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被爆体験について 
富田 庸子(とみた ようこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島女子専門学校(広島市宇品町[現:広島市南区宇品東一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子専門学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
父、四六才、原爆死。行方不明のまま、骨もない。南観音町の自宅(爆心地から二キロ位)から、幟町の会社(一キロ位)へ出かけた途中の死。八時前に家を出て、ひたすら爆心地へ向って自転車を走らせた。
 
母、四二才、炊事場で窓ガラスの破片を浴びた。気がついた時は頭から血が吹き出していた。帰らない父を毎日探しに出かけ、次第に頭髪も抜けはじめ、顔は土気色になる。半年後、気丈に立ち直り、八七才まで生きて、肺腺癌で死亡。
 
弟、一五才、たまたま病気で中学校を休んでいて助かった。友人の多くが死んだ。五〇才で肺腺癌にて死亡。
 
弟、一三才、疎開していて助かった。孤児になったと思いこんで広島駅に降り立ったのは八月半ば、現在医師。
 
私、一六才、宇品町(三・三キロ)の広島女専(現広島女子大)の講堂で丁度朝礼が終った時、屋根がぐーっとさがってきて、校内中の窓ガラスの割れる音がゴオゴオと鳴りひびいた。建物の中だったので運よく生き残った。母の実家(山口県)にのがれて、父なきあと、四人が必死で支え合って生き抜いた。

(ねがい)
五〇年も経って、やっと反核世論が世界的に盛り上った。日本は、日本人はじめ世界の人に、原爆のことをよく知らせるために努力してほしい。

私どもの片々たる体験記もさることながら、もっと優れた、人の心を打つ多くの作品を、政府は積極的に人々の目にふれるようにして頂きたい。例えば、
〇新藤兼人の自主製作第一作の「原爆の子」をはじめとする原爆映画。もう一度、日の目を見るように上映してほしい。

〇原民喜の「夏の花」をはじめとする多くの作家の小説。

〇朝日新聞社から出版された「原爆体験記」(すぐに書かれたものを、アメリカの禁止により、おくら入りとなったが、二〇年目にやっと出版された。大江健三郎が書き下しの言葉をそえている)復刊して、みんなに読んでもらいたい。今頃かかれるものより生々しく感動的である。

〇丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」本にもなっている。あの絵は最も現実に近い被爆者の姿であると思う。

〇土門拳の「ヒロシマ」という写真集。
 
その他、探し出せば沢山の後世に残したい作品がある筈です。それらに光をあてて、是非多くの人に原爆を知って頂きたい。そのための資金を日本政府は出すべきです。 

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