●家族について
私は広島市東観音町で生まれ、六歳のとき、上天満町に引っ越しました。
上天満町の家は広瀬橋の西詰めにあり、爆心地からは一・二キロメートルのところでした。そこで両親、妹、三人の弟の七人家族で暮らしていました。父・森田作一は、知人と三人で、安芸郡海田市町(現在の海田町)で材木の商売をしていました。
原爆投下前には、母・カメヨは、実家である山県郡八重町(現在の北広島町)に国民学校六年生の妹・八重子、四年生の弟・昭男、四歳の弟・勝男の三人を連れて疎開していました。上天満町の家では、父と弟・繁、私の三人で暮らしていました。
長男の繁は当時十四歳でした。国民学校高等科では広島鉄道局に動員されていましたが、昭和十九年三月に卒業した後も、そのまま動員先で働いていました。
私もまた、昭和十九年に広島女子商業学校を卒業した後、動員先であった広島市三篠本町にある広島陸軍被服支廠の分工場で、挺身隊として仕事をしていました。十七歳でした。
●被爆前の生活
三篠本町の分工場では、二百人くらいの人が働いていました。そこで軍人の靴や服を作るほか、鉄砲を磨いたりもしていました。周りには同じ年頃の女性が二十人くらいいて、皆あちこちの学校を卒業して挺身隊として働いていました。
学生時代は、学校が広島市出汐町の被服支廠に近かったので、勉強はそっちのけで被服支廠に動員され働いていました。そんな時代でしたから、自分の希望にかなった仕事には就けるはずもありません。
私が通った学校は、商業学校でしたから、そろばんやペン習字を習いました。私は書くことが好きだったのでペン習字のクラブで活動していました。将来はそれを生かした仕事に就きたかったのですが、思うようにはなりませんでした。ペンを持つ手で軍靴を作ることになったのです。
悔しい思いはありましたが、何でも「お国のため」が最優先という時代でしたから仕方がありませんでした。
●原爆投下の瞬間
その日の朝、父は既に仕事へ出かけていて、家にいるのは私と弟の繁だけでした。
繁は朝、夜勤を終えて帰ってきたので、私が「作業をして疲れたでしょう。少し休みなさい。そのうちに朝食にするから」と言うと「じゃあ、朝食は後でいいわ」と言って座敷へ行きました。今思えば、そのときが弟の元気な顔を見た最後でした。
私はたまたま休暇を取っていて、裏庭で洗濯物を干していました。ちょうどそのとき、原爆が投下されたのです。
気が付くと、私は壊れた倉庫の下敷きになっていました。本当に一瞬の出来事で、あっと言う間に倉庫が私の上にかぶさりましたから、光を見たり、音を聞いたりした記憶がありません。
幸い倉庫が木造だったので、どうにか外へはい出すことができました。そして、すぐに繁のことが頭をよぎりました。
繁が部屋で休んでいる!助けに行かなくては!
●弟・繁の最期
繁がいた座敷は裏庭から五メートルくらい離れたところでした。そんなに大きな家ではないので、場所はすぐに分かりました。行ってみると、繁の手と顔が崩れた家から出ているではありませんか。
「お姉さん、助けてー。引き出してくれー」
と言う繁の声が聞こえました。繁は胸から下が、がれきに埋まり、わき腹を梁に挟まれて「お姉さん、掘り出してくれー」と助けを求めていました。顔はほこりで真っ黒になっていました。
どうにかして引っ張り出そうとしましたが、梁はびくとも動きません。家には火の手が上がり、辺りはもう煙が充満して、むせ返るような状態でした。そして、火の手はどんどん迫ってきました。私一人ではどうにもなりませんでした。
「お姉さん、もうだめだ、だめだ。息苦しい」
それが最期の言葉でした。助け出そうとする私も、煙で息ができないくらい苦しかったので、本人はどんなにか苦しかったことでしょう。火よりも先に煙にまかれて亡くなったのだと思います。結局、繁を助け出すことができませんでした。
本当につらいできごとで、思い出したくありませんが、繁の「もうだめだ」その言葉が今でも耳に付いていて、忘れることができません。
●川原へ避難する
それから後はもう夢中で、福島川まではだしのまま歩いて逃げました。辺りは炎と煙に包まれ、逃げるときは周りに家など残っていませんでした。私は、倉庫の陰になったからか、幸いにやけどはしていませんでした。しかし、逃げるときには辺りの家が倒壊していて、その上をはだしで歩くものですから、体中に切り傷を負いました。出血するので、草をむしり取ってはそれで傷を拭いていました。
以前何かで、原爆を受けた避難者の様子を描いたものを見たことがあります。それは皆、全身があらわになった姿で逃げまどっておりましたが、私が実際に見た人々は、何かしら衣のようなものをひっかけるように身に着けていました。
近所の人たちや子どもたちも、同じ方向へ逃げていきました。近所のおばさんに名前を呼ばれ、一緒に逃げましたが、途中ではぐれてしまいました。
福島川に架かる小河内橋の手前の小河内川原まで逃げてくると、気分が悪くなり、激しく吐いてしまいました。何を吐いたのかわかりませんが、緑色のどろっとしたものでした。
川原や土手には山のようにたくさんの人が倒れていました。何十人、何百人いたでしょうか。もう歩けなくて座り込んでいる人、亡くなっている人、数えきれないくらいでした。その光景は今でも忘れることができません。
身内を捜しに来ている人もいて、父親が、娘がこちらへ逃げてきてないかと言って、うつ伏せになって亡くなった人を、あお向けにひっくり返している姿も見ました。五、六人ほどそうやって確認していましたが、見つからなかったようです。
川原には農機具を収めるような小屋が幾つかありました。爆風で半壊しているような状態でしたが、私はその中に入っていました。黒い雨が降ったそうなのですが、私は小屋の中にいたので見ていません。
●父との再会
父は海田市町へ仕事に行く途中、広島駅で被爆しました。山沿いを歩いて、私をあちこち捜し回ったようで、何時頃だったかは分かりませんが日も暮れた頃、小河内川原で偶然再会することができました。
「菊枝」と呼ばれたときは、もう、安心して、何も言えませんでした。父親だけでも元気でいてくれたとうれしく思ったことは忘れることができません。
父が「繁は?」と聞きました。私が首を横に振ったら、すべてを察したようで、ものすごく気を落としていました。
●安村への避難
その日は安佐郡安村(現在の広島市安佐南区)まで歩いていきました。当時のトイレはくみ取り式で、人ぷんを畑の肥料に使っていました。野菜を作るための貴重な肥料でした。安村からうちに下肥を取りに来られていた知り合いのおばさんを訪ねて、安村へ行くことにしたのです。
途中、やけどを負ったたくさんの人をあちこちで見ました。夏なので畑にはキュウリがたくさんなっていましたが、被爆した人たちは、道沿いにあるキュウリを取って、やけどした皮膚にずっと当てて冷やしていました。
安村へ行ってみると、その方は広島市内に建物疎開作業に出て被爆し、亡くなっていました。父と二人、その家の納屋の軒先で座って一夜を過ごしました。
●避難生活
八月七日には、私と父は、父の自転車で、母や妹、弟たちが疎開している八重町に向かいました。八日にようやく八重町に着きました。今のように、道路が整備され、トンネルが通っている訳ではありませんので、山道では後ろから自転車を押したり、下りは時々自転車に乗せてもらったりしました。
再会したときの母は、繁のことで随分と力を落としていました。八重町からでも、広島の空が赤い色をしているのが見えましたので、広島のことはある程度わかっていたのでしょう。翌九日も、広島の空はまだぼうっと赤かったです。
八重町では約一週間過ごしました。私は被爆当日、シュミーズ一枚という姿でした。八重町には疎開させていた衣類と布団が少しあるくらいでしたが、母はそれらを使って、私が羽織れるものを手縫いで作ってくれました。
八重町に着いた翌日、父は父の次兄が養子に行っていた家のある佐伯郡砂谷村(現在の広島市佐伯区)へ行きました。私も一週間くらいしてから父と合流しました。当時は食糧が不足していたため、八重町の母の実家には迷惑はかけられなかったのです。八重町から廿日市町までは汽車で行きました。当時は、線路沿いで汽車に向かって手を上げると、止まってくれるのです。汽車には貨物用の車両もありましたが、そこにもたくさんの人が乗っていました。廿日市駅で降りる人は多かったです。そこから水内行きのバスで砂谷村へ向かいました。その日の昼に終戦のことを聞きましたので、ちょうどその日が八月十五日でした。それからは父と一緒に三か月くらい過ごしました。
砂谷村の国民学校が救護所になっており、十日間くらい通って、白い綿をもらい赤チンを自分で塗るといった手当てをしました。
●哀れな繁の姿
父は私と八重町で別れた後、一人で市内に入り、自宅で繁を発見しました。上半身は火災で白骨化し、下半身は埋もれて焼け残っているという姿でした。
父は繁を掘り起こし、荼毘に付しました。お骨はその辺りにあった缶に入れ、佐伯郡玖島村(現在の廿日市市)の実家へ預けました。父の長兄が健在でしたので、実家へ預けておけば大丈夫だろうと話していました。
ところが、いつ頃だったのか正確には覚えていませんが、その後広島県を襲った洪水で、繁のお骨は全部流されてしまったのです。
●健康への被害
父は被爆後二週間くらいしてから具合が悪くなり、吐いたり、下痢をしたりしていました。脱毛などはありませんでしたが、当時は原因が分からず、疲れだろうかと思っていました。私は砂谷村で父の看病をしていましたが、九月半ば頃には大分回復しました。私は、当日に緑色の何かを吐いたのが良かったのか、幸い父のような症状は出ませんでした。父も、それからは特に原爆症と思われるような症状は出ず、七十六歳まで生きることができました。
母は白血病にかかり、昭和五十年に六十代の若さで亡くなりました。原爆投下後五日ほどたって、母は自宅の焼け跡を片付けるために入市しました。そのせいで白血病になったのではないかと思っています。
●戦後の生活
私と父は十一月には上天満町の自宅があった場所に戻り、バラックを建てて、そこで生活を始めました。そのときは私の傷もだんだんとよくなり、大分元気になっていましたが、親しかった近所の人たちは皆いなくなり、大変寂しい思いをしました。
翌年の昭和二十一年三月頃には、疎開先の八重町から、母や妹、弟たちが戻ってきて、ようやく家族全員が一緒に生活できるようになりました。母は家の前の空き地を利用して、大根など自分で食べられる範囲のものは作っていました。周りにもあちこちにバラックが建っていました。
父は商売を再開しました。私は帳面付けなどをして手伝っていましたが、戦後すぐは、妹や弟もまだ小さく、父も母も苦労したと思います。
その後、私は県庁で事務補助の仕事をし、昭和二十三年からは県立地御前病院へ派遣され、五~六年間病院の事務をして働きました。昭和三十年代になってからは、だんだんと暮らしも落ち着いてきたように思います。
小さかった妹や弟も、それぞれ家庭を持ち、すっかり年を取りました。当時母と一緒に八重町に疎開していた弟・昭男は平成十九年に七十歳で亡くなりました。
父と母は、広島市安佐南区の緑井にある墓地で繁の遺品である、小さいときに着ていた浴衣を缶に入れたものと一緒に眠っていました。
ところが、平成二十六年八月二十日の豪雨災害の際に、お墓ごと土砂に流されてしまい、見つかっておりません。
繁の骨は玖島村で洪水に流され、今度は遺品が流され、本当に不運なことです。
●平和への思い
被爆者の方たちが、自身の体験を語ることは、とても大切だと思います。とはいえ、若い人にはなかなか伝わらないものです。実際にそのときにこんな惨状に遭ったというのは、体験していないとわからないと思います。それでも、私たちが体験した惨状を、風化させないよう後世に伝えていかなければならないと思います。
そのときの惨状を、もう若い人には体験してほしくありません。あんな悲惨な目には遭ってほしくないのです。今の平和な世の中で、核兵器はもう絶対に使ってはいけません。 |