私が白血病だと初めて診断されたのは、昭和二十七年七月二日のことでした。それは全く偶然のことからだったのです。当時、私は肺浸潤のために、一年余りの入院療養の後に、ひきつづき通院治療を受けておりました。二十七年の四・五月頃から倦怠感がひどくなり、時にはひどい貧血症状に苦められたりなどしました。それが六月に入ってからは一層はげしくなったため、胸の方が又悪化したのではあるまいかとの不安で特に念入りに診察して頂いたのですが、別に悪化した様子もなく、気をつけて安静にしているようにとのことでした。ひどい時にはねていても体がたまらなくだるく、食事も食べるのがおっくうな位で、仕事も何も出来ずただねたり起きたりして過しておりました。そんな状態のとき医師からティピオンを服用するようにすすめられました。この薬は副作用として、血液中の白血球の数を減少させるおそれがあるというので、服用をはじめてから四・五日後に白血球の数を検査して頂きました。このとき、私の病名はほとんど決ってしまったのです。健康な人の場合は、六、○○○から八、〇〇〇位ある白血球の数が、この薬の副作用で予期されたとは反対に、二二、四〇〇もあったのです。医師は眉をよせ、暗い顔をして私を見つめました。だまったままで医師は再診察を終ってから「脾臓は手にふれる程ではないが、肝臓は少し肥大しているようですね。まあ、一度の検査だけではわからないから暫く様子を見てみましょう。」といいました。しかし、その後の検査でも白血球の数は二二、〇〇〇から一八、〇〇〇を下らなかったのです。医師は白血病に特有な幼若な白血球がまだ見あたらないから何ともいえないと慎重にいいます。その若い細胞が多く出れば、白血球の数があまり多くなく二・三万の程度であっても危険な場合があるともいいました。八月に入ってからの検査で、その若い細胞も私の血液の中に発見されはじめたのです。脾臓も肥大しているのがはっきり診断されました。そこではじめて、骨髄性白血病の初期であると病名が決定されてしまったのです。その間じゅう、胸を病んで同じ病院に入院している私の夫は、私の病状について医師に尋ねたり相談したりしたようでした。その時、「白血病という診察は現在の医学では死の宣告のようなものですからね。」といわれたそうでした。勿論、その当時夫は私にそのこと言いませんでした。だが、私にもこれが不治の病気であり、適確な治療の方法もないということはわかっていました。八月には病院からの紹介でA・B・C・C(原爆傷害調査委員会)に行き精密な検査を受けましたが、その結果は白血病であることが再確認されただけでした。
私はそれまでに、白血病で亡くなられた人を二人許り知っており、その病状・経過もよく見ておりました。その中の一人は私の夫の病気を発見して下さった医師の方でした。夫の発病当時、私達の家まで診察に来ておられたのですが、その時も「身体がだるくてね」といっておられました。その人は二十四年に発病され、自分が医師であるためにありとあらゆる治療法を実施され、A・B・C・Cへも度々行って診察をうけたりしておられましたがその甲斐もなく、それから半年もたたないその年のうちに亡くなられました。その人は原爆にあわれてから、いわゆる原爆症で、頭髪も全部抜け、ひどい下痢と出血で、随分危険な状態にあったものが、その後元気になっておられたので、亡くなられたときも折角元気になられたのにやはり駄目だったのかとお気の毒に思ったことでした。
私は、爆心地から一・五粁位離れた上柳町で被爆し、家の下敷きになった〔た〕め火傷は免れ、その晩は同じ町内の竹薮の中で過し、市内尾長町の親せきで一週間ほど世話になり、両親の疎開している山県郡へと向いました。田舎へたどりついた時は、やっと命びろいしたと思いましたが、どうにか無事に逃げのびた無傷の人々が、頭髪は抜け、ものすごい出血のために、次々と死んで行くのを見て、明日は吾が身かと生きた心地もなく不安と恐怖の中に過したのでした。それが、自分はどうにか助かったと思っておりましたのに、七年もすぎて白血病のため、またまた生命の不安におののくなどとは、全く予期しないことでした。
思いもよらなかっただけに、この診断を下された時には、もうすぐにでも死んでしまうのではないかという絶望で気が遠くなってしまいました。まだ初期だから、今のうちに入院して検査しながら様子を見よう、白血病も消耗病気だから胸の方にも悪影響があるといけない、できれば入院するようにと医師にすすめられる。だが二人の子供のことを考えたらどうしたらよいのでしょうか。
私の家族は、夫の両親と、私達夫婦、それに戦後生れた長男と次男の本来ならばにぎやかな筈の六人家族です。ところが一家の支柱であった夫は、戦時中、戦後の無理で胸を病み、昭和二十三年末から入院療養しています。その上に、私までが発病入院してしまいましたが、一年余りで一応退院できましたものの、まだそれから一年にもならないのです。
子供たちにとっては、長男が満二才、次男が生後五カ月のとき、自分たちの父を病院に送ってからは不運がつづき、母親からも長い間離れていなければならない状態が続いていたのです。両親とも病弱な上に、大切な時期に満足な発育の環境をあたえてやれなかったために、子供たちは身体が弱く、発育も悪い。だからこそ、ますます子供達のそばにいてやらなければと、そのことを思う時、ねむられぬ夜がつづきました。私は死んでしまうのではないかと思うと全くたまらない気持でした。そして、そんな気持の中から、どうかして生きたい、この白血病に打ち勝ちたいと折り願った。子供たちにまた淋しい思いをさせないですまないものか、入院しないですまないものかと、後髪を引かれながらも何とか癒りたい一念から、八月末、入院を決意して日赤病院に入ったのでした。
入院してから白血球の数は一一、〇〇〇から三三、〇〇〇位の程度でしたが、十二月に入ってからは、ぐんぐん増えるようでレントゲン治療(一週一度)を受けました。脾臓ヘレントゲン線をあてて白血球を破壊し、その数を減少させる治療法なのですが、私の場合は、その効果もなく増える一方だったので、ついに、今年の一月八日、第六回目を行ったのを最後に、その治療をやめてしまいました。一月十二日、脾臓は勿論肥大しており、白血球は五五、八〇〇を数えるに至って、二十三日よりナイトロミン注射を受けることになりました。この注射によって一時的には白血球の数を減少させることはできても、結局は根本的治療法ではないために、今までやらないで来たのでした。この注射のため食欲はなくなったのですが、二月十日には、六、四〇〇に白血球数が減少したのでナイトロミン注射は中止しました。ところが二月十七日には、更に五、〇〇〇になり、下りすぎたと思うまもなく、二十三日には、一二、四〇〇と上昇をはじめ、一二、〇〇〇から一六、〇〇〇のあたりを上下してしばらく停滞していましたが、更に五月に入ってからは次第にまた増加の傾向が現れはじめ、ごく最近の検査(六月十五日)の結果は二四、〇〇〇で入院時前後の数字を再び示しているのです。
私が、昨年八月、この病院へ入院した当時、同じ病棟に白血病の人が三人いました。男の人が一人、女の人が二人で、その三人とも直接原爆にあった人でした。その中の男の人は、二十六年に白血病と診断され、当時白血球の数は二十万以上もあって、脾臓もひどくはれ、全身の衰弱も甚だしく、吐血したりして相当重態だったようでした。しかし、体力があったためか、一応病状も落附いて退院されましたが、一カ月もするとまた白血球が増加しはじめ、ナイトロミン注射によって白血球の数を減少させるために、またまた入院するというふうに、もう四回も入院を操返しておられます。村の役場にお勤めの由でしたが、病気のためにやめられたようでした。今度も五月に入院されましたが、六月十日頃に健康保険もきれるというので、まだ白血球の数も減っていいないままに、退院されました。
「市内の親せきの家に泊って、そこから注射のため通院しようと思います」と話されたとき、私は何と申し上げてよいか言葉も見附かりませんでした。
Aさんという奥さんは、昨年の七月に入院されたのですが、脾臓肥大のために、入院当時は妊娠十カ月位の大きなお腹だったそうです。ナイトロミン注射とレントゲン治療で、一応白血球の数も一万位になり脾臓の肥大も少しは落附いたので、どうせなおりきる病気ではないからと、十二月退院されましたが、その後どうしておられるでしょうか。
Hさんというお嬢さんは、昨年一月頃から入院されて、私が入院する少し前、八月頃には一応病状も落附いて退院される積りだった由でした。ところがまた、白血球の数が増えはじめ、脾臓は肥大し、赤血球は減少して、血色素も三〇パーセントというように貧血状態になり、食欲はなくなり、ナイトロミン注射もレントゲン治療も効果なく、病状はますます悪化して何回もの輸血も甲斐なく、昨年十月二十一日に亡くなられました。病状が進んでからは、体のだるさがひと通りではないらしく、体の置き場がないといってベッドの上でバタンバタンと身もだえして苦しんでおられる音が隣りの病室へまで聞えてきていました。
私が白血柄と診断された当時は、すぐにでも死んでしまうのではないかと、非常に不安でしたが、この状態のままで行けるなら、さしあたって生命に対する不安はないものと思われます。偶然の機会から病気が早期に発見された私の場合は、白血病の初期患者としてA・B・C・Cあたりでも珍しいらしく、相当な関心を持っているようです。しかし、初期とはいえ、病状は、いつ、どんな変化をするかわらないわけです。しかも、その変化は突然にやって来るものではないかと思われてなりません。また、突然この病状が私に現れたように、原爆を受けた私の夫にも、この病気が現れるのではないか、遺伝によって私の子供らに何かの影響をしているのではないかと不安でなりません。このことは原爆を受けた他の多くの人々が、今尚、等しく持っている不安ではないでしょうか。勿論、私達の白血病の原因が原爆にあるという医学的な根拠はありません。戦前にもごくまれにあった病気なのです。だけれども、私の見た白血病で亡くなられた多くの人々も、現在白血病に苦しんでおられる人々も、殆んど原爆をうけた人達であるところから、やはり、そこには何か因果関係があるのではないかと思われてなりません。
夫は、二・三日うちに田舎の療養所へ移ることになりました。入院以来一度も家に帰っていませんので、今度療養所へ移るのを機会に病院のお許しをもらって、一日、一緒に家に帰えりました。家に帰ると、でてきた子供らは両手にぶらさがったままはなれようとしない。「もう、よくなったんね?」と聞かれて夫も瞬間言葉につまった。「まだよくならないから、もう少しの間いい子をして待っててね。」という私の言葉に子供らはちょっとけげんな淋しそうな顔をした。とはいえ、父と母とが同時に帰ってきたのであるから、子供たちには想像もつかなかった喜びで大はしゃぎである。みんなで食卓につく。こうして六人そろって食卓を囲むのは、実は初めてのことなのです。夫が入院するときには五カ月の赤ん坊であった次男が、この八月には五歳になる腕白ざかりになっており、一人前に食卓の仲間に加わっているからです。その次男が食事をしながら私の方を向いて、「お父ちゃんがおってだからうれしいね。」といい、てれてしまって茶碗で顔をかくして笑いました。私は夫と顔を見合せて笑ったが、涙が出て止めようもないのでした。本当に何年ぶりで迎える楽しい家庭でしょうか。夫の姿を家に見るということは、家の空気が一度に変ったような気がする程なごやかで、暖かい。子供たちが、勿論一番率直にそれを表現しています。老いた両親は「どこが悪いのかというようだが、まだ療養をしなければいけないのかなあ」と、息子を久々に家に迎えてうれしそうだが、またどこか淋しそうにつぶやかれた。永い病院生活の末、これからまた療養所へ行こうという夫の心中は、感慨無量のものであろうと察せられた。長男は祖父母と共に、次男は私の実家に、そして夫は療養所へ移り、私も病院生活で親子四人は完全にばらばらになってしまうのです。次男が時々祖父母のもとに帰り兄弟がひさびさに会った時には、だき合って喜ぶそうです。子供のことですから、すぐに喧嘩もはじめるのですが、この双葉のように感じやすい大切な時代を、このように過す幼児たちのことを考える時、このような病気にかからないですまなかったものかと、とても耐えられない気持です。どの様に貧しくとも、親子一緒に過したいとの願いはいつかなえられるでしょうか。
家の方は老いた父の恩給でどうにかやっているが、勿論食べていくだけが精一杯なのです。私は以前入院していた時も、早く退院して働かなければと、考えていましたが、退院していい職も見つからないままに、再び白血病のため入院してしまいました。はげしい病状の変化がないならば、私は退院して、何かして働かなければと経済的な不安も、今の私をたまらない気持にさせています。
現在、私と夫はそれぞれ生活保護法による医〔療〕扶助をうけて入院治療を受けさせてもらっています。この医〔療〕扶助は、私たち一家にとって、言葉にはつくせない惠みであり、救いなのです。もしこれがなかったとしたら、私たちはどうなっていることでしょう。両親は夫の発病、つづいて私の発病以来、心配と苦労の年月です。私の病気も理解して、無理をしないようにと心をくばり、手のかかる孫の世話をしてくれております。治療も院長先生はじめ諸先生方の誠意ある熱心な診察を受けています。また、幸いにも多くの親切な友人に暖かく囲まれています。これらの人々の愛情を杖として、私は再び元気になって、子供たちのところへ帰って行けると信じたいのです。また、夫も元気になり私たちの家庭に帰って来ることを願い祈っているのです。
出典 岩波書店 世界 第九十二号 昭和二十八年 八月 百二十二~百二十五頁
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