●被爆当時の家族
私の家族は、父・栄次郎、母・ミツノ、長男・英生、次男・茂、三男の自分の五人です。
被爆当時、父は商売のため、現在の中国東北部と北朝鮮の国境付近にいました。長男は、昭和一五年に志願して海軍に入り、被爆当時は呉で航空母艦「鳳翔」に乗っていました。この航空母艦はあまりにも古くて、海外に出られずに、呉で終戦を迎えました。
次男は召集され、二〇歳の時に呉の安浦海兵団で病気のため亡くなりました。戦争後半になると、病身で養生中であっても、成人になれば軍人となるべしと、強制された時代でした。
●被爆前の生活
当時、私と母は南観音町の叔父・谷本一磨の家で暮らしていました。叔父は召集で中国に行っていたので、住んでいたのは叔父の妻・秀子と乳児一人と私たちの四人でした。隣家に叔父の弟・工と妻・チヨが暮らし、子ども三人は疎開中でした。叔父・工は中心部の建物解体中に被爆死しました。当時、南観音町は大半が畑で、有名なねぎや野菜等を作っている農家でしたが、軍隊に行って人手が足りず大変でした。
当時の私は、旧制中学校の三年生で、一年のときには学校に行って、鉄砲を持たされ訓練を受けていました。三年からは、学徒動員で軍需工場であった己斐町の東洋製缶に行っていました。東洋製缶の広島工場は、西天満町ですが、六か月前に工場の一部が目立たない山の中腹に疎開していました。山の中を開拓したのですが、今みたいにパワーショベルもないから、山を削るのも手作業です。私は、機械の引っ越しをしました。
工場内の人の話では、東洋製缶では、飛行機の魚雷を一日に一本作っていました。月に三〇本できたらボーナスが出ました。ボーナスと言っても、むしろに入った夏みかんなどです。勤務は交代制で、朝からだったり、昼からだったりで、昼からの勤務は午後二時からだったことをよく覚えています。私は、旋盤を使って作業をしていました。
昼からの勤務の時は、たいてい、叔父が持っていた小型の釣り舟に乗り、モリで魚を突いて捕っていました。叔父の家が天満川のすぐそばなので釣り舟を持っていたのです。天満川は、満潮の時でも川底まで見える水がきれいな川で、アサリなどの貝がたくさんいて、タイルを敷き詰めたみたいに並んでいました。貝は底を掘るのではなく、網ですくって持って帰っていました。魚は、ハゼのほかに、ボラ、チヌなどが満潮時に川を上ってくるのです。魚は、網ではなく、モリで突きます。魚が多くて、どこに投げても魚がいました。
●八月六日当日
八月六日は雲一つない天気で、その日は、東洋製缶へ行くのが午後二時からだったので、魚でも捕ろうと思い、叔父の釣り舟に乗りました。満潮になりつつあったため、舟はほっといても流れのまま川の上流に向かって移動していました。観音橋のところで舟の端から、魚の群れめがけて、右手でモリを振り上げたその時に、空が白黄色になり、「ピシューン」と空気が抜けたような音と光がして、背中の後ろからものすごい風で川の中に放り込まれました。白い服を着ていたので焼夷弾にでもやられたのかと思い、息が続く限り潜っていました。
普段は、白色は目立つからカーキ色の国防色の服を着るように命じられていましたが、この日は、たまたまペラペラの薄い半袖の白いシャツを着て、長ズボンの裾を太ももまでまくり上げていました。帽子はかぶっていませんでした。白いシャツを着ていたので、それで狙われたんだと水の中に潜っている時に頭に閃きました。息が我慢できなくなって上がったら、どこもかしこもぐちゃぐちゃで一変していました。
白いシャツを着ていたため、背中だけはやけどから逃れられましたが、後頭部、首の後ろ、両腕の後ろ、両足の後ろなど、シャツから露出していたところはすべてやけどをしました。後ろの髪も黒焦げでした。遮るものがなかったので、ひどいやけどを負いましたが、白いところは何ともなかったのです。
釣り舟に乗って自宅の近くの雁木から上がり、火の粉があちこち振り落ちる中、急いで自宅に戻りましたが、叔父の家は壁が吹っ飛び、柱だけ残った状況でした。叔母は、自宅の隣の家の大きなコンクリートの塀の下敷きになっていたので、塀を起こして助け出しました。塀が割れて倒れてきた時、叔母は子どもに乳を飲ませており、叔母がかばったのでしょう、子どもは何ともありませんでした。二人は、この塀のお蔭で、原爆の光線には当たらなかったみたいです。あの頃の電信柱は木製で、町の中心を向いた面は黒こげになりました。
その後、母親のところに行きましたが、母は家具の下敷きになって、うなっていました。二階はサンルームみたいにガラスをたくさん使っており、その二階に母はいたらしく、ガラスの破片が飛んで、まぶたを切っていました。家具をどけて、母を起こしたところ、右目のふちが切れて、眼球が飛び出ていました。飛び出た眼球を見たのは初めてだったので私は驚きました。すぐに自分が着ていた白いシャツを引き裂いて、母の顔に巻きました。
戦争中はどの家庭でも、いざという時に持って出るリュックサックのような物を用意していました。私は、自分の家の物と、持ち出すように頼まれていた叔父と叔父の弟の物を持ち出して、それぞれのお嫁さんに渡し、母を連れてねぎ畑へ逃げました。
昼ごろにまっ黒な雨が強く降り出したので、家からわずかに持ち出した物の中からシーツを取り出して、屋根の代わりに張って、一時間ほど雨がやむのを待ちました。
時間の経過とともに、やけどした両足が使えなくなり、身動きできなくなりました。周りの畑はいっぱいになるくらい、街中から逃げてきた黒くすすけた人たちが多く集まり、次々と倒れて死んでいきました。近所の藁の屋根に火の粉が落ちてきて火事になり、自分(叔父)の家に燃え移って全焼しました。防空壕に大切なものを入れていても、蒸し焼きになりました。街中の炎の上がる明かりを見ながら、この日の晩は母と二人畑で過ごしました。
●被爆後
畑には水道がないので、近くの未熟な生のスイカやとうがんなどをしゃぶり、しのぎました。
生死の区別もつかない人びとの群れの中で、家族の安否を尋ねる人たちが大勢やって来ました。その人たちの話を聞いて、そこで初めて被害の大きさが分かったのです。
病院にも行けず、薬もなく、血水のしたたるやけどの痛さ、苦しみで死を待つしかないと思いました。
二、三日して、私は歩けないので、三菱重工の知人におんぶしてもらって、叔父・工の妻・チヨの実家である江波の中村さんの家まで母も一緒に連れて行ってもらいました。薬もなく、ただ寝ているだけでした。じゃがいもをすって傷にあてたり、梅をあてたり、大根おろしを塗ってみたりしました。塗ったときはひやっとして気持ちがいいのですが、皮膚の表面が乾いて剥がすときに、赤身と一緒に取れるので、その痛みがつらくて、私は「殺せ、殺せ」と言っていたそうです。母は、私のシャツを顔に巻いたまま、傷口を押さえてふさぎました。痛かったのだろうと思います。よく感染症にならなかったと思います。江波では、大変なお世話になりました。
八月一五日に江波で天皇陛下の終戦の詔勅を聞いて、四~五日たってから五日市国民学校(現在の広島市佐伯区)に行けば薬があるという話を聞き、中村さんがリヤカーで送ってくれました。生きているのがやっとという状態で、途中の町の様子など、何も見るような余裕はありませんでした。
国民学校に着いてから、母は垂れ下がった目の応急措置だけはしてもらったような感じで、板張りの廊下に寝かされました。しかし、今までと違い、一日一回の塗り薬と一個のむすびが何より心の救いでした。学校に行くまでの二週間くらい、薬は塗っていなかったのです。
私は他にすることもなく、ウジがわかないように自分と母にハエがとまらないようにすることが一日の仕事でした。
その後、一か月間やけどに薬を塗り続けると、桃の皮みたいな薄皮ができだし、トイレにも一人で行けるようになりました。しかし、両足の関節を曲げると皮膚が傷み、血が滲み出てきます。皮膚ができたり破れたりを繰り返すうち、ケロイドとなって盛り上がり、厚さが一センチにもなりました。
石内(現在の広島市佐伯区五日市町大字石内)に住んでいた中田さんという人が、満州にいた父に、外地で世話になって恩があり、私たちがひどい目に遭って五日市国民学校にいるという話を聞き、迎えに来られ、私と母は中田さんの家にお世話になりました。九月末頃には、もう歩けるようになっていました。
塩がないから、煮炊きするのに海水を使うため、空の一升瓶を持って遠くまで潮汲みに行きました。
その年の一〇月ごろに、母の実家のある長崎県の島原からいとこが迎えに来てくれました。食も貧しく、着るもの、住むところ、何にもないし、原爆で裸になったのだから、お世話になろうということで、母と二人汽車に乗って島原に帰りました。
あの時代、島原には田んぼとなる土地が少ないので、次男坊以下はみんな船乗りになるという土地です。島原には、三井船舶の本拠がありました。三井船舶の重役が母の幼ななじみだった縁で、何とか雇ってもらえないかとお願いして船会社へ入りました。昔はそれぐらい、情が通る時代でした。原爆で受けたきずは隠していました。戦時中に船舶会社が合同し、当時三井船舶も船舶運営会の名前で運行していました。そこで私は、海外から日本人を引き揚げる、引揚げ船の船員の仕事をしました。でも、足が曲がらないから苦労しました。
あの頃は、ほとんどの日本の貨物船が沈められており、アメリカから船を借りて、引揚げ船としていました。戦争でたくさんの船乗りが死んだため、人手不足で、何とか入れてもらいました。アメリカから貸与されたリバティ船と呼ばれたアメリカの戦争標準型輸送船に乗って、博多から、上海、ラバウル、台湾の高雄に向い、引き揚げ者を帰還させました。
約一万トンの貨物船に三千人を乗せるのです。はるかに定員オーバーです。甲板でご飯を炊くのですが、三千人分の食事を間に合わせることはできませんんでした。トイレも、デッキにむしろだけで、出たものはみんな海へ流しました。でも、引き揚げ者の人は、日本に帰れるので喜んでいました。
引き揚げの仕事の後、今度は大きな船に乗り、一回出たら半年は日本に帰らないで航海をしていました。そのような生活を続け、一三年くらいたった頃、原爆の後遺症だろうと思いますが高血圧になり、途中で何かあったらいけないと思い、長期間海上にいることに不安を感じました。二九歳くらいの時、母から戻ってこいと言われ、船を降りて宇品に住むことにしました。
父は、若い頃から大半を外地で働き、その全財産を残したまま、無一文になって帰国した失意の中で、私が船に乗ってシンガポールにいる時に六四歳で亡くなりました。
母は、父が引き揚げてきたので、昭和二一年の秋ごろ、島原から広島に戻りました。原爆で右目を失い、乳がん、すい臓がん、十二指腸がんの三つのがんを長年患い、最後にはすい臓がんで七八歳で亡くなりました。
私も、両足のひざ関節のあたりがケロイドになり、三〇年間、四五度以上曲げられませんでした。今も鮮明な傷痕があります。現在、皮膚がん、胃がん、腎臓がんでずっと通院しています。
●今の子どもたちへ伝えたい思い
原爆を投下したアメリカを恨む気持ちはありません。船乗りでアメリカに行った時、日本とアメリカの差があまりにもあり過ぎて、日本がバカなことをしたものだと思いました。上に立つ人がしっかりしないと、平和にならないと思います。
明治生まれの父母、大正生まれの兄、戦時教育を受けた私は昔の人間だから、何とかして日本の国を立派に守らなければならないと思います。あまりにも今の若い人が自己中心で、何を考えているのか分からないことが嘆かわしいと思います。やっぱり、昔の人間だからそう思います。
よく話し合うとか言っても、憲法や話し合いだけでは、世界が許してくれません。私は、特に外国へあちこち行っているからよく分かりますが、やっぱり、自分の国は自分が、日本人が守らなければいけません。
表題の自分のことは自分で守るという訳は、自己中心のことではありません。人生万一緊急時、特に冷静になって立場を判断して、忍耐すれば、運気にも人情にも出会える日があると私は考えます。
核戦争で受けた放射線ですから、分からぬ事が多々あり、何代にもわたって、追跡調査で見守っていただけたらありがたいと思います。
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