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報道では伝えきれない恐怖と悲惨な体験でした 
男熊 和江(おぐま かずえ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 旭兵器工業(株)(広島市南観音町[現:広島市西区]) 
被爆時職業  
被爆時所属 挺身隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●戦時中の生活
昭和二十年八月当時、私は十七歳で、挺身隊として南観音町にあった旭兵器製作所で働いていました。女学校を卒業してすぐに、学校からの指示で勤め始めたのです。私は事務所の勤務だったので、一日中そろばんを使って原価計算等をしていました。同じ学校から旭兵器に行って工場に配属になった人は、女の子でも油まみれになって働いていてかわいそうでした。時には私たち事務の者も夜に工場の手伝いをさせられました。「はつり」といって、鋳物の余分な箇所を取り除いて仕上げをする作業です。兵器の一部だろうと思うのですが、詳しいことはよくわかりません。昼は事務所で、夜は工場で働いて大変でしたが、それがお国のためで当たり前のことと思っていました。夜は「残業団子」といって草ばかりでできた団子が会社から出るのです。それを食べて残業していました。

その頃、上の兄二人は出兵しており、父・格一、母・フサと三番目の兄・眞と私の四人で、寺町の広島別院の隣に住んでいました。家は八百屋を営んでいたのですが、戦争が激しくなり、物資が少なくなって、八百屋を続けるのも難しくなっていました。寺町は名前のとおりお寺がたくさんあり、戦死された方のお墓参りをする人たちが多かったので、店にお供え用の花を置いたら、非常に喜ばれました。それで主に花を扱うようになっていました。
 
●八月六日のこと
八月六日の朝は、家を七時頃に出たように思います。その頃、路面電車は本数が少なく、電車がきても乗客でいっぱいで乗れないこともありました。乗れなければ歩いて、南観音町の旭兵器まで通っていました。その日も歩いたか電車に乗ったか覚えていないのですが、会社に着き、机に座ってガリ版を作るための鉄筆を持っていたことは覚えています。その時に、ドカーンと大きな爆音がして、私は思わずその場でうつぶせになりました。

無我夢中だったので、どうやって外に出たのかよくわからないのですが、同じ課の秋月さんが私を引っ張って逃げてくれました。事務所の裏から工場の方へ出て、気がついたときには、南観音町の総合グランドの防空壕にいました。夕方になっても、会社の同じ課の人は誰も来ず、まわりは皆、兵隊さんばかりでした。それから、会社に戻ってみると、机の上にはガラスの破片がいっぱい散らばっていました。私の机のちょうど後ろにガラス窓があったので、逃げるのが一秒でも遅かったら、私にガラスが突き刺さっていたと思いぞっとしました。
 
●八月六日の夜と七日の朝
旭兵器の近くに三菱重工業広島機械製作所の大きな工場がありました。会社の人に、「三菱に逃げなさい」と言われ、六日の夜は三菱の防空壕に避難していました。市中心部の方を見ると、火災で空は一面真っ赤になっていました。家は焼け、父も母も兄も死んで、私は一人ぼっちになってしまったと思い、悲しくて一晩中泣いていて、一睡もできませんでした。

翌朝、旭兵器の工場に戻ると、食堂におにぎりがたくさん作ってあり、やっと食事をすることができました。その後、家に帰ることになり、横川方面の人たちでまとまって、天満川沿いを北へと向いました。観音橋あたりから全身やけどで手の皮膚が焼け、ぶら下がり、髪を逆立てた人たちが、皆どこへ行くのかぞろぞろぞろぞろと大勢歩いていました。私も会社の人もほとんど、けがはしていなかったので、初めてそのような人たちを見て「こんなことがあったのか」と本当に驚きました。
 
●自宅の焼け跡を訪ねて
土橋の方へ行くと江波から横川町までの路面電車の線路沿いに死体がむしろをかけて並べてありました。八月六日の朝、父は花の仕入れのために己斐町の花市場に行くと言っていたので、もしかしたらこの中に父がいるかもしれないと思い、むしろを一枚ずつめくって見てみました。すると真っ黒に焼けた男の人が突然ピクリと動き、私はびっくりしたのと、怖さとで、悲鳴を上げて逃げました。その後はもうむしろをめくることはできせんでした。

ようやく寺町までたどり着きましたが、辺り一帯に、家は跡かたもありませんでした。電停に止まっていた電車の中は、焼けた人の死体、けが人でいっぱいでした。焼け跡に防火水槽がたくさんあって、その中へ頭から突っ込んで亡くなっていた人もたくさんいました。家の前には馬の焼死体が転がっていて気味が悪かったです。

うちの隣の広島別院も全焼していました。別院は大きな寺で焼け跡も広く迂回して歩くのが大変でした。近所に、岩本さんという家があり、その塀に、皆がぎっしりと伝言を書いていました。私も、「村岡和江、無事」と炭になった木片を拾って書き付けました。家の焼け跡には、父母、兄の姿はなく、「眞、無事、工場にいる」と書いた立て札がぽつんと立っていました。
 
●家族との再会
兄の眞は祇園町(現在の広島市安佐南区)の三菱重工業第二十製作所で働いていました。兄の無事がわかり、うれしくて、そこまで訪ねていくことにしました。あちらこちらで水道管が破裂して水が吹き出していたので、その水を飲みながら歩きました。ようやくたどり着くと、兄は寺町の焼け跡に行っていたようで、会うことはできませんでした。兄の上司の原本さんが、「今日はもう疲れているだろうからうちに来なさい。お兄さんも元気だから」と言ってくださり、その晩は八木村(現在の広島市安佐南区)のお宅に泊らせていただきました。

その夜、夕食もごちそうになり何日ぶりかで、行水をさせてもらって、ドロドロの汗とほこりを流し、さっぱりとして気が落ち着きました。夜空を眺めていたら今までの緊張が取れたのと、また兄の消息がわかったせいか、どっと涙が出て真っ暗闇の中で、オンオンと泣いてしまいました。

寺町町内会では、非常時には古市町(現在の広島市安佐南区)へ避難することが決められていました。翌日、古市の国民学校に行ってみると、父も元気でいることがわかりましたが、やはり寺町の自宅に母を捜しに行っており、行き違いになって、会えませんでした。

ようやく、古市国民学校で父と兄に会えたのは、原爆投下の日から三~四日たった頃でした。家族で抱きあって喜びあいました。

父は己斐で黒い雨に遭い、ずぶぬれになったそうです。当時はもちろんわかりませんでしたが、その雨には放射線が含まれていたので、父はその影響を受けたと思います。

また、兄は三菱の工場から寺町へ帰る途中、横川町の信用組合前で、遺体をトラックに積む作業を軍隊の人に手伝わされたと言っていました。まるでマグロを積むように、遺体を鳶口で引っ掛けて積んだそうです。
 
●両親の死
母の行方はまったくわかりませんでした。おそらく即死だったのだろうと思いながらも、兄と二人、古市町と寺町を何度も往復して母を捜しました。うちと隣との間に骨があるのを見つけ、もしかしたら母の遺骨かもしれないと思い、拾いました。

その後、娘が調べてくれ、原爆の罹災者名簿に名前が載っていたことが最近になってわかりました。母は誰かに連れられて逃げていたようです。その後で息を引き取ったのでしょうが、どなたかが、死亡の届けを出してくださっていました。当時はもんぺなどの衣服に住所と名前を書いた名札を縫い付けていましたので、それで「村岡フサ」だとわかったのだと思います。

母は、四十九歳の若さで亡くなりました。食べ物も着る物も十分でなく、何一つ楽しいこともなく死んでしまってかわいそうです。今、生きていれば、どんなことでもしてあげられるのにと親孝行できなかったことを残念に思います。

父は原爆からは生き延びることができたのですが、被爆後七年目に亡くなりました。身体が弱り、冬などは一日中こたつで寝たり起きたりの状態が続いた末の死でした。
 
●戦後の暮らし
兄が、「おまえは女の子じゃから働かんと習い事をせにゃいけん」と言って、洋裁学校に入れてもらい、一年くらい通いました。

ただ、戦地に行っていた上の兄二人が帰ってきたので、三番目の兄の眞は、三菱の給料では生活が成り立たないと判断し、その頃、需要が多かったバラックを建てる仕事を始めました。

私も、洋裁学校を辞め、経理事務所など、色々なところで働きました。そのうち、山陽紙業という会社で働きはじめました。『銀の鈴』という子ども向けの雑誌を中四国で販売していた会社です。

この会社で主人と出会いました。主人も両親を亡くした境遇で、社長が縁談をすすめてくれました。結婚生活の中で女の子を二人授かることができました。
 
●被爆の後遺症と平和への思い
被爆後は、身体が弱り、蚊に刺された痕までもが化膿して、毎夏、苦しみました。いつのまにか、右目はほとんど見えなくなりました。今も、パーキンソン病、心臓や肺も悪く、酸素ボンベが欠かせないので、ちょっとした外出もままなりません。

ある人に「あなた原爆に遭ってよかったねえ」と言われたことがあります。なぜかというと「医療費がいらんから」と。何回も言われて、腹が立って腹が立ってたまりませんでした。親を亡くし、家も財産も何もかも無くなってしまったというのに。

原爆の悲惨さ、そして放射線の恐ろしさは体験した人でなければわかりません。古市町の避難所で会った幼な友達のさだちゃんや工場の桑本さんは、とても元気そうだったのに、数日後に、亡くなられたと聞き驚きました。無傷の人も、後に、大勢亡くなったと聞きました。別の避難所のお寺では焼けただれた人、うめき苦しむ人、すでに亡くなっている人が大勢おり、その地獄のようなありさまは、とても言葉では言いあらわせません。

ニュースや映画などで、原爆の報道を目にしますが、実際はあのようなものではありません。もっともっと悲惨でした。見るたびに、「違う!全然、違う!あんなものではなかった!」と思います。

戦争はどんなことがあってもしてはいけません。もう二度とあの地獄絵図を見たくありません。私の友達も亡くなりました。戦争が起これば、何の関係のない人まで巻き込んでしまいます。結局、戦争があるから悲劇が起こるのだと思います。最も悲惨な犠牲者となるのは庶民なのです。 

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