●被爆前の暮らし
当時、私は十八歳で祇園高等女学校四年生でした。しかし学校では授業はほとんどなく、広島陸軍糧秣支廠や兵器補給廠などいろいろな所に派遣されて働きました。当時中国で戦死した兵士の軍服のボタンを取って集める作業をしたこともありました。働き手が軍隊に行ってしまったために人手が足りなくなった農家へ行き、農作業の手伝いもしましたし、また、氷の張るような寒い冬に田から水をはき出し、芝を植えては、また埋める暗きょ排水作業をしていた時は体が大変つらく、わらを敷いてあるところに座って休んでいると、「こらーっ、何を休んでいるのだ」と教練の先生に怒鳴りあげられました。私は、高熱を出し、右湿性肋膜炎になりました。そのため二年ほど進学が遅れました。
また、広島市内に限らず、白島から安佐郡可部町(現在の広島市安佐北区)にある県立可部高等女学校へ疎開した広島連隊区司令部に行かされたこともありました。そこでは、ガダルカナル島沖やフィリピン沖などで戦死した兵士がどのように亡くなったのかという記録を兵籍簿に書かされました。これも心苦しい作業でした。
結婚した姉が、田中町に住んでいましたので、そこに同居させてもらい、そこから動員先に通っていました。しかし、姉の住んでいた家が建物疎開の対象になったため、別の家を探していたところ、天満町のイソベさんという一人暮らしのおばあさんから「家賃はいらないから、一緒に住んでくれ」と泣くように頼まれ、そこへ引っ越しました。ちょうど、八月六日の一週間前のことでした。姉の夫は、師範学校の先生で、生徒を引率して、島に行っていたため、私と姉だけが、イソベのおばあさんのところに移ったのです。当時、姉は妊娠中でした。
●八月六日
八月六日は、空がきれいに澄みきっていて、雲一つない、抜けるような青空で、本当によいお天気でした。その日の朝、私は県立可部高等女学校(広島連隊区司令部)へ学徒動員に行くため、着替えをしていました。
その時、瞬時に青白い光が音もなくサーッと広がりました。私の所に爆弾が落ちたのだと思いました。アセチレンガスが燃えるような光です。その光をぼう然と眺めていました。私はきれいだと感じました。みんなは「ピカドン」と言うけれど、ピカもドンもありませんでした。目の前に青白い光が広がっていて、それをしばらく眺めていたように思います。その青白い光が消えた途端に何も見えなくなりました。私は自分の目が見えなくなったのだと思いました。しばらくうずくまっていたら、息苦しくなりました。目を開けて見ると、最初に茶色い景色が見えました。それから真っ白になりました。
しばらくして気がつくと、家は一軒もなくなっていて、はるか向こうまで見渡すことができました。あちらこちらから火が出ていて、大勢の人があわてた様子で逃げ出していました。
私は、崩れた屋根瓦に胸まで埋もれていましたが、幸いなことにかすり傷一つありませんでした。イソベのおばあさんの「ここよ、ここよ。助けて、助けて」と言う声が聞こえてきましたが、どうすることもできません。姉を呼ぶと、姉は炊事場にいたのですが、何とか廊下から上がってきました。
私と姉は二人で、かすかにあいていた小さい穴のところからがれきや土を払いのけて、少し大きめの穴をあけました。そこからがれきに埋もれていたおばあさんの手が出てきたので、二人で引っ張り出しました。
おばあさんの頭のてっぺんには大きな穴があいていて、そこからはザーッと血が顔面に流れていました。がれきの上に座り「命の恩人じゃ」と言って私と姉に手を合わせてずっと拝むのです。その時にはもう周囲から火が迫ってきていました。「おばあちゃん、早く逃げよう。そんなことはどうでもいいから」と私と姉は言いました。しかし、おばあさんは「私は逃げられない。独り者だからこれがないと生きていけない。貯金通帳と米の通帳を探すんだ」と言って、動こうとしませんでした。
ふと隣家を見ると、二人の人が立っているのが見えました。一人は男性で、国防色の星のついた帽子をかぶっていました。帽子をかぶっていた部分の髪の毛だけが残り、全裸で皮膚がわっとみんなむけていました。その隣にはその人の奥さんらしき人がいて、浴衣の襟の部分だけ残し、あとは焼けて全裸の状態でした。皮膚が丸むけになった、まるで肉の塊のような赤ん坊を抱いていました。
その二人の姿には本当に驚いたのですが、何とかおばあさんを連れて逃げたい一心で、思わずその二人におばあさんが逃げようとしないから手助けしてほしいと頼みました。すると「自分の命が助かるかどうかもわからないのに、人の命を助けられるか」と大声で怒鳴られました。私たちは引っ越してきて一週間しかたっておらず、親しくもなく、ましてやそのような状態の人に助けてもらおうと思ったことが無理でした。
悪いとは思いましたが、私と姉ではどうしようもなく、結局、おばあさんをそこに置いて逃げるしかありませんでした。その後、おばあさんがどうなったのか知る由もありません。
●避難の途中
姉は、逃げる時に敷布団のようなものを取り、それを腰にくるくると巻きました。私は「お姉さん、そんなものを持って逃げるの」と尋ねましたが、姉は「いいから、いいから」と言って逃げました。
いろいろな方向から迫ってくる火をどうやって避けてよいのかわからないまま、家の裏にあったなすび畑に飛び降りました。そこからは県立広島第二中学校の向こうにある総合グランドへ通じる大きな道路しか通れず、その道を通って逃げました。二中の門の所まで来ると、顔の皮膚がむけて銃を持った兵隊さんがいました。そのような状態でも自分の義務を果たそうと思うのでしょう。「こっちはだめだ、あっちへ逃げろ」と言って避難する人たちを誘導していました。
どこに行くのかもわからず、とにかくみんなが逃げる方へついて行きました。全ての道は死体でいっぱいでした。その中に焼けて茶色のチョコレートのような皮膚になった全裸の女の人もいました。その人は手を差し伸べて「水……」と言いながらもその手を体の下腹部へ持っていったのをよく覚えています。死体や倒れている人を踏まないようによけながら、ようやく己斐にある旭山神社の下まで来ました。
●黒い雨の中で
線路を越えて神社まで石段を上がろうとすると、その時降っていた真っ黒い雨は、石段を滝のように流れ、まるで川ができたかのようになっていました。しかたなく私たちは石段を探りながら上がり、やっと神社にたどり着くと、そこはすでに逃げてきた人たちでいっぱいでした。
夜のように暗く、黒い雨が降っている中、その人たちは何もなくなった街をただぼう然と眺めていました。広島赤十字病院と広島駅、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が残っているのが見えました。
社殿までたどり着くことができないほど人がいっぱいだったので、姉は「仕方がないので、しばらくここにいよう」と言って姉が腰に巻いていた敷布団のようなものを広げ、二人でかぶって参道にしゃがみ込んで、黒い雨をしのぎました。すると真っ青な顔をして皮膚がたれ下がった二中の男子生徒がふらふらと石段をあがってきました。
とてもつらそうで、かわいそうだったので「ここに入りなさい」と言って、かぶっている布団の中に入れてあげました。その時は放射能を持った雨とは知らなかったので、自分がぬれるのもかまわず、男の子を私と姉の間に座らせました。その男の子はゲエゲエと吐き続けていました。「つらいね。大変だね」と声をかけ、背中をさすりました。しばらくすると、その子がふわっと立ち上がりました。「あら、どこへ行くの。今はどこにもいくところはないよ」と止めようとしたのですが、男の子は「友達を捜しに行きます」と言って石段をふらふらと降りていきました。しかし、あの様子ではとても助からないと思いました。
午後四時頃だったのでしょうか。黒い雨がやみ、みんなが神社の石段を降り始めました。私たちも続いて降りました。
その時私は、上着は着ないでシュミーズを着て、モンペをはき、はだしでした。旭山神社近くの家の奥さんが、ブラウスとズックを分けてくれました。このような状況の中で、とてもありがたいと思いました。後で何かお礼をしたいと思ったのですが、その人が誰だったのか今となっては全然わからないままです。
●実家を目指して
その後、私と姉は実家に帰ろうと思い、沼田(現在の広島市安佐南区)方面を目指して線路伝いに歩きました。線路の近くに大きな木が二本立っていたのですが、その木の先がボッと燃えているのを見ました。その時は原爆の熱線で燃えたことがわからず、誰がこんなところに火をつけたんだろうと不思議に思いました。線路伝いに歩いていると畑がありました。その畑には井戸があり、やけどをした人たちが水を求めて井戸の周りにいっぱい群がっていました。
歩いていると、向こうから黒い服を着た人々がとっととっとと私たちの方へ向かって来ました。「うわ、何か敵が来たのかな」と怖く思っていると、その人たちは警防団で救援のために市内へ向かっている途中でした。横川のあたりまで来ると、傷病兵の病院がありました。みんな倒れていて、そこは本当に悲惨で見るのもつらかったです。
それから祇園、古市を通り、沼田の伴まで帰る道では馬車にいっぱい負傷した人を乗せてガラガラと運んでいました。姉の夫は師範学校の先生で、教え子が安村大町(現在の広島市安佐南区)の国民学校近くに住んでいたので、途中でその家に寄りました。
その家の奥さんが「顔を洗いなさい」「これを食べなさい」などと言って、おにぎりやいろいろなものを出してくれて、とてもよくしてくれました。私たちはやっとそこで一息つくことができ、その後、伴の家まで歩いて帰りました。
●原爆症に苦しむ
家にたどり着くと、家の中は広島から避難してきた親戚でいっぱいでした。どこにも休むところがなかったので、裏の部屋に行ってゴロンと畳の上に転がりました。疲れていたせいか、私は体が畳の中に食い込みそうになるように感じ、もう動くこともできませんでした。
家には甲種合格でシベリアに出兵し、大変な苦労をして心臓を悪くした父親がいました。父に「母さんが忙しいんだから、起きて手伝ってあげて」と言われましたが、苦しくて起き上がることができませんでした。
病院に行きましたが、田舎の病院で、待合室は畳でしたが、そこには入れないくらいのたくさんの人が来ていて、診察の順番を待っている間に亡くなっていきました。
髪の毛も抜けました。一度抜けてしまった後は、しっかりした毛が生えてこず、細い毛が生えるだけでした。
その後、お寺のお坊さんで、母の里の安佐郡戸山村(現在の広島市安佐南区沼田町)にある中学校の校長先生が、教員が足りないので教員になってほしいとお百度を踏むように何度も頼みに来ました。私は体調も優れず、学徒動員で勉強もさほどできなかったので断ったのですが、その後も熱心に頼まれ、伯母が戸山に住んでいて、伯母の家に住みながら職場へ通ったら良いと言ってくれたこともあり、教員になることを承知しました。学校の教壇はそんなに高くはなかったのですが、そこに足が上がらないくらい体力はありませんでした。体調が優れず、とうとう私は倒れてしまいました。
佐伯郡地御前村(現在の廿日市市)に、教員の保養所がありました。私は結核だということでそこに入れられました。しかし、レントゲンを撮っても結核について何も出ませんでした。原因は原爆だということになり、広島赤十字病院に行きました。そこでは、悪い方から三番目と言われ、検査もないまま即、入院となりました。トイレが真っ赤になるくらい下血をしました。
主治医の先生からは、毎日毎回「輸血をしなければ死んでしまうぞ」と言われましたが、私は「他人の血は一滴もいらない」と言って断りました。先生は「白血病で白血球も減少し、赤血球もないし。すごい貧血だ。輸血をしなければ死んでしまうぞ」と何度も私に言いました。私は「輸血はいらない。死んでしまってもいい」と言って、ベッドの下に潜り込んで出て行きませんでした。当時のベッドは高さがあり、床がセメントで、そこには十分な空間がありました。先生はしびれを切らして、「それなら死んでしまえ」といって諦めました。
私は当時、輸血して肝硬変になったという記事を新聞で読んでいたのです。輸血した人はみんな発病していました。私は結局一年ほど入院しましたが、かたくなに輸血を断ったのが良かったのか、生き延びることができました。
●核廃絶を願う
私は、たくさんの人が亡くなっていったことを思い出すのが嫌で、被爆のことは一切口にしませんでした。そして「被爆した、原爆にあった者は嫁にはもらうな」「子どももできない」などと言われて被爆者は差別されていたので、周りの人も被爆者だということを隠していました。怖かったので、被爆後十年間、広島の街には行きませんでした。原爆のことは思い出したくなくて、誰にも話さないでいました。
私と違って姉は精神的に強かったのか、原爆のことを皆さんに伝えるためにすぐに被爆体験を語り始め、平和記念公園などで証言活動をしていました。その姉は、全身骨がんで亡くなりました。被爆当時、姉のお腹の中にいた娘は、原爆小頭症になり、両親とも亡くなり、独り身で具合も悪く、今でも苦労しています。今は、全身がんで集中治療室に入っていて、死を待つばかりです。
原爆のことは、実際に体験し、見ていないとわからないものです。私はこれまで原爆のことを言わずに生きてきましたが、あの惨禍の中を生かされ、今日命があるということは、この体験を伝える使命を託されたのだと考えるようになりました。
昨今、世界には大国と言われる国ばかりではなく、小さい国もまた核を保有し、保有しようとしています。私はこのような情勢に大変危惧を感じています。原爆は絶対にいけません。人類が滅亡します。人は、自己中心的に生きていると必ず行き詰まります。相手が悪いと責める前に、まずは自分のことを省みることが必要です。さもなければ、敵も味方も分からなくなり、入り乱れて争いになってしまいます。また、原子力発電も私には理解できません。原発に頼らなくても太陽光、水力、風力などがあると思います。原発は変えていかなくてはいけません。
戦争のない平和な世界を構築するためには、核廃絶は絶対に必要なのです。闘争と破壊を繰り返す人間。今こそ目覚めるべきです。さもなくば、天変地異の禍を自ら招くようなものです。人類皆兄弟です。互いに助け合い、労わり合って生きるべきです。自己中心的ではいけません。今こそ目覚める時です。
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