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生かされてきた命 
山本 正一(やまもと まさかず) 
性別 男性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 都志見国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆体験を語ることへの思い
私は七十六歳の被爆者です。原爆投下後の広島市に入市して体験したことは、今でも脳裏に深く刻み込まれています。しかし七十歳までは、その体験を誰にも話さず、また聞くことさえも一切避けてきました。辛抱と我慢を重ね、被爆の影響は何もなかったように、日常生活を送ってきたのです。

現在まで生かしていただいた恩返しを考えたとき、私は何も役割を果たしていないことに気が付きました。原爆死没者慰霊碑へお祈りに行く度に、「ごめんなさい」と深く頭を下げるのが精一杯でしたが、被爆体験を継承することが私に与えられた使命であると考えるようになりました。今日まで元気で生きてこられたことに感謝し、私の体験を語りたいと思います。
 
●被爆前の生活
私は昭和十三年に生まれ、祖父母、両親、兄、叔母(母の妹)と小網町の一角に暮らしていました。祖父母はそこで「カフェーツシミ」という飲食店を経営していました。屋号の「ツシミ」は、祖父の故郷である山県郡都谷村都志見(現在の山県郡北広島町)に由来します。家はモルタル三階建てで、一階が店舗、二、三階が住居でした。当時の小網町界わいは、劇場の寿座をはじめ、映画館や演舞場などの娯楽施設が集まり深夜までにぎわっていたことを覚えています。

祖父・角田佐織は、商売で成功するには、平素から礼儀正しく、優しく笑顔で接すること、粘り強く頑張り抜く気持ちが大切だと教えてくれました。この教えは、私が社会に出てから大いに役立ちました。

父・山本馨は榎町の問屋街で働いており、母・初恵は家業の手伝いで忙しくしていました。三つ年上の兄・角田邦明と私は、祖父母と両親に大切に育てられました。よく一緒に家の近所の本川へ行き、新大橋近くの浅瀬で貝掘りをしましたが、たくさん捕っても最後は必ず川に逃がしてやるような、自然や生き物の命を大切にする優しい兄でした。自転車の乗り方を教えてくれたときは、幼い私が一人で乗れるようになるまで辛抱強く教えてくれました。

家の商売は順調でしたが、戦争が激しくなるにつれて、店を閉じることが多くなってきました。昭和十八年に弟が生まれましたが、同じ年に父が陸軍に召集され、鹿児島県の鹿屋へ行きました。父はそこで、外地へ向かうための訓練を受けていたそうです。

やがて広島でも昼夜を問わず空襲警報が鳴り響くようになり、私たちはその度に家の近くの寿座の防空壕へ避難しました。いつでも逃げられるように、常に身の回りにリュックサックや防空頭巾を備えておく生活でした。周辺の地域からも疎開する人が多くなり、街は人が少なく寂しくなりました。そして私も、昭和二十年四月、母と弟と一緒に祖父の実家へ疎開することになりました。兄は祖父母と広島に残ったので、別れがとてもつらかったです。私は兄の手を握って、「絶対に帰ってくるから」と泣きました。しかしこれが最後の別れになるとは、そのときは思ってもいませんでした。
 
●疎開先での暮らし
都志見にある祖父の実家は農家で、それまでの街の暮らしとは全く違うものでした。着いてすぐに曽祖母から、都会育ちの子どもでもここでは大人と同じに扱うので、早く農家の生活に慣れるようにと言われました。実家には曽祖母と叔母が住んでいました。そこへ母と私、二歳の弟が入ったので、私はまだ七歳でしたが唯一の男手だったのです。曽祖母は厳しい人で、家の出入りも表からは許されず、裏口から出入りしなければなりませんでした。

朝起きて一番に、飼っている牛の世話をします。牛の餌は干し草と雑穀類を混ぜたものですが、干し草を切るのに機械などは無いので、全部手作業です。また飲み水は、家の裏の小川まで桶を持ってくみに行きました。それが済むと曽祖母と仏壇にお参りしてから朝食でした。食事はほとんどがはったい粉で、焼いた麦を石臼でひいた粉に、塩か梅ジソを掛けてお湯を注いで混ぜたものでした。粉も自分でひかなければなりませんが、力仕事などしたことがない私には、石臼は重く重労働でした。

学校は既に新年度が始まっていたので、私は四月の途中から都志見国民学校に入学しました。学校には祖父が寄贈した黒板があり、裏側には祖父の名前が刻まれていました。悲しかったり、仕事がきつかったりするときは、祖父の名前を見てなぐさめられました。祖父が見守っていてくれるようで、それを見ると元気が出ました。学校が終わって帰宅すると、すぐに農作業でした。私が疎開したときは田植えの時期で、牛に鋤を付けて田んぼを耕すのですが、農機具は重くて、田んぼに足が埋まって何度も転びました。六月の農繁期には学校が休みになり、蚊やブトに刺され、ヒルにかまれながら、田んぼの水入れや草取りをして、日暮れまで一日中働きました。夜は遅くまでワラ草履を編み、毎日少なくても二足は用意していました。編み方も見よう見まねで覚え、何でも自分で責任を持ってしなければならない生活でした。
 
●原爆投下
八月六日は雲ひとつ無い快晴でした。母は叔母ともう畑仕事に出掛けていました。登校日だったので、私は朝食を済ませて、いつものように防空頭巾を首にかけて学校へ向かいました。八時前には学校に着き、校庭に全校生徒が整列して朝礼が始まりました。

校長先生の話を聞いていたその瞬間、突然南からピカッと、今まで経験したこともない鮮烈な光を背中に浴びました。私はすぐに防空頭巾を被ってうつ伏せになりました。すると一分半くらい後に「ドドドドドドー!」というものすごい音が襲いかかってきました。空からは明るさが消え夕立のときのように暗くなり、同時に大きな黒い雲の塊が、「グォー」と地面をはうように迫ってきました。伏せていても、雲がどんどん押し寄せてくるのが分かるほどです。どこから飛んできたのか、細かい紙片も降っていました。どうしようもなく体が震えて、私は身動きすることもできませんでした。

どれだけの時間が過ぎたのか分かりませんが、「早く家に帰りなさい」と言う先生の大きな声で我に返りました。どうにか立ち上がりましたが、足の震えは止まりません。けれども母のことが心配になり、私は急いで帰宅しました。

家では母が青ざめた表情で待っていて、広島で何か大変なことが起こっているから、明日の早朝に行こうと言われました。その日は広島へ行くため準備を済ませて休みましたが、祖父母や兄のことが気になって寝付けませんでした。母もきっと眠れなかったと思います。母の気持ちを考えると、私がしっかりして母の代わりをしなければいけないと思いました。
 
●八月七日
翌朝、母と私は弟を叔母に頼み、午前五時前にトラックの荷台に乗せてもらって都谷村を出発しました。避難用のリュックサックを担ぎ、防空頭巾と水筒を首に掛け、足にはゲートルを巻いていつ空襲があっても大丈夫という準備をしていました。トラックといっても、当時はガソリンの代わりに薪をたいて走る木炭車で、人が歩くより少し早いくらいの速度しか出ません。安佐郡の飯室(現在の広島市安佐北区)を過ぎて幕の内峠を登り始めたところで徐々に動きが遅くなり、頂上近くでは後続車の人たちも手伝って、皆で車を押してもらいなんとか峠を越えました。そこからは下り坂で、私たちは可部の雲石街道(広島と出雲・石見を結ぶ道)の分かれ道でトラックを降り、広島市内を目指して歩きました。途中、避難する人々とすれ違いましたが、皆無言で街の様子を聞こうと思っても意思の疎通ができないのです。街に近づくにつれて、やけどを負った人が目立つようになり、気の毒に思ってもどうしてあげることもできませんでした。新庄橋を渡る頃から、異様な臭いがしてきました。広島で何が起こっているのか分からず不安に思いながら、「小網町まで行かないとどうなっているか分からないから、とにかく行こう」と母を励まして歩き続けましたが、横川橋まで来たとき、母はとうとう動けなくなってしまいました。母は「先に行きなさい、必ず追いつくから」と言って涙ぐみ、私は母を残して一人で小網町の自宅へ急ぎました。

横川橋から見た広島市内は、建物は跡形もなく壊れ、煙でかすんでいました。川を見ると水を求めて飛び込んだのか、人がたくさん沈んでいて、線路のそばにも死体が並べられていました。死体の間からうめき声が聞こえたり、多くの死体を積み上げて、火葬しているところも見ました。とても人間らしい扱いとは言えませんでした。瓦礫の山のあちらこちらで火がくすぶっており、何かが爆発するのか時折パーン、パーンと音を立てて火花が散っていました。寺町から十日市に向けて電車通りを行くと、鉄筋コンクリート造りの本川国民学校と、光道国民学校が焼け残っているのが見えたので、それを目印に焼け野原の中を一人で歩きました。

やっと自宅付近に到着しましたが、何もかも焼けていて、誰の姿もありませんでした。遅れてやってきた母は、「何でこんなむごいことをするのか、何も悪いことしてないじゃないか」と泣き叫んで、うずくまってしまいました。なすすべもなく立ち尽くしていると、突然大きな声がしました。振り向くと、真っ黒な顔で髪が全部抜け、坊主頭になった祖母が立っていました。祖母は六日、高須の方へ買い出しに行き、己斐の電車の停留所で被爆したため、助かったのでした。学徒動員されて建物疎開作業をしていた叔母・角田路子が、やけどをして己斐国民学校へ運ばれたので、その遺体を確認してきたところでした。叔母の形見だと言って、切り取った髪を見せてくれました。祖母は私に、今は戦争中でいつ危険な目に遭うかもしれないから、母を連れて疎開先に帰るように言いました。私は残って祖母の助けをしたかったのですが、祖母は、行方の分からない祖父と兄の行方を捜すからと言って、そこで別れました。

私たちは横川駅まで歩き、可部線で飯室まで戻りました。そこから疎開先へ帰るバスに乗るために布駅があった辺りまで歩きましたが、着いてみるとバスは既に出発した後でした。かなり疲れていましたが、気を取り直して歩いて帰ることにしました。途中の小河内で農家の人に道を尋ねると、山越えをしなければいけないと言われ、しばらく山道を歩いて行きましたが、辺りが暗くなるとそれ以上進めなくなり、立ち往生してしまいました。すると先ほど道を尋ねた農家の人が追いかけてきて、夜道は危険だから、土間でよかったら今夜は泊まって、明日、山を越えなさいと言ってくれました。私たちは厚意に甘えて、一晩泊まらせてもらいました。このときの感謝の気持ちは、今でも忘れられません。私は疎開したことで直接被爆を免れ、ここでもまた命を助けていただきました。
 
●一人で広島へ
疎開先に帰ると母は寝ついてしまい、数日間は食事もできない状態でした。私は母に、「ゆっくり休んで二歳の弟の面倒を見ていてください」と言い、祖父と兄を捜すために再び一人で広島へ向かいました。

八月十日、広島市内は、まだ電車の線路沿いに死傷者が並べられていました。途中の光道国民学校では、たくさんの人がやけどの治療を受けていて、蒸し暑くて暗い中で、負傷者の傷口にウジがわき、すごい臭いがしました。一生懸命捜しましたが、そこに家族の姿は無く、私は祖母の所へ行きました。祖母は宇品の親戚の家に泊まって、ずっと捜索を続けていました。九日に舟入本町の電停の辺りで祖父を見付けることができましたが、亡くなったそうです。兄は六日、自宅の近くにいたはずですが、爆風で飛ばされたのか、けがをしてどこかへ運ばれたのか、何の情報も得られず、私は疎開先へ帰りました。

兄のことが諦められず私は、八月十六日から二十日まで、もう一度一人で広島へ行きました。兄との思い出の場所である観船橋、羽田別荘、西地方町、西新町(いずれも現在の中区)などを捜し歩きました。もしかしたらと思い、負傷者がたくさん運ばれたという似島へも祖母と船で渡りました。似島は死者やひどいやけどの負傷者でいっぱいでしたが、兄の消息につながるものは何も見つかりませんでした。似島を離れるときは、収容されている人たちが少しでもよくなりますようにと、手を合わせて祈ることしかできませんでした。兄の行方は、現在も不明のままです。
 
●戦後の生活
祖母・角田ヲシュンは、復興へ強い意欲を持っており、自宅の焼け跡に早くからバラックを建てて生活を始めていました。焦土となった広島は、何十年も草木も生えないと言われていましたが、私が線路沿いで鉄道草が勢いよく伸びているのを見付け、何本か切って持っていくと、祖母はそれを油で揚げてくれました。苦味はありましたが、空腹の足しには十分で、焼け野原の中でも力強さを感じました。祖母からは、何事もやり抜く信念を学びました。

昭和二十年の末には父が復員して疎開先へ帰ってきて、私たち一家は四年間疎開先で暮らしました。二十二年二月にはもう一人弟が誕生し、私は学校から帰ると、弟二人の子守りをしながら農作業をこなしていました。兄弟が増えたことは、苦しく厳しかった疎開生活の中で明るい話題でした。二十四年七月に妹が生まれ、八月に私たち家族は小網町に戻りました。祖母は元の自宅の近くに新しい家を建てて、商売もしていました。

広島でまた新しい生活が始まりました。私は本川小学校に転校し、その後舟入小学校、神崎小学校と変わって神崎小学校で卒業しました。中学校へ進学すると、そこで被爆者へのひどい差別に遭いました。私は入市被爆をしていますが、家が被害のひどかった小網町だということで、学校では「お前はピカだろう、さわるな、うつるぞ!危ないのう」といったひどい言葉を浴びせられました。カバンを投げ捨てられ、集団で殴る、蹴るといった暴力もありました。けがをして帰っても、家族には転んだとしか言えませんでした。就職のときも、被爆地出身であるということでの差別はずっとついて回りました。就職試験を何度も受けましたが、一次は通りますが二次試験で落とされました。そうして私は、被爆したことを誰にも話さなくなりました。
 
●平和への思い
八月六日のことは脳裏から消えることはなく、毎年黙祷をささげてきました。長い間被爆体験を心の中にしまっていましたが、昨年中学校で同級生だった漫画家の中沢啓治さんが亡くなり、中沢さんの「踏まれても、生きろ、麦のごとく」という言葉を思い出したとき、「生きろ」ということは「何かしなさい、つないでいきなさい」という声のように思えてきました。私は生かされた恩に何一つ応えていないのではないか、何かできることはないかと考え、ボランティア活動を通しての社会貢献をはじめ、生まれ育った広島について勉強し、被爆体験を伝えることも大切な役目だと思うようになりました。

もうじき被爆から七十年になりますが、世界中の人々にもっと広島のことを知ってもらいたいと思います。戦争や差別は今もなくなっていません。皆が、生きるということはどういうことかをもう一度考え、核兵器を無くし平和な世界を目指すべきです。宮島で千二百年燃え続けている「消えずの火」のように、平和な世界を目指して絶え間なく強い決意で進んでいかなければならないと思います。 

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