「お母さん、義明です」
五十年ぶりに初めてお手紙を出します。昭和三十三年二月の寒い日でした。タクシーの中の暖房が心地良く暖かでした。深夜に駆けつけた原爆病院でお母さんは亡くなりました。
被爆から十三年目、お母さんは三十六歳、僕が九歳の時でした。よく叱られて近寄りがたかった父が、僕の手とお母さんの手とを痛くなるほど強く握らせて、
「お母さんと言え、お母さんと呼べ」
と繰り返して叫び、部屋中に響くような大声で辺り構わず泣いていたことを覚えています。
「大人も泣くのか…」
と僕は思い、お母さんの死を理解するには幼すぎました。
お母さんの一周忌が過ぎた頃、父は今の母と再婚しました。僕の養育と結核上りの父の健康のためにも家族の絆が必要だったのです。
今の母の両親は、被爆して一瞬の内に家の中で焼け死に、県外にいた母の姉と母は原爆孤児になりました。戦後、ふたりの姉妹は東京に出て洋装店を創業し、母はファッションデザイナーとして華々しく活躍していた時でした。
その仕事を辞めて広島へ来てくれた新しい母には、明るい異国のような薫りがしました。お母さんは原爆病院でしか会えないと思っていただけに、父から紹介された瞬間、初めて味わう健康的な温もりと小躍りするような嬉しさは今も忘れることができません。
「お母さん!」
と僕が自然に呼んで、目を輝かして懐いたことに父は心から安堵していました。
母は僕を我が子として強い責任感と無償の愛情で育ててくれました。父は健康を一気に快復させて仕事に邁進し、戦後日本の高度成長を会社役員として牽引しました。
僕は広島から東京に転校し、進学、留学、就職、結婚まで、現在の僕は母なしには語れないほど幅広い薫陶を受けました。そして一男一女の親になりました。
お母さん、原爆病院に入院していた時、幼い僕を残して先立つかも知れない無念さを、出版社の取材で手記に残されたそうですね。ご安心ください。お母さんの亡き後は、母から愛情を一身に受けましたし、父には内助の功で事業の成功を支えてくれました。
被爆した父は八十一歳まで元気に過ごし、皆に敬愛されながら十年前に亡くなりました。父は再婚後、母に寂しい思いをさせたくないと、お母さんの話題は一切しなくなりました。父の生前に一度だけお母さんのことを訊ねた時、ぽつりとこう言いました。
「思い出す余裕がなかったけれど、思い出すと長くて深かった…」
お母さん、父と四十年ぶりの再会だったのではないでしょうか。顔は分かりましたか。
父が亡くなった枕元にNHKのラジオ英語講座テキストがありました。最後まで前向きに生きた父でした。亡くなる一週間前の手帳に次のようなメモが遺されていました。
「のどかなり 願いなき身よ 夕祭り」
晩節を汚さず、不器用でも誠実に生き続けた父の姿は、僕への最高の贈物になりました。
父が亡くなった夜、母は海を見たいと言いだしました。母は父とよく散策した浜辺に立ち、瀬戸内の海に向かって肩を大きく震わせて泣き続けていました。
「あるじが亡くなると家は無くなる」
母の絞り出すような弱々しい声は潮騒の中でもはっきりと僕の胸に伝わり、崩れそうになる背中を支えてやるのが精一杯でした。それから母の認知症が進みました。
母は今年米寿を迎えます。親代りだった母の姉が昨年亡くなり、母の身寄りは僕だけになりました。母を大切にして感謝することが、父とお母さんへの供養と思っています。
お母さんは歳をとらないけれど、僕は今年八月に還暦ですよ。原爆病院で初めて見た父の涙が昨日のような気がします。お母さんに守られて、あれから五十年経ったのですね。
八月六日は原爆に翻弄されたふたりの母上に心から平和をお祈りします。(二〇〇八年八月)
澤原 義明
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