私は数年前より短歌をはじめ現在潮音社の普通社友として勉強しております。来年一月号のための二〇首詠に次の短歌を詠草致しました。
題「一九四五年八月六日」
(一)おかっぱの頭から流るる血しぶきに妹抱きて母は阿修羅に
(二)妹抱き駆け出す母の背を追ひて姉と私は裸足で急ぐ
(三)血だらけの父は青ざめよたよたと足ひきずりて避難所への道
(四)どぶ川に人人人が流れゆく言葉にならぬ言葉を発して
(五)避難所の坊さん学校の広き庭蓆の上にやけどの人々
(六)蓆から蓆に飛びて打つ注射引っぱりだこの白衣の人々
(七)半壊のあがりかまちに布団敷き傘さしかける父と妹に
(八)麻酔なし頭のガラスの摘出手術机の上であばれる妹
(九)傷だらけ家族の包帯母浴衣盥で洗う日々の仕事に
(一〇)もらい水やかん一ぱいもよたよたと姉は七才吾れ五才なり
(一一)吾が布団二つにちぎれ飛び散りぬ庭の隅の柳の枝に
(一二)炊き出しの握り飯はその夕に糸ひき洗いて雑炊となる
(一三)爆風は畳吹き上げ家具倒し血の滴りを飛び散らしおり
(一四)血しぶきの染みしタンスの裏側は引越すたびに胸を刺したる
(一五)夕闇に死者の亡霊浮び来る荼毘に付さるる校庭の隅
(一六)夕闇に荼毘に付されし人々の無念の叫び風にのり来る
(一七)リヤカーを引きて爆心地歩きゆく焼木杭も生活の糧
(一八)闇夜にも燃へ続けたる爆心地目に焼き付きて消せぬ五十年
(一九)五十年経ちても続く恐怖あり白血球減少原爆の影
(二〇)原爆に傷つきたるかDNA姉は病みし自己免疫症に
私なりの五十年の区切りをつけました。
白血球は私も姉も二〇〇〇~三五〇〇位を上下しております。姉は肝の自己免疫疾患、私も自己抗体が少し上って来ました。
この点が一般の戦災者と原爆患者の基本的に大きく異なるところです。五〇年の恐怖に国も考えを下さるべきでしょう。
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