●命の長さ
人の命の長さは一体どれくらいあるのか、誰にもわかりません。本人にさえわからないのです。私は二度結婚しましたが、妻を二人とも病気で亡くしました。特に二人目の妻は私より二十歳も年下で病気という病気もしたことがありませんでしたが、四年前の夏、突然の死を迎えました。まだ四十代という若さでした。当日は、一緒に出かける予定でしたが、体調が優れないという妻を家へ残すことにして私は一人で外出する準備をしていました。つい五分ほど前までいつもと変わりなく話していた妻が急に台所で倒れ、救急車で搬送されましたが、間に合いませんでした。死因は熱中症でした。
私や両親の寿命についても不思議さを感じます。母と私は爆心地から一キロメートルという近距離で被爆しましたが、母は八十九歳まで生きることができました。私も現在まで原爆による体の不調を感じることもなく元気に過ごしています。それに比べ八月六日の朝、佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)にいた父は原爆投下直後に私と母を捜しに広島市内へ入り、直接被爆した私たち母子より早く亡くなってしまいました。放射線がまだ残る市内に長くとどまったのが悪かったのでしょうか、今となっては、はっきりとした原因はわかりません。六年後に、肺を患い五十歳で亡くなりました。
人の命の長さは、運命という一言で片付けられてしまいますが、誰が定めたのか、どれだけの長さがあるのか、その時が来るまで誰にもわかりません。人それぞれ与えられた使命に応じた命の長さがあるのでしょう。
●幼い日の記憶
昭和十五年三月、宮大工だった父寅一と母タカヱの一人息子として私は生まれました。一人っ子であったことと、幼い頃は病弱だったこともあり、とても大切に育てられました。今でも記憶に残っている幼少期の思い出は、当時はモダンな建物として有名で女性や家族連れにも人気のあったキリンビヤホールに、三人でよく食事に行ったことです。一人っ子で甘やかされ、ぜいたくをさせてもらっていました。
また、舟入町の自宅裏にあった羽田別荘に、家族で花見に行ったこともよく覚えています。花見には母手作りの水ようかんを持参していました。母は水ようかんをアルミ製の弁当箱に入れて冷やし固めて作っていました。
しかし、そんな幸せな暮らしは長くは続きませんでした。戦況の悪化に伴って四十代の父も召集され廿日市に駐屯することになり、舟入町の自宅で母と二人きりの生活が始まりました。次第に配給される食料だけでは足りず、食べるものが十分に手に入らない時代になりました。
我が家の庭から、江波町の高射砲台に向けた機銃掃射のバリバリバリ…と鳴る音が聞こえ、瓦に弾がパンパンと当たるのを見た記憶があります。それに反して、江波から発射される弾は、米軍の飛行機が飛び去った後に、ポンという音とともに丸い煙の輪ができるだけのお粗末なもので、子どもの私でさえ「ありゃあ、当たらんわい」と情けなく思ったものでした。
●昭和二十年八月六日の朝
この日、母は、私がまだ眠っている早朝から、江波までナス・キュウリ等の野菜の買い出しに行っていました。五歳の私は、金太郎の「金」の字をあしらった腹掛けを着け寝ていました。母がちょうど家へ帰って来たところで目が覚めた私は、早速近所に遊びに行こうとします。しかし、母から「朝ご飯を食べてから、遊びに行きなさい」と言われました。急いで食べ終えると、次に母は「お母さんが食べ終わるまで、裏庭の池のコイなりと見とりんさい」と、遊びに出るのを再び制止したのです。
母の言いつけを守って私は、母の食事が済むのを待っていました。夏の暑い盛りでしたので、池に面した家のガラス戸は片側に寄せて開け放っていました。私はその寄せたガラス戸の前に座って池のコイを眺めていたのです。すると、突然、ピカーと黄色く光ったと思った瞬間、私の体はガラス戸まで飛ばされ、左側の額と頬をガラス片で切りました。腹掛け一枚しか着けていなかったので、両肩にも無数のガラス片が刺さりました。またその時の衝撃で舌の左側をかみ切りました。ずいぶん後になってわかったことですが、頭頂部にも深く刺さったガラス片でできた傷がありました。髪の毛で隠れて表面には傷が見えておらず、その時には頭頂部のけがには気が付きませんでした。しかし、母の言いつけを守ったお陰で、私は家屋の陰になりやけどを負うことはありませんでした。
「ひとしー、ひとしー」と母の叫ぶ声が聞こえました。我に返った私はその声に応じようとガラスをはねのけると、血がブワーと吹き出してしまいました。母は家の裏手に掘った防空壕の中から包帯の代わりになりそうなシュミーズを引っ張り出すと、傷口を縛り止血してくれました。私はただ泣くばかりで何が起こったのか、まったくわかりません。母は我が家が爆弾でやられたものと思っていたようです。母はけがをした私を背負い、舟入町住民の第一避難所に指定された南観音町の総合グランドまで歩いて行くことにしました。
●避難所で
第一避難所へ行く途中の橋は渡れず、満潮のため川の中も通ることもできません。やむなく、私たちはしばらく舟入本町の川土手で待つことにしました。待っている間には、黒っぽい雨が降ってきました。舞い上がったほこりを含んだ雨でした。天満川にはたくさんの死体が浮いているのを見ました。天満町電車専用鉄橋付近です。腹部が大きく膨らんだ死体がたくさん浮いて流れていました。そんな悲惨な光景を見ても怖いという気持ちが子ども心にも薄らいでいたのでしょう、何も感じなくなっていました。かみ切った舌は口の中におさまらず、だらりと垂れ下がったまま血がどんどん流れ出し、口の中にあふれる血で気持ちが悪くなり、三回ほど吐きました。
昼過ぎになった頃、やっと川を渡ることができました。到着した避難所で救護活動を行っている兵隊さんの一人に、母は私の額の傷を縫ってもらうようお願いしました。麻酔等の薬品はなく、兵隊さんが「僕、がんばれよ」と励ましてくれましたが、麻酔なしでそのまま縫合されました。母は、「舌の傷も何とかならんですか。縫ってください」と懇願しましたが、兵隊さんには「舌の傷は縫えんよ、無理なんです」と断られました。周りにはむしろの上に血みどろになった被災者が何百人と横になっていました。救援に当たっている兵隊さんたちが新しいきれいなむしろを敷いても、ものの五分もしない間に血で真っ赤に染まるのです。母は、このままここにいても仕方がないと思ったのでしょうか、第一避難所から更に西に指定された第二避難所の廿日市町役場へ向かうことにしました。
草津の停留所からは廿日市へ向かう電車が動いていたので、ようやく私たちは電車に乗ることができました。電車の中ではあちこちから「痛いよー」という声が聞こえていました。第二避難所へ到着した時間は、はっきりとはわかりませんが日が落ちていたので恐らく夕方だったと思います。「タカヱー、タカヱー。タカヱはおらんかぁー」という声で母は、父が捜しに来てくれたことがわかったようです。しかし、私は長い間父に会っていなかったので、父親の顔をすぐには思い出すことができませんでした。廿日市町では、被災者は農家に八~十人ぐらいずつに分け預けられました。農家といえども米はなく、白米の代用食であったコーリャン飯が主食でした。炊き立てであれば何とか食べられたコーリャン飯も、冷めるとバラバラとして食べづらくなり、とりわけ舌を切っていた私にはコーリャン飯を食べることは至難の業です。結局一か月間は、水以外ほとんど何も口にすることはできませんでした。
●生活再建
廿日市から舟入の自宅に戻ってきたのは、被爆後十日ぐらい経過した頃だったと思います。
宮大工だった父は、自宅があった場所にまずバラックを建て、秋には同じ場所に廃材等を使って家を再建しました。住む家は父のお陰で何とかなりましたが、食べ物は相変わらず配給でした。その配給も数日に一回で、ほんのわずかな量の乾パンや金平糖といったものでしたので、食べ盛りの私のおなかを十分に満たすことはできません。今でも忘れられないのは、真っ黒な「江波だんご」のことです。このだんごは、サツマイモのツルや海藻、雑草等を練り込んで作られたものでした。冷めると苦くてなかなか喉を通りませんでした。線路にたくさん生えている「鉄道草」と呼ばれていた雑草を採ってきて食べたこともあります。もちろん調味料等はありません、ゆでるだけでした。空腹に耐えきれず、スイカ畑からスイカを無断で取って食べたことさえありました。当時は本当に、食べることが一番の関心事でした。焼け跡に畑を作り、野菜を植えました。焼け跡の土では、なぜかナスは余り育ちませんでしたが、トマトやカボチャは上手にできました。ジャガイモは青くて渋い部分が半分くらいあるものしかできませんでしたが、それでもそれを食べないと生きていけません。食べられるものは何でも食べました。
また、少しでも家計の足しになるのであればと、江波の射撃場跡に落ちている雷管を探したり、焼け跡の水道管を引きちぎったりして売りに行ったこともあります。レンガや瓦といったものさえ、拾っては売りに行ったものでした。
昭和二十一年、私は舟入国民学校へ入学しました。学校は原爆により校舎が半壊し、原爆で焼け残った本川小学校の校舎で授業を受けたこともあります。原爆で全校舎が焼失した神崎小学校の一部の児童も一緒に勉強することになり、教室は不足していました。その後、私は神崎小学校へ移されました。小学校六年生の八月、体調が悪くなり伏せっていた父が亡くなりました。戦後は民生委員を務めていた父の葬儀には、当時の濱井信三市長も参列してくれました。厳しくも優しい父でした。
父亡き後、母と私の二人の暮らしに再び戻りました。父同様、被爆後体調が優れない母でしたが、気丈な母は、そのことを表に出さず、生田流の琴を教えて生活を支えてくれました。私が江波中学校一年生になってすぐ、母親に連れられ比婆郡西城町(現在の庄原市)へ行きました。西城にはなぜか親戚の人たちも来ていましたが、親戚が次々と帰るので私も母に「家へ帰ろう。お母さん、どうして帰らんの」と尋ねると、「今度は、この人がお父さんになるから」と母から説明を受けました。この日は引っ越しのための移動で、母の再婚話は新しく父親になった人の妹さんが紹介したそうです。私には何の相談もなく突然のことでしたが、山の中の空気もきれいなこの地で育ったお陰で私は元気になりました。西城中学校を卒業し、広島県庄原高等学校(現在の県立庄原実業高等学校)に通わせてもらいました。母が再婚した家は農業を営んでおり、私は田植えや炭焼きといった家の手伝いもしました。
●広島へ
学校を卒業した私は、亡き父の友人が舟入本町で営んでいた商店に住込みで働き始めましたが、ここでは満足な食事にありつくことができず、すぐに飛び出してしまいました。その後、安芸郡船越町(現在の広島市安芸区)のパン屋に就職することができました。下積み時代は大変苦労しましたが、ここではパンが幾らでも食べられ、それだけでもうれしいことでした。そのため久しぶりに会う身内でさえ驚くほど、私は太りました。長い間修行をした成果があって、最後にはパンを焼くまでになりました。幸いなことに働いている間も、体の不調を感じることはありませんでした。
現在の私の体や舌には傷痕が残っていますが、特に原爆の影響で体の調子が悪いということはありません。ただ他の人に比べて血管が細く、病院で注射針を刺されるのが苦手なこともあり、なかなか被爆者健康診断には足が向きません。それ以外には、糖尿病の持病があります。そのためお酒はきっぱりやめましたが、タバコはどうしてもやめることができなかったので、一日に吸う本数の制限をしています。
●伝えたい思い
教育や生活も違う今の若い人たちに、私の思いがどれくらい伝わるのかわかりませんが、私の体験を通して原爆に対してもっと関心を持って学んでほしいと思います。いかにして、広島が復興したのかを勉強してほしいのです。
私は現在七十一歳ですが、縁あって来年の秋には三度目の結婚をします。新しい仕事にも就いて、これから新生活の第一歩を踏み出すのです。人には与えられた使命を、命が尽きるまでやり遂げる意味がきっとあるはずです。必ず一人ひとり生きている意味があるのです。
当時のことを思えば、今の若い人には何事にももっと真剣に取り組んでもらいたいです。命の大切さや親のありがたさ、生きることの厳しさを感じ取ってほしいと期待します。そして、望みを持って前向きに生きてほしいと願っています。
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