●被爆前の生活
被爆当時の家族構成は、父・高橋正一(五十二歳)、母・キクノ(四十七歳)、私・弘子(二十三歳)、二人の弟・克巳(二十一歳)、勇(十七歳)の五人でした。父と母は、芦品(あしな)郡新市(しんいち)町(現在の福山市新市町)にある新市駅のすぐそばで高橋旅館を営んでおり、私はその手伝いをしていました。一番下の弟は、三原(みはら)市にあった三菱重工業株式会社三原車輌製作所に勤めており、寮で暮らしていました。
家の近くに新市国民学校がありましたが、芦品郡で一番大きな学校だったので、毎年ここで徴兵検査が行われていました。検査を受ける人は、遠くは高田(たかた)郡吉田(よしだ)町(現在の安芸高田市吉田町)からやってきており、一日では終わらないためうちの旅館に泊まっていました。新市町にある素戔嗚(すさのお)神社では、例年七月ごろに祇園祭というけんか神輿を担ぐお祭りがあるのですが、検査は、いつもその祇園祭の時期に行われていたように記憶しています。一度、校長先生から検査の事務を手伝ってくれないかと言われたことがありました。しかし、検査の際には若い男の人が全員裸になって身体測定をしたりするので、年頃の私は断りました。
●弟の出征
すぐ下の弟・克巳も、昭和十九年の夏に徴兵検査を受けました。弟は、常々、一番良い判定基準である甲種での合格を希望していました。体格も良く、勉強もできる子だったので、みごと甲種合格になり喜んでいました。そして、昭和二十年一月九日、出征することになり、近所の方や友達などたくさんの人が小さな旗を持って家から駅まで見送りに来てくださいました。そのとき、みんなが家の外で待っているのに、なかなか弟が出てきませんでした。なぜかと不思議に思っていましたが、後から家に戻ってみると、ふすまに大きく遺書が書き残されていました。遺書を撮影した写真が今でも残っています。ふすまには次のように書かれていました。
寄せ来る敵は幾万ありとても 何たわむべき新市魂
きわひなき皇のめぐみに あなうれし
報いまつらん 時来りけり
昭和二十年一月九日
弟は、中国軍管区歩兵第一補充隊の中で編成していた通称赤穂部隊として召集され、基町に配置されました。弟が召集されてから、毎週土曜に母と二人で広島まで弟に会いに行きました。面会室があり、他の人と一緒に部屋を使うのですが、食べ物を持っていっても、部屋に入る前に荷物は外に置いていくよう言われ、また、面会中も兵隊さんが見回りをしていて何か食べていたら怒られるため、あめ一つ渡すことができませんでした。
その後、下士官として従軍している親戚が、弟の班の班長さんをご存じだということが分かりました。二回目の面会からは、持っていった食べ物を外へ置いておくと、同じく基町で任務に当たっていた私の同級生が下士官室まで持っていってくれて、その部屋で弟や親戚の下士官たちと一緒に食べました。下士官室は広く、大きなテーブルがありました。
面会に行くと、弟は「もう来なくていいよ」と言うので「それなら休もうかな」と言って帰るのですが、また土曜日になると待っているかもしれないからと会いに行きました。
三回目位の面会のときに、新兵と古兵が一緒に行う銃剣術大会で二番になり賞をもらったと言っていました。よほど嬉しかったのか、賞を持って寝たそうです。
また、一晩だけ、休暇で家に帰ってきたことがあります。「軍隊では、革のスリッパでみんなたたかれるが自分は一度もたたかれたことがない」と言っていました。夜になると、「高橋くん、ちょっと手伝ってくれんか」と班長室に呼ばれ、書き物を手伝っていたそうです。班長室にはまんじゅうがたくさん置いてあり、手伝いの後は片付けておくよう言い付けられるので、まんじゅうをもらって帰り、同室の人にあげていたそうです。見つからないように布団をかぶって食べるという話を聞き、かわいそうに思いました。
面会に行くときは、堀にかかっている小さな石橋を渡り、その先の門を通ります。ところが、昭和二十年七月の中ごろのことでした。いつものように弟に会いに行くとその門が閉まっており、「もう面会はできません」と言われ会えなくなってしまいました。
その後、山口県で教育隊を編成することになったので、山口に行く前に一度家に帰してくれるとの知らせがあり、帰宅を心待ちにしていました。
●弟を捜して広島へ
八月六日、旅館の裏口から、顔から血を流し包帯を巻いた若い人が入ってきました。「どうなさったんです」と聞くと、「兵隊で広島へおったんだけど、ちょっと大きい爆弾が落ちたらしい。神石(じんせき)郡まで帰るのに、バスの便がないため泊めてほしい」と言われました。今思えば、そんなに傷がひどくなかったので、この方は爆心地から遠い場所にいたのだと思います。広島にいる弟のことが少し気にかかりましたが「兵隊のことだからまあ大丈夫だろう」と思っていました。ところが、あくる日も、顔から血を流して包帯した人がやってきて「大きな爆弾が落ちて、広島市内は全滅だ」と言うのです。
それを聞き、あくる日の八月八日、京都や岡山から家に疎開してきていた親戚たちに旅館を任せ、弟を捜しに行くことにしました。当時は汽車の切符はなかなか買えないものでしたが、新市駅の駅長さんが近所で懇意にしていたので、切符を用意してくださいました。父、母、一番下の弟と共に汽車に乗り広島に向かいました。
どうにか弟が所属していた基町の部隊までたどり着き弟の名前を告げましたが、弟の行方は分かりませんでした。そこで、弟が配属されることが決まっていた部隊が安佐郡安村(現在の安佐南区)に行っていると聞き、母と二人で行ってみることにしました。父と下の弟は引き続き市内を捜索し、広島駅で午後五時に落ち合う約束をして別れました。
安村までの道中、畑で馬が死んでいたりしましたが、安村は静かな所でした。山に小さな小屋がありそこに兵隊さんが数人いるだけで、そこでも結局弟は見つかりませんでした。その日は何も情報がなく、みんなで家に帰りました。
ようやく家に着いたばかりの夜十時ごろのことです。今度は福山にB29が飛来し、空襲が始まりました。まだ幼かった姪たちを背負い、山へ逃げました。敵が照明弾を落としたので、山の上から、逃げている人たちの様子がまるで昼間の様によく見えました。
数日後、今度は弁当を用意して母と二人で弟を捜しに行きました。偵察に来たB29の陰におびえ、ときには防空壕に入りながら、比治山の下を通り宇品町まで行くと、大きな病院がありました。そこでも弟の名前を告げましたが、手がかりはありませんでした。これ程捜していないのだからもうきっと死んだのだと半ば諦めて、その日はそのまま家に帰りました。
八月十四日、最後にもう一度だけ行ってみようと、今度は父と二人で捜しに行きました。今回も宇品まで来ましたが、やはり手がかりはありませんでした。しかし、渡船場で「被爆者を捜しているなら、似島へたくさん渡っている」と教えてもらいました。おそらくいないだろうと思いながらも、似島へ行ってみることにしました。ところが、陸軍似島検疫所に着いて、弟の名前を告げると「あっ、おります。五病棟です」と言われ胸がときめく思いでした。検疫所の中には一~五病棟までが並んで建っており、どこも人であふれ返っていました。廊下を走り弟がいる五病棟の一番奥の部屋に入ってびっくりしました。ハンカチ一枚程の小さな布を身に着けているだけの裸の男の人が二十~三十人並んでいたのです。部屋の中は板の間の半分に畳が敷かれており、一部には蚊帳もありました。背中一面をやけどして、あお向けになれないためうつ伏せの状態のまま寝ている人もいました。
部屋に入り、弟はここにいると言われましたが、誰が誰だか分からず「どれでしょうか」と聞きました。「高橋君」と呼びかけられ「はい」と答えた人を見て卒倒しそうになりました。あの美形だった顔はやけどで跡形もなくなり、ほほも手も焼けかさぶたの様な状態になっていました。「克巳」と言うと、その人が「姉さん」と答えました。私は驚き、すがりついて泣きました。かわいそうでかわいそうで、今でも八月になるとそのときのことを思い出して涙が出てきます。食べ物や着替えなど何も用意してきていなかったので、私だけその場に残り、父と交代で母に来てもらうことにしました。
弟が、「人のことをせんと、僕の所へずっとおってくれ」と言うので、つきっ切りで看病しました。弟は心臓が悪かったようですが、私たちが行くまではあまり治療してもらっていなかったようです。医務室に知人の軍医さんがいることが分かり、こちらから注射のアンプルを持っていき、内緒で一日一回ジギタリスを心臓に注射してもらいました。
●弟が語った被爆の状況
何日目かに、弟が「ピカッと光ったときから、僕がここへ来るまでのことを話すから、みんなに伝えてくれ」と言って話し始めました。弟が言うには、八月六日の朝、基町にあった兵舎から一人外に出たときにピカッと光ったそうです。
「あっ」と思って見るとパアッと熱くなり、とっさに顔を抑えたのですが、手の甲、後頭部、喉もすべて焼けていました。「熱い」と言っているとドーンという音がして、飛ばされたそうです。そして意識がなくなりました。しばらくして真っ暗な状態が少し明るくなり、起きなければと思っていると、大きな木が体の上に落ちてきたそうです。すると、ズボンの裾の方がボロボロと燃え始め、消そうと思っても木のせいで起き上がれず、誰かに助けを求めようと思っても周りは静かでした。そのとき、どこかから一人駆けてくる人がいたので「ちょっとすみません。これを上げてください」と助けを求め、抜け出すことができたそうです。
起き上がると、みんな、三々五々、西練兵場の方に逃げていっていました。自分も駆けていこうと思ったのですが、目がよく見えないので顔をコンコンとたたいてみると「顔がズルッと落ちた」と言います。そしてそのとき、遠くから汽車の汽笛が聞こえてきて「あっあれに乗って帰ろうか」と思ったそうです。それでも、「兵隊のことだから、今家に帰ると脱走したと判断され、処分を受けるかも知れない。その方が怖いか」と思い直し、ひとまずみんなが駆けていく方へ行きました。西練兵場に着くと、たくさんの人が横になっていました。みんなと一緒に自分も寝ていると、誰かがヤカンに入った水を持ってきて、寝ている人の口に順番に入れてくれたそうです。
どれくらい時間がたったのか分かりません。トラックが来て、たくさんの瀕死の人たちと共に弟を乗せ、宇品まで連れてきたそうです。弟は、「一緒に乗っていた人たちの多くはおそらく死んでいるだろう」と言っていました。それから、今度は船に乗せられ、宇品から似島に連れてこられたそうです。
●弟との別れ
検疫所では、竹筒にぬるま湯と底にお米が二十粒程度入っているもの、それがご飯でした。朝も昼も晩もそれしかないので、みんな仕方がなくそれを食べていました。
何日かたって、母がやってきました。ジュースを持ってきましたが、けが人に水を飲ませないよう厳しく言われていたので、飲ませることができませんでした。母は「ちょっと良くなったら、船を一そう借りて鞆まで帰って、鞆で家を一軒借りて、養生すれば治るよ」と弟に声をかけていました。
八月二十二日、少し熱が出たので宇品まで氷を買いに行き氷枕をしてあげました。二十三日になると、髪が抜け出しました。二十四日には熱が高くなりました。「苦しいか」と尋ねても、「苦しいことはない」と答える立派な子でした。「僕が死ぬ思うんか。僕は死なれんよ。もう一回生きてご奉公せねば」と、最後まで気丈に振る舞うので涙が止まりませんでした。その約三十分後、軍医さんに「お気の毒です」と言われ、私は「死んじゃだめ。死んじゃだめ」と言いながら手を強く握りしめました。その手の、命が切れるという瞬間までだんだんときつくなる、その感触は今でも忘れられません。亡くなった弟の固くなった指を一本ずつ離しながら、また泣きました。母も私の後ろで呆然としていました。
亡くなったときに、知人の軍医さんがポケットから数珠を出して渡してくださいました。そんな場所で数珠をもらえるとは思っておらず、本当にありがたかったです。それから、そのまま連れて帰ることはできないので似島で荼毘に付しました。最後に裸で逝かせるのはかわいそうだったので、ボロボロに焼けた服を着せてあげました。お骨を持って家に帰り、新市国民学校にテントを張り町葬してもらいました。
終戦から一か月たったころ、弟が配属される予定だった山口県の部隊まで死亡証明を取りに来るよう通知が届きました。母と二人、山口まで行こうと思って準備していたその日に、台風に襲われました。家の二階まで浸水し、その後も山口には行けずじまいです。
●被爆して
新市に帰った後、髪が抜け、微熱が続くなどの症状が続き、いろいろな医者にかかりましたが、病名は分からないままでした。また、精神的にも参ってしまい、夜も眠れず一人で外出もできなくなりました。父と母には随分心配をかけ、親不孝をしてしまったと感じています。注射などで症状は少しずつ回復したものの、精神的不安定、頭痛、耳鳴り、不眠は、よくなったり悪くなったりを繰り返し、七十一年たった今も続いています。
被爆の惨状というのは、直接見た者にしか分からないと思います。また、直接見た者は、何年たっても忘れることができません。本当にかわいそうでした。やけどし、手を前に出して歩く人もたくさん見ました。
美青年で、お年寄りに優しくて、子どもに好かれていた弟。歌が上手で、とてもいい子だった弟。弟のこと、弟の最期は、何年たっても昨日のことのように思い出されます。周りの人にはもう忘れなさいと言われますが、忘れられるものではありません。私が今回体験を語ろうと決めたのも、弟に起こったことを誰かに伝えなければ申し訳ないという思いからです。誰かに話せば、私は浄土に行けるかなと思っていましたが、これでやっと浄土に行けそうです。
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