●戦時下の生活
太平洋戦争末期の昭和二〇年、私は一五歳の女学生でした。自宅は上柳町(現在の上幟町)にありましたが、建物疎開のため立ち退きとなり、同じ町内の三軒隣に転居しました。建物疎開とは、空襲による火災の延焼を防ぐために建物を取り壊す作業のことです。
家族は父・北川熊雄と母・北川キミ、兄・北川政男の四人で、兄は東京の大学に通っていたのですが、夏休みで帰省しており、自宅であの日を迎えました。
学校は広島女子高等師範学校附属山中高等女学校という、現在の広島大学附属福山中・高等学校の前身の一つで、当時は三年生でした。とはいえ、戦時色が濃厚になり授業は受けさせてもらえず、上天満町の三宅製針㈱という軍需工場に学徒動員されていました。一番の楽しみは、工場最寄りの天満町電停までの道のりを、友達とおしゃべりしながら帰途につくことでした。
●被爆前後
三宅製針(株)では、一階で工員さんが大きな機械で作った部品を二階に上げ、それを私たち学徒や徴用工の人たちが、やすりできれいに磨く作業をしていました。八月六日、朝礼後に二階の持ち場で部品が上がってくるのを待っていましたが、なかなか上がってきません。そのため一階に降りて、部品を待っていた時でした。ものすごい閃光がサッと横に突っ走りました。アッと思ったと同時に白煙が吹き上がって、天井を貫きました。そこで私の記憶は途切れました。
気が付いた時には、私は工場の下敷きになっていました。がれきに挟まれて動けないのですが、幸運なことに足だけは下敷きから免れていたので、両足をバタバタさせながら大きな声で助けを求めました。どれくらいの時間がたった後かは覚えていませんが、突然誰かが私の両足首を握って、物凄い勢いで引きずり出してくださいました。私はもうろうとした状態で、周囲を見回したところ、見渡す限りがれきの海でした。そして、本来ならば見えるはずのない広島駅が、手に取るように近くに見えてがく然としました。私を引っ張り出してくれたのは誰だったのか、今もなお分かりません。
●地獄を見た
私は何が起こったのか皆目見当もつかず、怖くて身がすくんで、その場にしゃがみ込んでしまいました。すると、近くに生えている雑草に自然に火がついて、燃え始めました。不思議なことがあるものだと思って眺めていたのですが、だんだん燃え広がってきたので、重い腰を上げて福島川の川土手へと移動しました。
河川敷に降りてみると、驚がくの光景が広がっていました。髪を振り乱し、顔面そう白で目はとろんとして、まるで幽霊のような風貌の人びとがふらふらと歩いているではありませんか。中には顔半分が陥没した人や、眼球が潰れている人もいました。そんな人びとがうずくまってうめいたり、寝転がって水や助けを求めたりしていて、もうそれはこの世の有様ではない、地獄絵図そのものでした。私は一人で雁木(階段状の船着き場)に腰をおろして、ただぼんやりとしていました。後から思えば、あまりの出来事に感情を失ってしまったのだと思います。
●命からがら川を遡上
放心状態で川を見つめていると、だんだん川の水が満ちてきて河川敷の幅が半分くらいに狭くなっていることに気が付きました。このままではいけないと思い、振り返って工場の方を見てみると、そこはもう火の海になっていました。逃げることができない、どうしよう!とっさに私は、川を上流に向かって泳いで逃げようと決心しました。幸いなことに自宅が川沿いにあって、幼少の頃から暑い時には川で泳いで涼んでいたので、泳ぎに不安はありませんでした。
私は勇気を振り絞って川に入り、静かに上流に向けて泳ぎ始めました。水が澄んできれいだったことが、すごく印象に残っています。しかし、北上していくと、またも想像だにしなかった、恐ろしい場面を目の当たりにしました。行く手に架かる大きな木造の橋がぼうぼうと燃えて、火だるまになった木片がどんどん川の中に落ちているのです。前に進むことはできないし、かといって元いた場所に戻ることもできない。どうしよう…。立ち泳ぎしながら燃え盛る橋を見つめていました。しばらくして、橋の両端にある橋台は石造りなので、燃えていないことに気が付きました。恐る恐る橋台に身を寄せながら、なんとか橋をくぐり抜けました。
ほっとしたけれど、何とも言えない心細い気持ちになって、涙がとめどなく溢れてきました。その後も、泣きながら必死に泳ぎ続けました。
●黒い雨と紅れんの炎
泳いでいくうちに周囲の景色が変わってきて、打越町辺りにたどり着きました。私は土手際に生えていた植物につかまって、ようやく土手に這い上がることができました。濡れた制服ともんぺ(膝から下はなくなっていた)を脱いで乾かしながら疲れた体を休めていると、急に空がサッと薄墨を流したように暗くなり、真っ黒い雨が勢いよく降ってきました。大粒の、ドロッとした雨粒でした。しばらくすると雨は上がって、何事もなかったかのように夏の暑い日差しが戻ってきました。当時は不思議だなと思った程度でしたが、その雨が放射能を帯びていたことを知ったのは、何年もたってからのことでした。
やがて夜のとばりが降りて、暗くなってきました。周囲には誰もおらず、一人川土手に腰を下ろしていると、紅れんの炎に広島市内が包まれている様子が見えました。時折、大きな音とともに火柱が上がります。とても怖くて、心細かったです。その時になって初めて、家族はどうしているのだろうかと思い至りました。自宅は、今まさに炎が立ち昇っている方角にあります。どうか逃げていてと泣きながら祈りつつ、燃え盛る広島を見つめて夜が明けるのを待ちました。
●死の世界
翌七日、家族の安否を確かめるために、上柳町の自宅に帰ることにしました。歩くしか手段がなかったのですが、橋がなくなっているので、かなり遠回りをしたように記憶しています。ある所では、道路の両側に筵(藁やイグサなどの草で編んだ簡素な敷物)が敷いてあって、その上に瀕死の重症者がびっしりと横たわっていました。周辺部の町や村から親類縁者を捜しに大勢の人びとが、続々と広島市内の中心部に向かって歩いているのですが、その人びとに向かって「助けてください」「水をください」「私はどこの誰です」と、か細い手を差し上げて懇願しておられました。私も、そんな中を通って中心部にさしかかりました。
そこはさらにひどいありさまで、赤茶けた電車がひっくり返っていました。周辺にいっぱい死体があるのですが、全て炭化して真っ黒になっていました。表か裏かも分からず、かろうじて人間の形と分かるような状態でした。また、逃げ出した軍馬が、たくさん仰向けに転がっていました。皆、腹が膨れ上がって真っ二つに裂けて臓物が流れ出ていたため、強烈な悪臭を放っていたことを覚えています。
夕暮れになって、ようやく上柳町にたどり着きました。しかし、自宅も蔵も潰れてしまっていました。見渡す限りの焼野原で、家族はおろか人ひとり見当たらず、不気味なくらい静まり返っていました。まるで、死の世界のように感じられて、恐ろしくてその場を立ち去りました。
●泉邸(縮景園)にて
私は思い立って、自宅から近い泉邸に行くことにしました。そこには大きな池があるのですが、その池を囲うように重症者が二重三重に横たわっていました。水を求める声、うめき声、重症者を励ます人びとの声、たくさんの声がこだまする異様な光景でした。その中に、町内の人がたくさん避難しておられました。知り合いの顔を見ると、ほっとしたような気持ちになりました。私を抱き締めて「ああ、無事だったね」と涙しながら喜んでくれた方もいたのですが、家族の安否を知る人はいませんでした。
そんな時に、小さなおむすびを一つもらいました。一口食べたその瞬間、凍り付いていた私の心の中を、何か温かいものが突き抜けたように感じました。すると、涙があふれ出て止まらなくなり、そのまま声を上げて長い間泣きじゃくりました。そうして夜明けとともに、池を取り囲んでいる重症者の多くが、そのまま息を引き取っておられました。
●家族との再会
明けて八日のお昼ごろに、いとこが私を捜しに泉邸にやって来て、家族が元気で避難していることを知らせてくれました。それを聞いた途端、それまで身も心もしょうすいしきっていたのに、どこから湧いてきたのか一気に全身に活力がみなぎりました。しかし、家族がいる場所は東雲町にある親戚の家と告げられました。真夏の厳しい日差しが照りつける中、畑に囲まれた田舎道を家族に会いたい一心で、汗とほこりにまみれてひたすら歩き続けました。夜になってようやく、家族と涙の対面をすることができました。
父は陸軍の糧秣支廠で働いており、支廠の疎開先である可部町(現在の広島市安佐北区)に向かう電車の中にいる時に原爆が投下されたので、ケガもなく無事でした。一方、母は自宅の庭を掃除している時に屋外で被爆したので、全身大火傷をしてしまいました。私と会った時には顔がボールのように真ん丸に膨れ上り、服から露出している部分には全て血膿がべったりと覆いかぶさっている状態でした。目は血膿でふさがって私の顔を見ることもできません。それでも私は、命があって生きていてくれたことが嬉しくてたまりませんでした。何としても火傷を治してあげないといけないと、強く覚悟しました。
兄は、自宅の縁側で横になっていた時に被爆しました。全身を打撲した上、ガラスが突き刺さったのですが、母ほどひどくはなかったそうです。川に逃げてはい上がった時に父が帰ってきたので、父に背負われて東雲に避難しました。父はすぐに取って返して母を見つけ、兄と同じように母を背負って東雲へ逃げたそうです。
●大火傷した母の看病
それから壮絶な看病が始まりました。東雲町は今ではびっしりと家が建っていますが、当時は郊外の畑が多い所で、幸いなことにトマトやジャガイモ、キュウリなどがあったため、それらをすってはガーゼで絞り、その絞り汁を布に浸して、母の全身に貼り付けました。特に指の股などに貼るのが大変でした。すごく熱を持っているため、全身に貼り終えない内に最初に貼った部分は乾いてきます。乾ききったものを剝がすと、血が噴き出てとても痛がるので、生乾きのうちに貼り替えなければなりません。ひたすら貼っては剝がしてを繰り返す毎日でした。熱を吸収してくれるので、ひどくはならなかったのが救いでした。また、血膿はものすごい臭いを発してました。その臭いに引き寄せられるのか、血膿にハエがたかってきます。あわてて追い払うのですが、あっという間に卵を産み付けて、見ると一ミリくらいのウジがびっしりと湧いていました。私は、気が動転するのをなんとか抑えて、痛がる母をなだめながら、ウジをこすって洗い流してあげました。それはもう本当に大変でした。
●終戦
私たち家族はその後、佐伯郡五日市町(現在の佐伯区)にある母の実家に身を寄せました。八月一五日、その日も母の看病に精を出していたのですが、お昼頃に大事な放送があると聞いていたので、ラジオをかけたままにしていました。それは、戦争の終結を知らせる玉音放送でした。私は戦争に負けたのだと分かった時、体中の力がすっと抜けたように感じました。
夜になり、私は踏台を持ち出して、電気の傘を覆っている黒い布を外しました。当時は灯火管制といって、夜間空襲の目標となることを防ぐために外に明かりが漏れないようにしていたのですが、戦争が終わり不要となったので外しました。五〇センチくらいの黒い布をサッと取った瞬間、電気の青白い光が目にしみ込んできました。薄暗い中での生活に慣れていたので、とても眩しく感じて、「ああ、これで本当に戦争が終わったんだ」と安堵感を覚えました。とはいえ、その後も母の看病に明け暮れる日々が続きました。
●友の死と決意
年を越して早春を迎える頃、近くの学校で医師に診てもらえると聞き、私は母を大八車に乗せて連れて行きました。長い時間待ちましたが、なんとか診ていただくことができました。もらって帰った薬を塗ると、まるで薄紙を剝ぐように回復して、薬の凄さをひしひしと感じました。
母は日に日に元気になり看病が楽になった為、三学期半ばにようやく登校することになりました。久しぶりに友達に会える!話したいことがいっぱいある!喜びに胸いっぱいで、いそいそと学校に行った私を待っていたのは、あまりに残酷すぎる事実でした。登校すると、待ち構えていた先生に呼びとめられて、隅の方に連れて行かれました。そして、私と同じ工場に動員された級友たちのほとんど全員が亡くなっていたことを聞かされたのです。たまたま部品を取りに階下へ降りた私は生き残ることができましたが、二階の持ち場にいた友達の多くが命を落としてしまった。その現実に私は打ちのめされ、このことは心の奥底に秘めて、絶対に口に出すまいと決意しました。程なくして私は広島市立第一高等女学校に転校して新しい生活を始めましたが、原爆に関する事は一切口にしませんでした。
数年後、東京の専門学校を卒業した後に良縁を得て結婚し、子宝にも恵まれました。ありがたいことに髪の毛一本抜けることなく、元気で今日を迎えています。母は瀕死の大火傷から見事に回復して私の結婚を見届けた後、昭和四一年に六〇歳で旅立ちました。孫の顔を見てもらうことができたので、悔いはありません。父も母を追うように、昭和四三年に病死しました。
●亡き友に背中を押されて
貝のように口を閉ざして生活していても、あの日が近づくと原爆で亡くなった友達の顔が胸をよぎります。平成一四年、平和記念式典に参列した時のことでした。ある方が私たち被爆者に、平和のために戦争を知らない世代に伝えて欲しいと熱弁をふるわれるのを聞いて、目が覚めました。私も何かのお役に立ちたいと思い、それから被爆体験証言者として活動させて頂くようになりました。でも、一緒に動員された級友たちが大勢亡くなったのに、私は生き残ったということだけは、当分の間は言えませんでした。どこか後ろめたい、申し訳ない気持ちが、少なからずあったのだと思います。
しかし、他の証言者の方が親兄弟を亡くされたことなど、自身の体験を赤裸々に話しておられるのを聞くうちに、私も話さなければいけないと感じるようになり、思い切って話すことにしました。すると気持ちがとても楽になって、今では亡くなった友達がいつも一緒にいて、背後から叱咤激励してくれているように感じるまでになりました。とても時間がかかりましたが、これで良かったのだと思っています。
●かけがえのない平和
核兵器ほど恐ろしい、残酷な兵器はありません。どんなことがあっても絶対に核兵器は廃絶すべきです。終戦から七〇余年、今日の平和は数えきれない程多くの犠牲の上に成り立っています。これからの未来を担う皆様方には、たとえ小さなことからでも、一人ひとりが平和のためにできることをしていただきたい、そしてかけがえのない平和を守り続けてもらいたい、そう願っています。
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