●被爆前の暮らし
被爆当時、私は広瀬北町に家族四人で住んでいました。
父は三川町にあった逓信局倉庫に勤めており、きょうだいは長男である私を頭に、広島市第二国民学校高等科一年生の弟、そして末には広瀬国民学校一年生の妹がいました。もう一人、国民学校四年生の弟がいましたが、当時は疎開中で家にはいませんでした。また、母と祖母もいましたが、原爆投下前に病気で相次いで亡くなっていました。
私はその当時十四歳、市立造船工業学校機械科の三年生で、南観音町にあった三菱重工業広島機械製作所に動員学徒として通っていました。一、二年生のときも広島陸軍兵器補給廠などに動員され、勉強はほとんどしていません。
昭和二十年四月からは、その工場の疎開作業に着手することとなりました。己斐駅裏の山間にバラック工場を建て、そこに機械を移し、主要施設は付近の山に横穴を掘り、その中に疎開させることになりました。工場といっても板囲いをしただけの本当に簡単なものでした。そして、五月から、私はそこに機械部品の工程係として配属され、図面の貸し出しなどをしていました。
その頃は戦争末期で、配給でなんとか飢えをしのぐような生活をしていました。動員先で仕事が無いときなどは、山を開墾したり、学校の運動場にサツマイモを植えたりしていました。でも、そうして育てた作物も、先生の口には入るものの、私たち生徒にまでまわってくることはありませんでした。
●八月六日
その日、私は己斐町の部品工場へと、朝早くに家を出ていました。父は、いつものように家族の朝ごはんの支度をしてから出勤し、妹や弟も朝食を済ませた後に、学校や建物疎開作業に行っていました。
己斐町の部品工場で、私は機械を運んでいましたが、八時過ぎになって、外で整地作業をしていた者から「来てみい、来てみい、警戒警報が解除になったのに、B29が飛びよるで。外に出て見てみいや」と言われ、外に出てみました。「あれ、長谷川、何か落としたで、あれ見てみい」との声に、見ると、落下傘のようなものが空に見えました。「ああ、ほんとじゃ、わしは機械使いよるけん帰るぞ」と、言うか言わぬかといううちに、配電盤がピカッと光り、ドカーンというものすごい音がして、爆風で五メートルくらい吹き飛ばされてしまいました。
気が付いたら、私は建物の下敷きになっていました。しかし、幸い旋盤の下の隙間に入り込んだお陰で、大けがはしないで済みました。
●黒い雨
そして、黒い雲が立ち上り、山からの風で流れて降りてきました。空が真っ黒になり、紙切れ、ほこりやごみが次から次へと降ってきました。
しばらくすると、黒い雨が落ちてきました。まるで油のような、黒い、黒い雨でした。市内の方からは煙が立ち上り、火の手が上っておりました。己斐の山林からもあちらこちらから煙が上っているのが見えました。
そして、避難してきた人たちが黒い雨でずぶ濡れになりながら、山の手の方に続々とやってきました。
●幽霊のような避難者たち
その人たちは、焼けてぼろぼろになった衣服をまとい、顔などはやけどで皮膚がふくれていました。どろりとした黒い雨にまみれて真っ黒になり、そして焼けた皮膚をべろんと垂れ下げ、幽霊のようにずるずると山を上ってくるのでした。
●友達と避難して
あちらこちらで火の手が上がるなか、私は友達二人と山手伝いに家のある広瀬北町の方に向かいました。中広町まで来ると、対岸の広瀬北町は大きな炎に包まれていました。川はやけどの人や死んだ人であふれており、避難してきた人たちが右へ左へと逃げ惑っていました。
火の勢いが少し収まってきたところで、広瀬橋を渡りました。どの家も丸焼けになっていました。自宅も燃えていて、近づくことはできませんでした。
寺町付近の電車道に出てみると、焼けた電車の中の座席に、座ったままで黒焦げになっている死体が並んでいました。その顔からは、真っ白な歯がのぞいていました。私はその異様な光景を、いまだに忘れることができません。
横川橋手前の電車の中ではやけどやけがで歩けなくなっている人たちが、窓から「水、水」と叫んでいました。道路端の手押しポンプで水をくんで渡すと、私に手を合わせて感謝されました。また、道路をネズミのようなものが走っていくので、捕まえてみると、なんとそれは、羽が焼けてまる裸になったスズメでした。
熱風の中を、私たちは、川べりを通って三篠橋の方に進んでいきました。
車道に出ると軍の士官が部下を連れて被害の状況を調査していました。私たちは、その後について広島駅の方へ向かうことにしました。
●広島駅付近の惨状
常葉橋近くの山陽本線神田川鉄橋上では、下り貨物列車が爆風で吹き飛ばされて横たわっていました。線路の土手にいる軍人、市民などは、服はぼろぼろ、やけどをして虫の息となり、「水、水」とうわ言のように言っていました。近くに空き缶があったので川の水をくんで持っていくと、そのまわりにいた被災者からも水を求める声が多く聞こえてきました。
線路伝いに歩いて、午後三時頃に広島駅の北側にある東練兵場にたどりつきました。その場所は、付近の人々の避難場所となっていたため、やけどをした人や息絶えた人などで埋め尽くされていました。
●妹との再会
私たちの町の避難場所が安佐郡古市町(現在の広島市安佐南区)であったことを思い出し、安佐郡祇園町の西原(現在の広島市安佐南区)を通ってそこに向かいました。途中の川には、いたる所にたくさんの死体が浮かんでいました。水を飲もうとして焼け跡の防火用水に顔から突っ込んで息絶えた人、やけどやけがで歩けなくなりうずくまっている人などを多く目にしました。
やっとの思いで古市町に着き、家族や知人がいないかと捜しながら歩いていたところ、古市の町役場で町内の人たちと出会いました。そして、そこで妹と再会することができました。被爆後に、はじめて出会った肉親でした。
妹は広瀬国民学校で被爆しましたが、学校で軍事訓練を受けていた私の友達に偶然助けられました。しかし、ガラスの破片が全身に刺さった状態で血まみれになっていました。痛い痛いと泣きじゃくる妹でしたが、突き刺さったガラスを取ってやることしか私にはできませんでした。
●修羅場のような一夜が明けて
その夜は、近所の人たちと一緒に大きな農家で休ませてもらいました。皆傷だらけだったので、汚れないように畳を片付けて新聞紙を敷き、筵を敷いての雑魚寝でした。灯火管制で明かりもつけられず、一晩中、やけどやけがの人のうめき声が聞こえ、蚊にも悩まされ一睡もできませんでした。もだえ、苦しみながら人が亡くなっていく、修羅場のような一夜を過ごしました。
翌日からは、父や一つ年下の弟を捜して市内をまわりましたが、見付けることはできませんでした。
よく覚えているのは、ハエの大群です。おびただしい数のウジ虫が湧き、ハエが辺りを真っ黒にするほどにたかっていました。焼けくずれた広島駅の構内には、家族などに安否を伝えるための掲示板のようなものがあり、白いチョークだけが不思議に焼け残っていたのを覚えています。それにもハエがとまって真っ黒でした。
後に逓信局が送ってくれた資料によると、父は通勤途中に八丁堀付近で亡くなったことになっています。弟は学校から雑魚場町へ建物疎開作業に動員されていましたが、どこで亡くなったのか結局分からないままです。
●その後の生活
その後、私は牛田町の母方の親戚で大工をしている人に弟子入りし、住み込みで働きました。昭和三十二年に広島で初めてあった被爆者健診で、白血球が異常に少ないと言われましたが、なぜか検査結果の具体的な数値は教えてもらえませんでした。大学病院が比治山にあるABCC(原爆傷害調査委員会)への紹介状を書いてくれましたが、そこは検査だけで治療をしてくれないことを知っていたので行きませんでした。
それからは、働きに働き、医者に行く暇もないくらいの生活を送りました。
そして、二十三歳のときに二つ下の妻と結婚をし、子どもにも恵まれました。
今では、孫もでき、妻と幸せな生活を送っています。
●平和への思い
川に死体が浮いて流れていた光景は、今でも忘れることができません。たくさんの死体が満潮と干潮で行ったり来たりしていました。そのときの臭いもひどいものでした。祇園町から牛田町まで行くのに、鼻をつまんで通らなければなりませんでした。
そんな経験はもうしたくない、してはいけない、いや、もう二度とあってはいけないと思います。
今では相生橋の周りにはビルが立ち並んでいますが、その当時は一面の焼け野原で瓦礫の山だけが残っていました。そのような状況から広島が復興し、今日があることを忘れてはいけません。
このまま、ずっと平和であることを願っています。そして、平和であるためには語り合うことが必要です。語り合うことで、お互いを理解し分かり合うということが大切なのではないでしょうか。
平和記念公園などで、被爆者が学生などの若者に原爆の怖さを語っているのをしばしば目にしますが、その被爆者もやがては亡くなり、その悲惨さ、むごさを身を持って体験した人は確実にこの世から消えていきます。
しかし、被爆の実相そして戦争の悲惨さ、愚かさは、次の代そしてその次の代になろうとも語り継いでいかなければならないと思っています。 |