●八月六日のこと
当時、私は五歳で、南観音町で家族と暮らしていました。家は天満川沿いの土手の近くにあり、家の周りは畑でした。よく土手に上がって遊んでいたのを覚えています。
八月六日のことは、まだ五歳でしたので、あまりよくは覚えていません。生まれたばかりの弟・誠をおんぶした母に手を引かれて、家の近くの川土手に上がり、そこで光を見たような気がします。何かピカッとした覚えがあるかないかで、私は倒れたのだと思います。気がついたときには、家のそばの畑の中にいました。多分、母に抱えられて帰ったのだと思います。子どもですから、夏はほとんど裸です。両腕、両足、胸、顔にひどいやけどをしていました。上を向いていたのでしょう、顔のやけどが一番ひどかったです。一緒にいた母もやけどしていて、二人で畑に寝ていました。母におんぶされていた弟は、母の陰になっていたため、私ほどはひどくなかったと思います。周りには避難してきたのか、そのあたりで倒れたのかわかりませんが、たくさんの人が寝転んでいました。
被爆直後にどうしていたのかは、あまり覚えていません。覚えているのは、畑の中で、ジャガイモのすったものをやけどしたところへ当てていたことです。近くにおられた医師の玉垣先生という方と、他に何人かの人に手当てをしてもらいました。ジャガイモをすって、手や胸、足のやけどにずっと貼っていました。
●家族のこと
私たちの他に家族では、兄で長男の晃は県立広島第二中学校に通っていて、学校で被爆したようです。次男の慧は市立造船工業学校の生徒で、学徒動員中に被爆し亡くなりました。私より三つ上の兄、高も被爆しました。父は、出征し長崎の五島列島に行っていました。父がいつ帰ってきたのか、私はやけどで寝ていたのでわかりません。
●被爆後のこと
終戦の時のことも、その頃どうやって生活していたのかも覚えていません。やけどがひどく寝たままで、髪の毛も被爆直後から抜け始め、全部なくなっていました。小学校へは一、二年生の時は行けず、外にも出られませんでした。やけどは月日がたつうちに乾いたのか、だんだん膿が取れたのでしょう。小学校へは三年生から登校するようになりました。しかしずっと体調不良で、特に熱をよく出しました。猩紅熱や色々な病気をして、結局学校へはほとんど行っていません。
●広島戦災児育成所
戦後も南観音町の家で暮らしていましたが、父が五日市の皆賀に広島戦災児育成所という施設を作り、原爆で孤児となった子どもたちを育成する事業をはじめたので、五日市へ引っ越しました。そこで原爆孤児のみんなと暮らしました。孤児の人数は百人くらいいたでしょうか。十三、四軒の家があり、それぞれの家に「お父さん」「お母さん」がいました。父と母は別の建物で暮らしたので、家族は皆ばらばらです。私の家は第一児童室で、孤児たちが「きょうだい」です。職員の先生を「お母さん」と呼んでいました。そして、父と母のことは、私も「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼び、みんなのおじいちゃん、おばあちゃんでした。ですから、同じ家の子どもは「友達」ではなく、本当のきょうだいのような関係でした。同じような年齢で学校にも一緒に行き、楽しかった思い出もあります。同じ家のきょうだいとは、今でも電話をしたり連絡を取り合っています。
育成所には童心寺というお寺があり、朝はみんなでそこへ集まってお経を上げて、それから食堂で食事をし、それぞれ学校へ行きました。私が実の両親に会うのは、食堂とお経を上げているときだけです。それも遠くで見ているだけで、お父さん、お母さんとは言いませんでした。ですから家庭の印象というものはありません。
育成所で食事に困ったことなどはありませんでした。父が食事の世話をしていましたが、どんな苦労をしていたか、子どもでしたからわかりません。食堂も大きかったし、食事もきちっとしていて、食べられないということはありませんでした。子どもだったので当たり前のように食べていましたが、今思うと、百人くらいいたので作る人は大変だったと思います。
育成所では中学三年生まで暮らしました。その後は、父が選挙に出て議員になり、私は基町へ移りました。五日市の施設は広島市に全部寄付しました。育成所の大きいお兄さん、お姉さんはもうみんな成長し、それぞれに東京へ行ったりして、就職していました。
●健康のこと
私は顔のやけどがかなりひどく、治ってからもみんなから「ケロイド、ケロイド」と言われることが続きました。歩いていても、そういう言葉が聞こえてきました。あの頃は、みんなが言っていたのだと思います。ですからあまり人前に出たくないので、なるべく家にいるようになりました。学校でも、身体測定が一番嫌でした。子ども心に、「ケロイド」という言葉が一番嫌いだったことをはっきり覚えています。大きくなってからも、写真に撮られることは特に嫌いで、学校の写真にも、写っていないと思います。
中学生になってからも頻繁に高熱が出て、学校はよく休みました。学校ではあまり勉強することができませんでした。友達と出かけるというようなこともありませんでした。ようやく最近になって、少し外出するようにはなりました。
高校、大学と進学し就職しましたが、繰り返し色々な病気をし、体調がよくない状態が続きました。すぐに四十度くらいの高熱が出ます。他にも腸の手術をしたり、白内障やサルコイドーシスという病気もしました。入院したことは、数えるときりがありません。落ち着いてきて体調がいいということは、六十歳を過ぎた最近になってからです。
私は全身に原爆の光を浴びているので、その影響があると思います。
●被爆への思い
私はこれまで、あまり自分の被爆体験を話すことはありませんでした。家族と話題にすることもありません。私がやけどで寝ていた頃のことや、病気の症状、どのくらいひどかったかなどは兄が知っていると思いますが、そういう話は全然しませんし、する気もありません。思い出したくないのです。
被爆し、病気に悩まされ、中学生の頃から死ぬということ、死というものをどう迎えるかを考えてきました。あまり他のことを考えたことはありません。被爆したことが、そういうものを意識するようになったきっかけだと思います。
この度初めて、もう最後の機会だという思いから、自分の体験を残しておこうと思いました。
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