●被爆前のくらし
私は、大正十一年一月に八人きょうだいの六番目として生まれました。仕出屋兼料亭を営んでいた父が、昭和九年に亡くなり、母は一人で私たち兄弟を養わなければならなくなりました。商売を続けることもできず、私たち一家は、転居を余儀なくされます。
十六歳の時、以前から顔見知りだった髙田一さんと、家族の反対を押し切り結婚。一男二女を授かりました。夫はとてもやさしく、幸せな日々を過ごしていました。それを、あの、たった一発の原爆が変えてしまったのです。
●原爆投下直前
その頃私たちは、西観音町一丁目に住んでおり、空襲警報があると、近くの神社に避難することになっていました。しかし、幼い子どもを三人(〇歳、二歳、五歳)も連れていると、そこまで避難するのも大変で、その時は、家の地下にあった防空壕に逃げ込み、八月三日、四日の二晩は、そこで夜を明かしました。五日になってようやく避難解除になりましたが、まだ空襲警報が続きそうだということで、心配した母に言われて、妹の節子が上の二人の子どもを迎えにきました。子どもを三人も連れて避難するのは大変だろうと心配してくれたのです。家には私たち夫妻と赤ん坊だけになりました。
●被爆の状況
目を覚ますと、寝ていたはずの主人がいませんでした。時計を見ると朝の八時でしたので、急いで朝ご飯の支度をしなくてはと、台所に行き、マッチをすってかまどに火をつけようした瞬間、バーンと何かが炸裂しました。みかんのような柿のような濃いオレンジ色のような・・・。そんな例えようもない色の大きい光を見ました。その時私は、耳がツウンとしたので、すぐ耳と目を覆い床に伏せました。それに加えて、ものすごい熱さを背中に感じましたが、幸いやけどはしませんでした。
伏せていると、瓦が落ちてきたので、このままでは危ないと思い、立ち上がった瞬間に、落ちてきた瓦で頭を切りました。今はもう髪の毛が生えて、分からなくなりましたが、まだ傷痕が残っています。
赤ん坊を床の間に寝かせていたことを思い出し、捜しましたが、どこが玄関だったのか、どこが居間だったのか判断できないほど倒壊していました。広島の街全体も、まだ焼けてはいませんでしたが、広島全体が見渡せるぐらい家々が無くなっていました。空がなくなったようで、周囲が全部ねずみ色、音もなく静まり返り、それが不気味な静けさで、これは地球が壊れたんだと思いました。私はただただ、呆然と立っていました。
赤ん坊の名を呼んだら、がれきの中から泣き声が聞こえました。でも私一人の力でがれきの山をどけることができません。そんな時、ものすごいやけどを負った主人が帰ってきました。母に二人の子どもを預かってもらっていたので、気にかかったらしく、母のところへ行っていたようです。B29が上空に現れたので、それを見に家から出たときに、被爆したそうです。母やすぐ上の姉の君枝たちは皆家の中にいたので無傷でした。主人は吹き飛ばされ意識を失い、気がつくと防空壕のそばに倒れていたそうです。主人は私たちのことを心配し、家にかけつけました。二人の子どもは、母の元に残してきたということでした。
主人に手伝ってもらい、赤ん坊はなんとか助け出すことができました。
●避難
主人が「おまえたちは早く先に逃げろ」と言うので、近くの川土手で落ち合うことにし、私は赤ん坊を背負い、その場を離れました。土手まで行く途中に目にしたのは、姉や義兄たちが勤めていた食料会社に貯蔵していた肉や魚や米などの食料を盗むのに必死になっている人たちの姿でした。私はその様子をただ眺めていました。なんとまあ、人間の欲望というのは、あさましいことでしょうか。義兄はその食料会社の工場長で、仕入れのために、朝早く出勤していましたが、爆風により大きい金庫の下敷きとなり、亡くなりました。
土手には、九州から挺身隊として来ていた女学生たちだと思いますが、足がちぎれた人や、血まみれの人、小木やガラスが立っている人などがいました。なかには死んでいる人もいました。
土手に着いても、なかなか主人は来ません。そのうえ、橋近くの家まで燃えていたので危険を感じ、もっと先まで逃げようと、さらに走って逃げました。途中、足に五寸釘が刺さり、ものすごく痛かったのですが、そんなこと言っていられません。必死で抜きました。そんな時、あの重油のような雨が降りだしました。黒い雨です。この雨に、私たちはびっしょり濡れました。
逃げている最中、姉たちに出会いました。姉たちは私たちが死んだのだろうと思っていたそうです。私の主人にも出会ったそうで、川の中に浮かぶ舟の中で寝ていると教えてくれました。私たちの二人の子どもも姉たちが必死になって救い出してくれたそうです。おかげで子どもたちは助かり、主人にも会うことができました。主人のやけどはかなりの重症でした。体中に大きい水膨れができ、それが真っ黒になっていました。
まだ飛行機が飛んでいたので危険を感じ、旭橋の防空壕に避難しました。母や他の家族もいました。
防空壕の中で逃げた家族で食料を分けたのですが、主人だけが少なく渡され、それが原因で私と二番目の姉との間で言い争いになりました。それを聞いていた主人は、気づかれないよう姿を消しました。いつまでも帰ってこないので、心配で捜しまわりましたが、どこへ行ったのかわかりませんでした。
そうこうしているうちに日が暮れはじめ、母が、草津の親戚を頼らなければ行くところがないと言うので、日が暮れないうちに歩いて草津まで行くことになりました。
草津へ行く途中、女性が道路端で助けを求めていました。見ると、片方の頬に、口の中が見えるほどの穴が空いていました。とてもかわいそうな姿でした。青森出身だと言っていましたが、伝えてあげたくても、書くものもなく、「ごめんねえ、許してね」とだけ言ってその場を去りました。
私は、草津に行ってからも主人を捜さなければと思い、小網町や天満橋の方を歩きまわりましたが、その地域はもうすべて焼けていました。避難する時に土手で出会った挺身隊の女学生たちも皆焼けてしまって、髪だけが一人ずつ並んで残っていました。顔も何もありません。かろうじて皮膚が残っていた人が二、三人いましたが、あとはもうまったく形がないのです。とても哀れでした。
●主人との再会
いくら捜しても主人が見つからず、もうあきらめかけていた頃、玄関で「ごめんください」という声が聞こえました。主人の声でした。見ると、手から膿がいっぱい流れて、もう骨が出ているような状態でした。地御前の学校に今までいて、そこから焼けつくような暑さの中、はだしで歩いて来たそうです。
●救護所での生活
私たち親子は、それまで主人がいた地御前の学校に行くことにしました。そこまでは被災者を救護所へ運ぶための貨物自動車に乗って行きました。そこが救護所になっていたのです。運動場では死体が焼かれ、教室の中や廊下には、負傷者が足の踏み場がないほどぎっしりと横たわっていました。そんな中で主人は横になり、私たちは横になるスペースもないので、立っているしかありませんでした。しかし、子どもたちは弱っていたので、教室を捜しまわってやっと見つけた木の腰掛けに、子どもたちを座らせました。その腰掛けを見つけたときの嬉しさといったら!私は赤ん坊を背負ったまま、二、三日ずっと立ちっ放しでした。その状態で寄ってくる蚊やらハエやらを追い払うのにも忙しく、とても疲れました。
教室の前では、やっとはいはいするぐらいの赤ちゃんが、亡くなった母親らしき女性の乳を探って、飲んでいました。私はそれを見て、私が死んでしまったら、うちの子もああなってしまう。私が元気でいなければと思いました。
この救護所では、小さい梅干しが一人たった二つと、片栗と大麦に米が少ししか混ざっていないおむすび、それも小さいのを一人に一つしかもらえませんでした。子どもは梅干しなんか食べません。皆、腹が減ります。ここにいたら死んでしまうと思いました。
●寮での生活
ある日、主人が勤めていた東洋製缶の寮が井口にあるという話を聞き、入れてもらうよう交渉することにしました。主人の名前を伝え、事情を話しましたが、足の踏み場がないぐらい人がいるからと断られました。あきらめて帰りかけると、「ちょっと待ってください。髙田一さんって、研磨部と言われましたよね、ああ、どうも、悪いこと言いました、伍長殿ですね。伍長さんに申しわけございません、何とかします、来てください」と言ってもらえました。そして八月十五日頃入寮することができました。主人は会社の寮の存在を知らなかったそうで、早く知っていれば、あちこち行かずに済んだだろうと悔やまれます。
寮の中には、本当に寝るとこがないほど人がいました。主人だけ、みんなが寝ているところに寝かせてもらい、私と子どもは廊下にいました。子どもを連れている人は他には誰もいませんでした。長男の詔三は脱肛が出て、痛がって泣くので、他の人から「やかましい、泣かすな」と言われました。泣かすなと言っても小さいから、しょうがありません。長男が泣くと他の子どもたちも泣くので、余計に怒鳴られます。主人までもが、「やかましいと言っているだろ、みんなが。いいかげんにしろよ、泣かせるな」と言う始末で、私にはどうすることもできず、本当に困りました。
そのうちに、寮から人がだんだんいなくなり、二階の八畳の間が空いたので、その部屋へ入れてもらえることになりました。その部屋には、とてもきれいな絹布団や絹の蚊帳が、押し入れに重ねてありました。さびて真っ赤になったハサミと針を見つけ、砂や石で必死にこすったりしてさびをなんとかして取り除き、その布団を解いて巻いた糸と、中に入っていた綿を使って、子どものチャンチャンコや赤ん坊の布団を縫いました。
その寮は、水が出ないので、海岸に行き、流れてきた木の桶を拾って帰り、雨どいから流れる雨水を受けて、それで茶わんを洗ったり、食べ物を洗ったり、子どものおしめを洗ったりしました。海には死体が流れていましたし、その桶自体も、もともとは何に使っていたのかわかりませんでしたが、汚いも何もありません。飲み水もそれを使いました。よく病気にもならず、死ななかったもんだなと思います。
子どもたちは、首が細くなり、青い顔で抜けたような顔になって、目がとろんとしていました。私もボケエっとして、まるで映画の中で、戦地で取り残された人が、焼け跡に裸でボーっと立って泣いている姿と同じような状態でした。何とかならないものかと思っていたとき、寮の近くに畑があるのを目にしました。行ってみると芋畑でした。その時私は初めて泥棒心を起こしました。日が暮れてから、寮のお風呂にあった大きい木の桶を持って行き、爪が痛くなるぐらい必死に掘って、桶いっぱいになるほど持って帰りました。
芋を盗んだことを主人に言うと、「ばかたれが。そのようにあさましい根性になったのか」と怒鳴られました。私が「背に腹はかえられないでしょう。私やあなたはいいけれども、子どもはこんなに小さくて。じっとしていられなかった」と言うと、「それじゃ、おてんとうさまにこらえてもらおう。許してください」と主人は泣きました。そして、芋をふかして食べました。
ある時、主人が長女に、タバコに火を点けてもらってくるよう頼みました。戻ってきた娘に、「和ちゃんや、やけどが治って元気になったら、りぼんのきれいな洋服を買って、着せてやるからね」と言いながら主人は泣いていました。うちの子も、泣いていました。
また、主人が「お前や子どもが寝ているとき、足が、この足が立ったら、いっそお前の首を絞めて、子どもも殺して、僕は前を走る鉄道へ飛び込もうと思ったけれど、それができなかった。許してくれ」と告白したこともありました。本当に大変な状況だったのです。
九月一日になると、寮には誰もいなくなり、私たちも草津の国民学校に避難することになりました。そこは救護所になっていました。主人が水を欲しがりましたが、そこも水が出ず、「水道が出ないなら泥水でいいから、飲ませてくれ、もうのどがやけつくようだ」と言いますが、どうすることもできませんでした。
●夫の死、そして
それからどんどん主人の容体が悪くなって、目が見えなくなり、そして耳が聞こえなくなり、息を引き取りました。九月十六日のことでした。私は抱きついて「死んだら子どもたちはどうするの。どうやって生きていけばいいの。どこへ行けばいいの」と泣きました。
主人の妹に会い、そのご主人と、主人の弟が火葬の手伝いに来てくれることになりました。その時、赤ん坊を連れていたのですが、主人の妹が、見るなり「その赤ちゃんは弱っているから、親戚の子に渡さないか」と言ったのです。この人は何を言うのだろうかと思いました。「いえ、やりません」とはっきりと答え、逃げるように帰りました。
でも、赤ん坊は、私の乳が出ないばっかりに九月二十一日に亡くなりました。まだ十か月でした。
主人を亡くしてからの生活状況というのは、それはもう大変でした。子どもたちがまだ幼く、働くこともできず、義兄の勧めもあり再婚しました。
再婚にあたって、お互い一人ずつ子どもを手放すことになりました。姉夫婦には後継ぎがなく、男の子なら引き取るからと言われ、私は長男を手放し、長女のみを連れて再婚しました。
再婚相手にも、自分の娘と同じ歳の女の子がおり、私は養ってもらっているという気兼ねから、自分の娘よりも相手の子を優先し、食べ物も自分たちは魚のしっぽでも、再婚相手とその子には、身の部分を食べさせたりしていました。それを当然、自分の娘はよくは思わず、手がつけられないほど泣いてしまい、「お母さんがどれほど苦労しているのかわからないんでしょう、あんた」と言って、台所から土間へ突き落としたこともありました。それが忘れられないのだと、娘が亡くなる前に話しました。「あのときのお母さんはひどかったわねえ」と。私もとても苦しんでいたのです。
結局、その人とも別れ、姉や母たちに子どもたちの面倒をみてもらいながら一人で子どもを育てるために一生懸命頑張りました。
そして、娘が高校生の頃再び結婚しました。その主人のおかげで、今日までこうやって幸せに暮らすことができているのだと思います。主人に本当に助けられました。でももう、その主人も亡くなりました。
●健康被害について
最近、長女が六十六歳で亡くなりました。脳腫瘍ができたのです。その婿さんが、原爆のせいじゃないかと言っていました。でも、私も原爆で死んでいないのに、なぜ娘が先に死ぬのでしょう。娘もそれまで病気一つせず、社交ダンスをするほど健康だったのです。私たちきょうだいは原爆を受けても、黒い雨にびしょ濡れになっても、健康に問題がありません。あんなにひどい目にあいましたが、医者に通うことがほとんどないほど元気です。家が仕出屋をしていたので、幼い頃に栄養のある物を食べていたからなのでしょうか。反面、子どもたちは栄養失調でしたから、脳腫瘍なんかになったのでしょうか。
●被爆して思うこと
私は、原爆を落とされたのが憎いのではありません。原爆にあったことによって、見下したようなことばかり言われて、馬鹿にもされて、とてもつらい経験をしたのです。その状況をわかってもらえなかったことがとてもつらいのです。好き好んで被爆したわけではないのに、なんでこんなに苦労しなければならなかったのか。そういう思いが強いのです。 |