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私の昭和史(被爆体験など) 
西村 一則(にしむら かずのり) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2018年 
被爆場所 鶴見橋(京橋川) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 松本工業学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●小学校への入学
私は昭和七年生まれで、豊田郡小谷村(現在の東広島市高屋町小谷)で生まれ育ちました。実家は農家でした。そして、昭和十四年に小谷尋常高等小学校に入学しました。

小学校の国語、読み方で忘れることのできないことがあります。授業で最初に習ったのが「サイタ サイタ サクラガサイタ」でしたが、その後、出てきたのは「ススメ ススメ ヘイタイサン」でした。

唱歌の時間で最初に習ったのは「鉄砲担いだ兵隊さん 足並みそろえて歩いてる とっとことっとこ歩いてる 兵隊さんはきれいだな 兵隊さんは大好きだ」で、また、この歌は好きだったのですが、「肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦った兵隊さんのおかげです」という歌もありました。とにかく兵隊さんのことばかり教えられました。

学年が上がると、今度は神国日本の話を教えられました。教科書で、神様が雲の上から長い矛で海をかき回して、そのしずくが島になったという教え、すなわち日本は神の国だということを教え込まれていたのです。

あの頃は、日本は世界で一番強い国で、他の国の人は劣った人たちだというようなことをみんな言っていました。

●戦時下の村での生活
三年生の時、昭和十六年四月から小学校は国民学校となり、この年の一二月八日、日本軍がアメリカの太平洋艦隊が集結している真珠湾を攻撃し、それから四年間、日本の国民みんなが苦しい、恐ろしい時代に入っていくことになりました。

あの頃、校長先生に「アメリカやイギリスみたいな大きな国と戦争して勝てるのだろうか」と聞くと、「大丈夫、日本は神の国だ。日本には大和魂がある。愛国心がある。これがあれば負けはしない」と何度も言われました。外国人、日本人の他は獣か何かで、日本は神の国だという考え方でした。

当時の日本の男子は、二十歳になったら徴兵検査があって、体が元気だと甲種合格となり、赤紙(召集令状)が来たら、どんな事情があっても兵役に行かなければなりません。これは国民の義務、日本男子の義務でした。「何月何日何時にどこまで来い」という通知が来たら、どんなことがあっても、家庭の事情は関係なしに行かなければなりませんでした。

それで、何度も、私たちは村から出征兵士を送ったのです。国民学校に集まって、兵隊さんがあいさつして、紙で作った日の丸の旗を振って、出征兵士を送る歌を歌って送り出します。白市駅まで旗を持って見送りに行くのですが、さすが日本男子だから、行くのに涙を出したらいけないと我慢しているのが分かりました。それでもこらえきれずに、汽車に乗るときに涙を流していました。これは今でも覚えています。あれは本当に悲しかった。行ったら帰れるか帰れないのか分からないから、ほとんどの人が汽車に乗るまでは我慢しているのですが、乗るときに涙をぽろぽろ落とすのが分かりました。次から次へと、兵隊さんを送りました。

そして、戦争で足や手を失った傷痍軍人が帰ってきて、その人に戦争の話をよく聞きました。知らない所に行って、行ったら民兵が時々襲ってきて、命がけで、夜寝ていても、ガチャッといったらぱっと起きて、ぐっすり寝る暇がなかったそうです。そのため、戦争に行ったら、人は鬼になるのだと言っていました。

それから、徐々に今度は戦死した人が帰ってくるようになりました。その人は、桐の箱に入っているのは、遺骨ではなく石ころなのだと話していました。その話は信用してよいかどうか分かりませんが、戦友が死んでも戦場で遺骨を回収するわけにはいかないでしょうね。だから、その近くの石ころを入れて持って帰ってきたのかもしれません。昭和十九年になると、次から次へと戦死、戦死で出征した人たちが、あの桐の箱になって帰ってきました。立派な箱で菊の御紋章が入っていました。その箱を憲兵が二人で持って来ました。

国民学校上級生の時には、田植えや稲刈りなど、戦争に行かれた方の家に手伝いに行きました。それであまり勉強はしませんでした。

●傷痍軍人から聞いた戦争の話
戦争がだんだん深まっていって、アッツ島、硫黄島の玉砕(軍隊が全滅すること)が発表されましたが、その頃、傷痍軍人から聞いた話は、次のとおりでした。

「アッツ島などは玉砕、全滅したが、それは日本軍が弱くての全滅でない。島への輸送手段が途絶える。食料も弾薬も持って行けない。それで孤立してしまう。食べるものがないので、皆やせ細って死んでいく。それで、生きようと思ったら人の肉を食べる。
考えたくもないけど、そういうこともよく耳に入ってきて、うわあ、戦争は怖いと思った。そのような思いをしながら、『お父さん、お母さん、さようなら』と言ってみんな死んだ。『大日本帝国天皇万歳』と言う者はいなかった」

そのような話を聞きました。

●福島先生の思い出
昭和十九年、国民学校六年生の時、「広島の師範学校を出たすごい女子の先生が来て、六年生を受け持つ」と聞いて、どんな先生だろうかとびくびくしていたら、福島先生といって小柄な、同級生みたいな、かわいらしい先生が来られました。

その先生が、毎日朝早く一番に来て、掃除をしたりするのです。私たちが、教員室に行って、「福島先生、おはようございます」とあいさつしたら、「西村一則君、おはよう」とフルネームで返してくれました。そして、こちらを見てにこっと笑ってくれるのです。これがすてきで、本当にかわいい先生でした。

授業のときも、知的障害のある子が、教科書を一生懸命読んだとき、「立派に読めたね、家で今日のために練習してきたのでしょう。すごいね」と褒めます。教室のみんなに「立派に読めてよかったと思う人は手をたたいて」と言うと、みんな手をたたきますよね。そうしたら、「みんなもどうだろう。帰ったらすぐかばんを放り投げずに、今日は何を勉強したかなってちらっと三分間で良いから。それから三分間で良いから、明日の予習をしてもらえないかな」と言うので、みんなは「はい、します」と言って手を挙げます。そうしたら、「嬉しい。嬉しい」と言って、「あなたたち良い子ね。受け持って幸せよ。あなたたちは、私にとっては宝だからね」と言ってくれました。

卒業式の日、卒業式の歌を歌った後、女の子が皆で声を合わせて「福島先生ありがとうございました」とお礼を言いました。全校児童、先生も皆、日頃のことを良く知っているので、みんなが泣き出しました。

●八月六日
国民学校を卒業後、私は松本工業学校に進学しました。毎日、白市駅から汽車で通っていました。でも授業を受けた記憶はあまりなく、学校には行かないで建物疎開の作業に出ていた毎日でした。

八月六日の朝も、いつものように白市駅から汽車に乗ると七時過ぎに警戒警報が出て汽車が止まりました。「今日は行かなくてもいいのかな」と思いましたが、そのうち汽車はゆっくり動きだし、しばらくすると警報も解除となり、「やはり行かなければいけないのか」と思いました。

広島駅前で集合し、三十人ぐらいで列を組んで京橋川に沿って比治山下を経由して、田中町付近の建物疎開の作業場所に向かっていました。警戒警報も解除になり安心して歩いていたのですが、鶴見橋を渡ろうとした時、B29特有のブーンという太く大きな音が聞こえてきました。

「あれはB29の音ではないのか」、「大丈夫、解除になっているから」と言っているうちにピカッと光って、私はその「ピ」という時に気絶してしまいました。その時の温度はたとえようのない高温で、その一瞬のピカで服は焼け、顔や頭の右側は大やけどを負っていました。

私は、建物のがれきの中に埋まって、出ようとしましたが、左足が材木に挟まって抜けませんでした。「おーい、誰か助けてくれ」と大声で叫んでも、みんな自分の命のことで精一杯、誰も助けてくれる人はいませんでした。

死にたくないと思っていたら、周辺から火が迫ってきました。「誰か足をもいでくれ。命だけは欲しい。死にたくない。家にもう一度帰りたい。足はいらない、命だけは欲しい」とさまざまな思いが去来し、足が挟まっている時の苦しみは本当に地獄でした。
いよいよ火が迫ってきて、「極楽へ行くのか、地獄へ行くのか。家に帰りたいよ、お父さん、お母さん」とつぶやいていると、一人の兵隊さんが、「おい、学生がんばれ」と言って、棒で足を挟んでいた木を持ち上げてくれました。「抜けた。助かった。兵隊さんありがとう。命が助かった」と思って歩こうとしたら、左足の骨が砕けていて歩けませんでした。

はってでも逃げようと膝で歩こうとしましたが、一面がれきが積もっていて、はって逃げることもできません。それで、ここなら火は来ないだろうという所まで移動し、お母さんはちょっと無理かもしれないけれど、お父さんか大きいお姉さんが捜しに来てくれるかもしれないと考え、その場所で待つことにしました。

日がかんかんに照って暑い日だったので、やけどしたところがじんじんしていたのですが、もし捜しに来てもらっても、顔が分からないといけないので、我慢して上を向いて、「お父ちゃん、大きいお姉ちゃん来てくれ」とつぶやいていました。

暑いから、もうろうとして、うつらうつらとしていると、「おい、西村」と声を掛けられました。見るとその人は真っ黒な顔をして、ほっぺたがずり下がって、目も潰れて小さくなっていました。「誰だ」と聞くと、「柳田だ」と答えました。柳田君は学校の同級生で、行きも帰りも同じ列車で毎日一緒に通っていた一番仲の良い友達です。彼は体が大きく親分肌の世話好きの男で、「足がだめになって動けない」と話すと、背中に負ってくれました。しかし、足場が悪く百メートルぐらい行ったところで動けなくなったので、「おい柳田、やっぱり無理だ。先に帰ってうちの者に伝えてくれ。わしはここで待っているから」と言っていると、今度は、安芸郡船越町(現在の安芸区船越町)に住んでいる西久保という同級生から「西村」と名前を呼ばれました。それで、二人に抱えられながら、三人で一歩一歩、広島駅方面に向かっていきました。

市内の中心部からできるだけ離れるため大内越峠を越えることにしました。大内越峠は、今のような大きな通りでなく、昔は狭い通りでしたが、その峠に向かっていると、峠の近くまで来て行き倒れた人の死体が道を塞ぐほどいっぱいになっていました。大内越峠を越えた時のことはもうろうとしていて、二人が私を見捨てないで連れていってくれたということ以外あまり記憶に残っていません。

安芸郡温品村(現在の広島市東区)に着いたとき、西久保君が「あそこにおいしそうなトマトがある」と言って、トマトを三つほど採ってきました。私と西久保君は「うまいなあ」と言って食べたのですが、柳田君は口の中までやけどをしていて、トマトが口に入りません。そして、「トマトも食べられないのか、これでは何も食べられなくなるかもしれない。何も食べられなければ死ぬのかな」と涙を流していました。あの強くて元気だった柳田君の様子を見て、そのような体でも私を助けてくれたのかと感激しました。トマトを見るといまだにその時のことを思い出します。

その後、府中町を通って、西久保君の家のある船越まで歩いて行きました。西久保君は家に帰り、私と柳田君は、西久保君の隣の三川さんというおばあさんから「あなたたちはうちに来なさい。面倒見てあげる」と声を掛けてもらい、その晩はその家に泊まり、翌日家まで送ってもらいました。

小谷の家に帰った時、家族や近所の人は喜んでくれました。父は、私を捜しに広島市内の方に出ていました。六日も七日も出てくれたのだそうです。その父は、翌年の正月過ぎぐらいから寝込んで一年後に亡くなりましたが、急性白血病だったのかもしれません。被爆の影響はあったのではないかと思っています。あの頃は核の恐ろしさについて医者の方もよく分からず、被爆の影響だと確信できなかったのだと思います。

●家での療養
私は寝たきりの状態で、薬がないため薬草を刻んでつけたりしましたが、効果はありませんでした。数日するとやけどしたところからウジが湧いてきました。それを姉、弟、妹が交代で、箸で取ってくれるのですが、取っても取っても次々と湧いてきて、気分が悪くなって、とても生きている気がしなくなりました。夜も寝ることができず、頭もおかしくなり「わしは我慢できない。死にたい、死にたい」と言ったら、母も「お前が死ぬのなら、私も死ぬ」と言って、井戸に飛び込もうという話になっていました。

そんなある日、小学校の担任だった福島先生が訪ねてきてくれました。私が「死にたい」と言ったら大変怒って「あなたの命は、天からの授かりものよ。あなたが自由にできるものではないのよ。生かしてもらった以上は、一生懸命生きて、あなたの使命を果たさなければならないのよ」と説教されました。

時間が薬になったのでしょうか、十分な薬などはなかったのですが、家族の懸命の看護と福島先生の励ましのおかげで、半年くらいたった頃には、左足は不自由ながらも一人で立って歩けるようになりました。

●戦後の生活
学校へは、翌年の春に復学しました。行ってみると柳田君も西久保君もいませんでした。先生に聞いたら二人とも死んだとのことでした。クラスの者で来ていたのは半分以下でした。多くの者が死にました。

学校を卒業し、株式会社佐竹製作所に勤めた後、事業を立ち上げ精米機の塗装の仕事を引き受けました。

その後、昭和三六年に東洋工業株式会社に塗装工として入社しました。東洋工業では改善提案を次々と行い、それが認められて生産管理の部門に配属されました。そこでも改善提案を行い表彰されました。最後は若年職員を育成する教育センターに配属となりそこで定年を迎えました。

定年後は、身障者訓練センターでふすまの張り替えや掛け軸の表装等を学び、「ふすま張替センター」を立ち上げました。この仕事は八十歳になるまで二十年間続けました。

左足に障害が残り、仕事をしていく上で、痛む時やしんどい時もありましたが、私の命を助けてくれた柳田君や西久保君が全うできなかった人生、私は、彼らの人生も生きなければいけないと頑張ってきました。

●伝えたいこと
戦争はしてはいけません。だから、十二月八日のことは絶対に忘れてはいけません。戦時下には、日本は神の国と教えられ、戦争に反対するようなことを言ったら国賊だ、非国民だということで牢に入れられた、そういう怖い時代でした。原爆も絶対悪です。
核は地球をだめにします。平和利用といっても核廃棄物の処理ができません。

今、日本は岐路に立っているような気がしています。昔の大日本帝国に戻るのではないかと。そのことが一番怖いです。今もあちらこちらで、宗教の考え方や民族の考え方の違いで、戦争、小競り合いがありますが、やはり人間は聞く耳を持ってお互いに譲れることは譲って、いつまでも今の平和が続くことを願っています。私にはひ孫が三人いますが、このかわいいひ孫が戦争に巻き込まれないように、がんばってほしいと思います。
  

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