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濱本 節(はまもと みさお) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2000年 
被爆場所 広島工業専門学校 (広島市千田町三丁目 [現:広島市中区千田町三丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

一、まえがき  平成十二年(二〇〇〇年)八月六日 記
二十世紀最後の八月六日の平和記念日を迎え、私は、現在七五才、被爆時二〇才で、あれから早くも五五年が過ぎている。今まで被爆経験を話し伝えることは、心が重かった。好きでなかった。あまりにもむごたらしいことがあり、悲しいことがあるから、思い出したくもなく、忘れるようにしていた。
 
今まで孫の香奈子、敬志には小学校の宿題のためやむを得ず、経験の一部を話したことはあるが充分に伝えられなかったと思う。テレビ、新聞等で原爆被爆の体験者が数少なくなり、後世に語り伝えることが大切であることを強調している。私も今、慢性気管支炎と肺気腫で体調が悪く気が重いが、八人の孫たちは勿論私の子どもの長男潤一郎、長女の裕子、二女庸子にも全然語り伝えていない。裕子に再三被爆体験を頼まれており、死んでも悔いのないよう筆をとることにする。体調が悪いためうまくまとまったものにならないと思うが許してほしい。

二、私の被爆体験
        大正十四年(一九二五年)四月十二日生
        現在七五才 濱本 節

私が原子爆弾を受けたときは、現在の広大工学部機械工学科三年生の二〇才でした。
 
一年間の神戸の住友重機械製作所への勤労動員を終えて仕上げの卒業教育を受けるために広島に帰ってきて約一ヶ月経った時の八月六日の朝のことでした。
 
昭和二〇年(一九四五)八月六日、広島市はこの日、むし暑い夜が明けて快晴の日であった。午前八時十五分、強烈な閃光が走り、巨大な火の塊が市内をおさえつけるように、おいかぶさった。人類史上初めて兵器として使われた原子爆弾が爆発した瞬間であった。
 
原爆投下される前に空襲警報が発せられていて、私はそのため翠町の街角に警備についていたが八時前に空襲警報解除になり、急いで千田町の学校へ授業を受けるため走って行った。
 
私が被爆したのは、千田町の学校である。(現在の原爆センター付近)一時間目の授業は、特別階段教室での校長先生の講義だったが、当時学校は、八時始まりで、既に遅刻していたので、機械工学科の自教室にはいり、煙草に火をつけようとした瞬間、ピカー・ドンときた。
 
B29アメリカの爆撃機の飛行機の音も聞こえず、空襲警報解除にもなっていたので何がなんだかわからなかった。当時学校には、海軍の研究所が入っていたので、そこに爆弾が落とされたのかと思った。
 
ピカー。は眼の中へ火が飛び込んでくる感じの瞬間、ドンと目の前が真っ暗になり、一時気を失った感じだったが、やっと気づいてにげようとしたが、教室の天井がつぶれて頭を押さえつけ、ほこりで何もみえないなかを、机の間をはって教室の外に出た。
 
学校がやられていると思い学校の外へ海のほうへ向かって逃げたが、どこまで逃げても、民家が皆破壊され、血だらけになった婦人が助けを求めてくる人に何人も会った。
 
今まで、神戸の勤労動員中、爆弾攻撃や焼夷弾攻撃に遭った経験があったが、どこにも爆弾の落ちた大きな穴もなく不思議に思った。 
 
このままでは、火災になって焼け死んでしまうと思い広場に逃げようと学校のグランドへ引き上げた。グランドには三〇名ぐらいの学生が逃げ集まっていた。級友が「浜本、お前は血だらけだがどこをけがしとるんか。」と聞いてきた。当日、白のズボンにシャツを着ていたが、真っ赤になっていた。服を脱いで体を見たがどこもけがをしていない。結局爆圧に教室の窓ガラスが粉々にこわされ、目に見えないような小さなガラスの破片が服を通して体に刺さり、血がにじみ出ていたのだ。チンチンの先が痛いのでよく見たらガラスの破片がたっていたので、手で抜き取ったが、その後何ともない。
 
学校内には、鋳物場、鍛冶場などで、作業助手をしていた小学校卒業した若い男の子達が校舎の外で作業をしていて、原爆の強烈な放射光と熱を直接受けて全身真っ黒にやけどして倒れていた。「たすけてください。」と、さばりついてきたけど、やけどした真っ黒の皮膚がずるりとむけて、私の服にぺっとりとついた。そのうち救援の軍隊のトラックがきたので車にのせてやり、そのあと彼らは病院へ運ばれたが、命が助かっただろうかわからない。
 
爆心地は、原爆ドームの上空約五八〇メートルで爆発し、直径一〇〇メートルの火の玉が閃光を放ち、中心温度9,000度~11,000度という強烈な熱、衝撃波、放射線が広島市内を直射した。きのこ雲が吹き上がり市内は犠牲者であふれ、爆風が吹き上げたあとの広島は、完全に先刻までの光景を失っていた。建物は倒壊し、樹木は裸になり、そして人々は倒れ、かろうじて立ち上がった者の衣服は焼け、破れ皮膚は黒く焼けただれていた。一瞬にして広島は地獄と化し、市の中心部約一三平方キロメートルが壊滅し、その後火災が起き、十日間以上も燃え続き、くすぶり続けた。
 
当日の被爆者数は、三五万名、死亡約一四万名、その後放射能障害で現在も毎年五千名以上が死亡して平和公園の慰霊碑にまつられているが被爆後の原爆病等の死亡者は約七万名である。被爆時の死亡者数一四万名その後の死亡者数七万名で現在までの死亡者数は二一万名以上になっている。
 
三日後の八月九日午前十一時二分、長崎市に第二の原子爆弾が投下された。このときの被爆者数は二七万名死亡者数約七万名で、ここにも生き地獄があった。
 
原爆投下の夜、黒い雨が降った。これはきのこ雲によって爆心地付近の莫大なチリやホコリが竜巻となって上空に巻き上がり上空の冷たい空気に触れ、湿気が固まり雨となった。これは、煤塵そのものに放射能物質が含まれており、黒い雨を浴びた人々は、放射能の病気にかかった。放射能を吸うと頭の髪が抜け、歯が抜けていって大勢の人が死んでいった。
 
原爆の爆風によって、国宝の広島城五層の天守閣は、炸裂後、大音響とともに、北側の濠の中へ崩れ落ちた。後、コンクリート造りで復元された。
 
私は、学校内で救援作業に当たった。学校の東北端にある機械工学科一年生の教室は、学校の中で爆心地に一番近い二階建ての一番古い建物であった。建物が崩壊し建物にはさまれた学生が助けを求めてうめき声を上げていた。私が崩れた材木の中から助け出した学生は、頭部を角材で強打し、頭が割れ血の固まりがドロドロと流れ出ていた。首の頸動脈を押さえて血を止めると息が苦しそうであった。彼は、「アメリカをやっつけるまでは、絶対に死なない。五日市に住んでいる者です。」と言っていたが、私は救援のトラックに彼を乗せ、同乗して現在の県病院へ運んだが、彼はおそらく死亡したと思う。後で聞いた話だが、教室の中に外から発見されず生き埋めになって死んだ学生が六名いたと聞く。
 
私はトラックに乗って正門を出て、市内電車の宇品線へ出て、光景の凄さに驚いた。人々は夢遊病者のように放心状態で、顔、身体は真っ黒に焼けただれ、男性とも女性とも見分けがつかないまま逃げ歩いていた。生きたまま倒れている者、力無く逃げ歩いている者がうようよしていた。大きな馬が路上に倒れて死亡しており、広島電鉄の電車の停留所に焼けただれた電車の中で、人間が六人くらい座ったまま焼け死んでいた。電線は、垂れ下がり、家屋は、崩壊しコンクリートの建物も壊れており、あちこちに火災が発生し、煙がくすぶり続けていた。 
 
トラックは、御幸橋に差しかかった。御幸橋の欄干は、北側は橋の上に全部倒れ、南側の欄干は全部川の中へ落ち込んで無くなっていた。橋の中央部の電車線が敷いてある部分は、盛り上がってこわれていた。電車の架線は、バラバラに落ちていた。橋の歩道の部分には、被災した人たちがいわしを並べるように倒れていた。この人たちは救援の手不足で、何日も寝たまま、枕元にむすびが置かれたまま焼けただれた傷口にはウジがウヨウヨわき放置されたまま死んでいった。
 
御幸橋の川の中を見ると、陸上に多くの死者を見たがそれ以上に驚くほど死者が浮いていた。これは、被爆して体が熱くて川の中へ入って死んだものと思われる。川の中に垂れ下がった電線に人間の死体や馬の死体がひっかかってゆれているのが、むごたらしく目を覆いたくなった。
 
御幸橋を渡ってたばこの専売公社のあたりまで来ると家屋の崩壊はあったが、それ程火災は発生していなかった。それでも皆実町、翠町では何カ所かくすぶる程度に煙が出ていた。
私の家は、翠町にあり、我が家が心配でトラックを下りて我が家に帰ったが、家は壊れ、二階は崩れ落ち、猫の子一匹も居らず、近所の人たちは、退避して人影はなかった。私は金(カネ)のトランクに学校の専門書と思い出の写真と多少の衣服を詰めて、火災になったときの身の危険を感じ、翠町の家屋がない広い畑や蓮田がある方面へ退避して家族を捜し歩いた。現在の翠町中学校がある付近へ三日三晩畑の中へ蚊帳をつって寝泊まりした。この時に真っ黒い雨が降った。
 
三日経って八月九日長崎市に原子爆弾(当時は、新型爆弾と呼んでいた)が、投下され、日本の敗色は濃くなっていった。畑の中の野宿を三日間して、疎開先の大野町へ退避することにした。
 
私が生き残ったのは、退避したところが爆心地から南側の風上であったことがよかった。北側方面祇園町可部町方面は、風下になり北風が放射能をかなり遠くまで運び、退避した人は放射能を吸って死んでいった。
 
疎開先の大野町の田端家には、祖母濱本ツマ、弟で病身の濱本貞彰が疎開していた。姉の濱本不二枝は千田小学校の先生をしていて生徒を引き連れて被爆前に山県郡大朝町のお寺へ集団疎開していて不在であった。
 
私は、母濱本政子と一緒に、翠町の野宿から広島市内を横断し西広島駅へと向かった。広島市内一面焼け野原に変わり、当時はまだコンクリート造りの大きな建物は少なかったが、やけ崩れた残骸があちこちに目に留まり、普通の木造建ての民家は崩れ、真っ黒に焼け、煙がくすぶっており、その中にまだ死体が転がっており、息のある人々が横たわっている。枕元にはむすびが置いてあり、焼けた臭いと何とも言えない悪臭がいっぱいであった。広島方面、横川方面、己斐方面が、一目で一望できて何もないのには驚いた。
 
己斐駅へ行くのに、市内電車は勿論、乗り物は何もなく重い足をひこずりながらてくてくと歩いた。天満橋の崩れ落ちそうな鉄橋を渡って天満町に行ったとき、大きな防火水槽の中にお母さんが小さな子どもを抱きかかえるようにして死んでいるのを見た。原子爆弾の放射熱を浴びて、熱さのあまり水槽の水の中に入りそのまま死んだものと思われる。
 
やっと己斐駅にたどり着き汽車(現在の山陽本線の電車)に乗って大野駅にて下車、田端家へたどり着いて爆心地の広島市をのがれて、やっと安心した。汽車の中は疲れ果てた人々でごった返し、全くみじめであった。これから疎開生活が始まるのだが、まだ日本はアメリカと戦っており、毎日のように、アメリカの飛行機が銃撃を浴びせ、その中で毎日のようにトラックで広島市で原爆死した死亡者がどんどん大野町へ運ばれてきて村の人々が死体を焼いて処理していた数は計り知れないほど多かった。
 
日本は、昭和六年(一九三一年)満州事変、昭和十二年(一九三七年)日中戦争の発端から中国全土で長い戦争を続け、昭和十六年(一九四一年)には、日米戦争が始まり、戦争ばかりして、莫大なお金を使い果たしたため、食べ物はなく、着る衣服もなく、住む家もなく、きつい疎開生活であった。  
 
八月一五日、天皇陛下の玉音放送で終戦が告げられ、全国民が泣いた。八月三〇日アメリカ連合軍のマッカーサー元帥が日本国土に上陸、アメリカの日本占領が始まる。これから日本は、廃墟の中から苦しい生活の中に努力を重ね、今日の立派な日本国に復興した。

 

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