原爆投下時にいた場所と状況
広島市牛田町国鉄寮
国鉄端穂寮内
爆風で家がたおれて下敷 一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二十年八月六日朝八時十五分、目の前が暗くなりピカー光線が上から左顔半面に熱いのに気がついて外に出ようと思ひ立ち上った時、家が倒れ下敷となり気を失って何時間か立ち気が付いて見ると廻り血の海もうかたまっていたのでびっくり自分の体の廻りさわって見て傷が沢山あり、でも痛みわなく外に出ようとしたけれど足が動かない。それから一時間位した頃カワラの上を歩く音に気付き大声で助け求めやっとの思いで外に出して貰った時、体中に痛み考じ動けない。タンカに乗せられ道路に寝かされ夜になり、ころがり乍ら人の声のする所迄はって行きやっと皆の仲間入り。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
傷の手当で国鉄病院小郡駅の近く迄二ケ月通院毎日列車の中わ兵隊さんでデッキに立って何時振落されるかと生きた心地なく二ケ月間苦しみ乍ら病院に通いました。
昭和三十三年頃頭痛、めまいがひどく一人で病院に行けなく誰かに連れて行って貰い四・五年立ち次に白内ショウで眼が見えなくなり一ケ月渋谷の圧司眼科に通院、其の後カンゾウで苦しみました。
又昨年四月から足が弱くなり病院でレントゲンの結果変形性ヒザカンセツエンとの事、今わ足が曲らなく階段の上り下りに苦しみ乍ら生活しています。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
もう二度と戦争わしていけないと毎日神様にお祈りしています。 |