原爆投下時にいた場所と状況
広島県佐伯郡大野村田津岡
海軍潜水学校 分校
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
私は海軍潜水学校の教員として広島県佐伯郡大野村田津岡の分校に居り、当日朝食後ピカッと鋭い閃光をして大音響後キノコ雲を見ました。午後集合があり広島市に特殊爆弾が落され死傷者が多数でたので収容所の大野浦国民学校へ負傷者の収容介護死亡者の移送等の作業にあたりました。講堂に収容した殆どの人がヤケドで目鼻口以外は包帯を巻いた異様な姿で医者看護婦も手の施しようもなく水々と水をほしがり乍ら尽きて次々と息を引取り正視するに耐られない惨状あの光景は脳裏に焼付いています収容作業は数日続けました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
私は直接被爆者でないのと生活に追われ働くことで精一杯でそれほど気にしていませんでしたが、ただ頭髪の抜けるのが心配でした。拾年位い前より高血圧と心臓病で毎月一度は通院加療中です。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
戦後来年で五拾年を迎え世代交替も進んで居りますが日本が今日の繁栄を築いたのわこの間、常に平和であったことが最大の要因と思ひます。多数の戦争犠牲者特に原爆で亡くなられた方々の上にあることを思い核廃絶及び不戦の決意を一層新にし被爆者援護法の制定が一日も早いことを願い微力を尽くしたいと考へています。 |