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被爆体験について 
貞清 百合子(さだきよ ゆりこ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市(楠木町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日、小学一年生の私は、楠木町のお寺で授業を受けるため座った時でした。ピカッと同時に家が倒れ下敷になりましたが幼い私が無傷で家の下から出られたのが不思議です。
 
きっと仏様が守って下さったと今でも信じています。その時にはもう方々から出火していました。方角もわからぬまま倒れた家屋の上を歩いている時、見知らぬ消防団のおじさんに助けられ、国鉄の線路の上を連れて逃げてもらっている途中、伯父に出合い、今度は伯父と二人火の中を逃げ、四キロメートル位先の農家に助けを求め、親切にお世話になりました。三日後に両親に逢う事が出来ました。両親は、幼い私はきっと焼け死んだと思ったそうです。
 
今ある私の命は、名も知らぬ消防団のおじさんと伯父のお蔭です。助かった私達親子は、それから毎日親類の人達をさがして焼野原を歩き廻りました。黒こげになられた多くの人々や馬車と共に焼かれて黒こげになった馬や牛にも逢いました。毎日焼あとを歩くので夜布団に入っても体まで死がいのにおいが残ったのを憶えています。鷹匠町の伯母一家九人全員焼死にました。
 
その他多くのなつかしい人達も焼死にました。生き残った人達も次々にガンで死亡しました。事情で他家に再婚していた生みの母は八月六日胡子町で被爆しましたが、下敷になった私の妹(四才)を助けられず、泣き叫ぶ声を後に心を鬼にして、せまり来る炎の中を逃げました。母は八月七日焼跡で我子を見つけ、地ごくの悲しみをしました。他の家族も居所が不明だったので、焼跡の瓦に焼ずみで伝言して置き家族をさがし歩きました。その時の瓦が五〇年経った今も原爆の日の形見として残っている事がわかり、五〇年振りに亡き母に逢えた気持にして戴きました。広島の人達のお蔭で今は原爆資料館に大事に展示していたゞいています。あの時の悲しいつらい母の心もなぐさめられる事と思います。あそこへ行けば母に逢えます。その母は二〇年九月五日原爆症で体中の血をはき出し乍ら死にました。
 
育ての母は、父は、二七年・二八年と続いてガンで死にました。皆んな、みんな、苦しみぬいて死んで行きました。あの原爆さえ落されなかったら、皆んな、みんな幸せな人生だったと思います。私は今、親達の生きた年を越えてまだ不安乍らも生きさせてもらっています。
 
今の私達はあの人達の犠牲の上にあります。 

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