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未来への伝言 被爆の体験と証言 
丹本 チヱ子(たんもと ちえこ) 
性別 女性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 福屋百貨店 中国地方軍需監理局(広島市胡町[現:広島市中区胡町]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 軍需省 中国地方軍需監理局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市胡町 福屋百貨店
二、三階が中国地方軍需監理局 二階監理部 三階総務部他

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
警報も解除されホッとした始業前、凄い閃光と共にガラガラと崩れ、悲鳴もあちこち、あっという間に下敷に。身動き出来ぬ上を三人が通りすぎ逃げてゆく。呼べど聞えるわけもなく、死を覚悟したとき、必死で足を動かし、膝から下が片方出て動かし乍ら助けを求める。叫び声も落着いた頃、誰か来て下さり力を得て脱出。
 
北へ逃れるべく泉邸の前までゆき左に廻り、裏に出て川を渡る。川の中でたつまきに。黒い雨も大粒で少々怪我で右手は動かず、工兵隊の作業所へ行ったときは二、三度倒れた。火傷が多くて治療して貰えず、夕方、近くの部長様の家へ泊めて頂き八日正午まで。九死一生を得たけど、あの日の事を思うと今でも背筋が寒くなる。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
その年は怪我も癒らず年末まで日赤病院に通ふ。二十四年結婚、二十八年頃都市計画に因る立退き、子供の出産を控えて泣く様な日々、やっと生まれた子は腸が弱く医者通いしてるとき、自分の貧血がわかり、体の調子の悪い理由がわかり、一ヶ年日赤へ通い造血剤を、医者通ひと薬のお世話になってこゝまで。
 
ABCC、にも二度検査に。十年経ったときも白内障が出てるからと、又呼び出されたが、異常もなく安心していたのに、いつも不安と一緒の日々。
 
貧血がわかったときは子供を持ったことに後悔したものです。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
子供も元気に成人してくれましたし、病におびえるのは自分だけにし度いと、希うばかりです。
 
核兵器廃絶を強く訴え、世界の平和を心より祈るのみです。
 
この苦しみは私たちだけにして…と強く強く訴え度いと思う。 

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