと云われ、私たち夫婦は、医師の指示どおりにした。その産婦人科の医師はその方が良かったと、その結果を私正康に見せてくれた。私は自分の被爆が関係かと、妻にも話せず苦しんだものです。その内、時が経ち、子供がほしいと妻が、しばらくして妻が妊娠し喜んだが、私はマトモな子供が生まれて呉れるよう神に祈ったものです。それは、それは、辛い毎日でした。その子供は難産で、ほんとうにどうなることかと心配しましたが、神さん、先祖のおかげで何の心配のない男子が生まれ、ほんとうに喜こび、肩の荷がかるくなりました。
しかし、私の体の痛みは続いて、昭和三五年腰痛足痛で医者に行ってもアンマだけ。病名がわからん。昭和五二年腰痛で歩くこともむつかしい。そこで福山整形外科へ行く。注射を受けるがぜんぜん良くならん。アンマへ行く、ここでも良くならない。こんな時、松永に元相撲取りの指圧が良いのではとの情報があり、ここへ通院する。約一カ月通院する。ほんとうに良くなる。完全ではないが、ここでは私の背骨が悪いとのこと。その先生のところへ通院し治療を受ける。しかし、私の仕事の関係で転勤。そのうち広島へ帰ったが、一〇〇米も歩くと腰が痛み歩けない。少し休むとまた歩ける。このような状況でした。職員からジョギングに誘われ、五〇〇米から始める。腰の痛みは少し良くなる。腰の痛みもダンダン良くなる状況です。
平成七年退職、平成一〇年原爆検診の結果、原爆病院へ精密検査に行くよう指示され、その原爆病院で、これは早く手術しないと人工肛門になると云われ、私は何処へ行って手術したら良いか分からん。原爆病院の紹介でその病院へ行く。大腸内のポリープを取って呉れたが、手術はと他の病院へ紹介され、その病院へ行って診察を受けたが、どうも信用出来ず、私はその足で広島市民病院へ行き、受付時間は少し過ぎていたが、早く手術しないと人工肛門になると、原爆病院で云われたと話したら、すぐ広島市民病院の外科の先生に紹介され、その外科の先生から、原爆病院でのレントゲン写真を借りてこいとの指示があり、その足で自分のレントゲンの写真を受け取り、広島市民病院の先生に渡したら、これは早く手術する必要があると、病室等の手配をして呉れ、すぐ手術をすることになり、私の手術は大変、九時間あまりかかった手術で、直腸と大腸の二ヵ所の手術。ガンの転移があるか調べる。この場合ガンの転移は一番に肝臓へ。そこで肝臓へのガンの転移を調べるが、肝臓の裏側を検査するためタンノウを取る必要があり、タンノウを取り、肝臓の裏もガンの転移がない。そんなことから人工肛門にならずにすんだ。ほんとうに喜こんだが、手術の後が大変、肛門が開いたまゝ、大便がタレ流し、手術がすんだが退院出来る状況ではない。
そんなことで坂町済生会病院へ紹介され、その病院でお世話になる。その時の担当の医師から、あなたは、毎日一万歩以上歩かないと良くならん。歩くように指示があり、(歩いた記録も取る)自分のためであり、一日一万歩以上毎日歩いた。歩くのが良いのか、少しずつ大便が良くなるようでした。でも毎日何回も大便を失敗、下着を汚す、これが続く。もう歩くしかない。医師も歩くしかないと指導があり、毎日毎日歩く。毎日診察を受ける。少しずつ良くなっているとのこと。済生会病院に一カ月入院し退院したが、一〇〇パーセント良くなったわけではない。医師から毎日通院するよう指示があり、毎日通院し点滴を受ける。
このような状況で何処へも出掛けることが出来ない。頭の中には常にトイレが何処か、でも何回も大便を失敗。それは、それは、辛いものでした。医師に話しても直腸手術後はどうしようもない、注意して生活するしかないと説明を受ける。その内、大腸の手術の影響か腸閉塞を起し三日入院し、手術なしで退院出来た。肛門の方はあいかわらず。こんどは小便の回数が多くなり相談したら、皮膚尿科の医師に紹介され受診したら、何の薬か処方され、この薬を飲んだところ、その夜尿が出ない。腹に貯って腹がパンパン、腹が痛む。夜中にその病院へ行く。管で尿を出してくれる。楽になり家に帰る。少し時間がたつとまた腹が痛む、また病院へ。その夜、病院へ三回も。同じように管で尿を出してくれた。こんなことでまた入院することになる。入院してから、尿を出すため管で尿を抜いて呉れる。管は膀胱へつながったまゝ、その管の入口が非常に痛む。話してもどうにもならん。その痛さでほんとうに辛い。何日か入院、良くなったようで退院し通院することになる。どうも良くならん。これは前立腺の病の疑いがある。専門の病院へ紹介され、その病院で前立腺の手術をすることになり、平成一八年前立腺の手術を受ける。この手術も辛い辛い、痛い痛いものでした。手術後は小便の垂れ流し、小便道が痛む。出血するわ、大便も小便も垂れ流し。大変難儀したものです。時間がたつと小便は良くなったが、大便は相変らず。死ぬまで付き合わなければならいよう。そんなことから、人工肛門の方が良かったのではないかと疑う日もある。
こんどは、平成二一年自動車免許更新の日が来て、視力不足で大型免許は出せない。普通免許更新はOKとなったので眼科病院へ診断を受ける。白内障と診断され、手術を受けることになる。右の眼球は縫い合わす必要があったが、右左とも白内障の手術は成功し良くなる。平成二五年大腸ポリープの検査、大腸ポリープ切除手術を受ける。
最近、良く鼻血が出る。耳鼻咽喉科で診察を受ける。正康の鼻の中の粘膜が薄いと説明を受ける。私の友達で昭和二〇年八月六日同じ行動、同じように被爆した友達は何年か前、血が止まらなくなって死亡した。もしかすると私も、と思い心配になるがどうしようもない。以前から首肩の痛み、特に腰の痛みが最近ひどくなり、整形外科へ診察に行く。腰痛にコルセット、痛みは少し柔らげた。足の裏が痛む。歩くとき非常に痛む。こんどは足の裏へはめるもので、約一ヶ月程度で良くなったよう。そのように整形外科へ通院する。正康さんの病は、頚椎脊柱管狭窄症と云われ、この手術は出来ない。とにかくあなたは転げるな、首打すな、これを受けると寝たきりになると説明を受ける。受診するたびに同じことを指導される。こんなことから、医師から被爆直後の痛みは、この病が原因かもと云われ、昔は、この病はレントゲン等で発見することが出来なかったと説明を受ける。
最近また変った病か、平成二八年一一月頃足の裏が痛む。皮膚科へ診察に行く。私はその医師に、特に朝起きた時、足の裏に何かが付いているようで、歩く時も同じように足の裏に何かが付いているようですと医師に訴える。医師は何が原因か良く分からないのか、カユミのある所へこの薬をと説明を受けるが、私はカユミはない、足の裏に何かが付いている感じと訴える。これも被爆が原因かと思う。でも医師の処方で呉れる薬を、毎日朝夕足の裏へ。今平成二九年四月、もう六ヵ月も薬を付けている。その医師は見ても良くわからん、感じる所へ薬をと指示がある。私は医師の指示どうりにする。
私は自分の体力の維持と、ストレスを作らない。そのため出来が悪くても無農薬、化学肥料使わずに栽培、これを食す。
また、ヨモギ、イタドリ、ブルベリー等を焼酎浸けにして、薬と思い舐めている。
特にヨモギについて説明すると、山畑で怪我をしても、ヨモギだけで治したものです。今もその傷あと、キッポが幾つもある。まずストレスを作らない。これからも囲碁、カラオケ、無農薬、化学肥料を使かわず栽培等、健康に気つけて生きて行こうと思う今日このごろです。
何才まで生きれるかね。
特に核兵器廃絶に努力が必要と思う。原爆の恐しさの記憶が薄らいでいるよう。核兵器をなくすため頑張るしかない。
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