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被爆体験 
永野 晃三(ながの こうそう) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2003年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区歩兵第1補充隊 (中国第104部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は広島市の中心の紙屋町で生まれ育ち、今は基町に住んでいます。ですから戦前の広島、被爆し復興した広島をつぶさに見てきました。(父・晃三は、平成一七年一二月二七日にすでに他界しました。長男より)

原爆の落ちる一年前の昭和一九年一〇月、私は一九才で(大正一四年生まれは一年早く)兵隊に行くことが決まり、基町にあった第二部隊(元11連隊)に入隊しました。満州(現中国)に行くはずが軍隊の都合で九州の熊本に行かされ、日々訓練ばかりしていました。恐ろしい体験もしました。昭和二〇年七月二八日アメリカのグラマンが来襲、届きもしないのに鉄砲で打っていたら逆に機銃攻撃にあい何人も仲間が亡くなりました。

原爆の落ちた日の八月六日、広島に大きな爆弾が落ちたと知らせがあり、広島出身の者が片付けに行くことになりました。
 
熊本から貨物列車に乗り広島に着いたのが八日の夜。広島駅の構内は火傷をしている人ばかりで踏み場もないほどでした。多くの人が痛いよ、熱いよと横になってうなっていました。兵隊さん水を下さいと何人の人にも言われ、かぶとに川の水をくんで運ぶのですが、かぶとの穴から水がもれ、うまく水をあげることができませんでした。当時は川に階段がなく、水をくむのも苦労しました。ほとんど夜通しで看病などしましたが、元気付けるのが精一杯で、薬もなくどうしようもない状態でした。
 
翌日の八月九日の明け方、小隊長さんに許可をとり自宅のある紙屋町に行ってみましたが、やはり中心地の被害はひどく住んでいた家はどこがどこなのか分からない状態でした。住友銀行のビルの中が抜けて外壁だけになっていたのにも驚きました。わたしの家族は原爆の落ちる前に紙屋町から郊外(祇園)に疎開していましたから直撃はまぬがれていましたが、連絡もできず安否が分からず心配でした。
 
その日は朝からいい天気で、焼け野原になった中心からは遠くまで一望でき、まだ煙が所々に上っていました。歩ける人は逃げていたのか人影はほとんどありませんでした。
 
すぐに隊に戻ると、わたしは橋本町(銀山町の北)の遺体の片付けを命じられ、三人一組で遺体をトタン板にのせて運び所定の場所に集めるという作業にあたりました。市内中央から逃げて息絶えた人ばかりみたいで火傷もひどく、衣服もぼろぼろでした。辛うじて男女がわかるくらいで、出ているところはすべて赤くただれていました。特に川の近くには水を求めて息絶えた人が多くおられました。
 
わたし達兵隊は前日からご飯を焼いてカチカチにしたものを少し持っていたので、それを食事にしていました。しかし水筒の水は火傷した人にあげてありませんでしたので、わたし達自身も暑さと力仕事でのどはカラカラでした。一日で多くの遺体を運びました。その日の夜、七時三〇分が集合時間で再び九州の駐屯地に汽車で帰りましたが、それからも思いもよらない大変な日々が待っていました。
 
広島から帰った三十数人全員が1~2日たつと猛烈に気分が悪くなり、寝込むほどになりました。仲間のなかには髪の抜ける者も出始めました。
 
原爆症が出たのです。
 
もちろん当時そんなことはわかりませんし、医学界で事例はなく軍医もわかりません。治療もできません。自分の体がおかしいのを不思議に思いつつ、火傷もなにもないのに六名くらいの方が死んでいきました。私も死ぬと思いました。
 
あとでわかったのですが、驚いたことに死んでいった仲間は広島の中心で遺体の片付けをした方でした。放射能が強いところで力仕事をしたためでしょう。私は中心から離れたところでの作業だったので死は免れました。それでも半月はだるくて動くことができませんでした。もちろん私が市内中央の任務を言われていたら死んでいたでしょう。
 
戦争が八月一五日に終わり、八月の終わりにやっとのことで汽車で広島に帰りました。
 
汽車はいっぱいでわたしを含め多くの人は車両の屋根にのったまま移動しましたが、トンネルに入るとき避けきれず落ちる人もいました。せっかくここまで生き延びたのにと胸が痛みました。
 
疎開先の家に帰ると、当時一五才の弟が左肩、顔に大火傷を負い、痛い痛いとうなっておりました。八月六日広島駅近くで路線工事をしており被爆していたのです。私の父が広島駅近くまで探しに行き、やっと見つけ出し連れて帰ったそうです。暑かったのでランニングシャツで作業をしていたので、原爆の閃光を向いていた左肩、顔に大火傷を負ったそうです。半年寝たきりになりましたが除々に回復。しかしケロイドは残り、そのせいか四七歳で亡くなりました。
 
火傷をおった人もたくさんおられましたが、兵隊の仲間のように、外傷もないのに髪がぬけ死んでいく人も多くおられました。そのような方の多くは、家族の安否を心配して被爆間もない広島に入り、家族を探し回った方でした。
 
私の親戚も亡くなられた方が多く、特に一歳の息子を原爆で亡くしたおばちゃんが気もくるわんばかりに泣き叫んでいたのは忘れません。
 
また、間もなく兄が、外地(外国)サイパン島で戦死したとの知らせがきました。
 
私も、親も、火傷で寝ている弟も、その下の小学生の弟も……家族で泣きました。兄の戦死は、知らせだけで遺体はもちろん少しの遺品も戻ってきません。
 
それから広島は除々に復興していきました。しかし当時を思い出すたび、このような事が繰り返されないように、戦争そのものが繰り返されないようにと祈っています。

 

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