国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
当たり前が幸せ 
増田 房枝(ますだ ふさえ) 
性別 女性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島市薬研堀町[広島市中区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 川内国民学校 6年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は、父・大塚毅美、母・秀子の間に生まれ、薬研堀町で暮らしていました。薬研堀町界わいは、夜の商売をしているお店が集まっている地区だったので、昼間はしんとしていたことを記憶しています。私の自宅があったのも、お店と一緒になっている建物でした。

父は広島市役所に勤めていましたが、被爆当時は召集を受けて山口県にいましたので、祖父母、母、三人の弟妹と一緒に生活をしていました。祖父の卓一は六十五歳、祖母は五十六歳、父三十二歳、母三十一歳、私十一歳、上の妹が九歳、弟六歳、末の妹は二歳でした。

昭和二十年の三月頃、疎開をしなければいけなくなり、いとこたちと一緒に祖父、祖母と子ども四、五人とで、安佐郡川内村(現在の広島市安佐南区)に行きました。母や叔母は、荷物を運ぶために広島市内の家と川内村の家を行ったり来たりする生活でした。また、私自身も、弟妹の子守りのために母親について行き来していました。

当時、私は、幟町国民学校に通っていましたが、昭和二十年四月から川内の国民学校六年生に編入しました。学校では、軍歌のようなものを歌って廊下を磨いたり、空襲警報のサイレンが鳴ると校庭に集まり、同じ地区に住むグループ十人程で整列して帰宅したりしていました。そのような生活でしたので、勉強をする時間はほとんどありませんでした。
 
●八月六日
八月五日の日曜日に、疎開先の川内村から薬研堀町の自宅に帰ってきていました。真夜中に空襲警報が出て、自宅から土手まで一時避難しました。しばらくそこにいて、まだ暗いうちに自宅に戻りました。

少し寝て、朝ごはんを食べるために母や弟妹と一緒に百メートルくらい西にあったもう一軒の店の方で食事をしていましたので、そちらへ行きました。八時頃のことです。八月六日は天気が良く、今でも強く印象に残っている程、きれいな青空でした。普段は大丈夫なのですが、毎年、七、八月の青空を見ると、この朝のことがはっきりと思い出されてとても怖くなるので、あれ以来、夏の朝の青空を仰いだことはありません。

私たちがいた座敷には北側に窓があり、私は窓の向かい側に、母や弟妹たちは私の斜め前に東西を向く形で座っていました。爆心地は、ちょうど北西の方角です。ご飯を食べる仕度をし、食べ始めたかどうかというときでした。突然、窓の外がパッと真っ白になり、それきり気を失ってしまいました。爆風に吹き飛ばされたのだと思うのですが、その記憶はありません。

どれくらいたったのか分かりませんが、気が付くと、座敷の前にあった曲がり階段の三、四段目にいました。今から考えると、五メートル程飛んでいたのだと思います。辺りは真っ暗で、「どうしたのかしら。真っ暗だな」と思ったところでまた気を失いました。

母に名前を呼ばれたのだと思いますが、二度目に気が付いたときには、母が「とにかく表に出なさい」と言っていました。その辺にあった履けるものを履いて、急いで外に出ました。木造の建物で、天井などは落ちていましたが、柱は立っていたことを覚えています。二階にいた人たち も、雨どいをつたって降りていました。
 
●避難場所へ
鶴見橋の西側の土手に、建物疎開で空地になっている場所があり、そこが避難場所になっていました。そこに逃げようとしたのですが、辺り一面の家が倒れて道路を塞ぎ、二階の屋根辺りの高さまで瓦礫で全部埋まっていて道が無い状態でした。どちらに逃げればいいのかは分かったので、瓦礫に登って進んで行きました。しかし、少し進んだところで、痛みも何も感じないのに突然動けなくなりました。爆風で飛ばされたときに物に当たったのでしょう。手や足にえぐられたような大けがをしていました。私はそのとき、「自分は後から行くから先に行って」と母に言ったそうです。後々母から、「普通の女の子なら『お母さん助けて痛いよ』って泣くのに、あんたは『先に行って』と言った。そんな子はあまりいないよ」と言われました。しかし、母も、親としては子を置いていくわけにはいかないので、近所の人に弟と妹を背負ってもらい、自分は私を背負って避難場所まで逃げたそうです。

ムシロのようなものを敷いて、その上に寝かされてまもなくだったと思います。時間ははっきりと分かりませんが、川に水があまりなかったので、干潮のときだと思います。黒い雨が降り出しました。その黒い雨は、すべて真っ黒というわけではなく、大きな透明な雨粒の周りに粉をまぶしたように黒いちりがくっついて降っていました。その頃は火事で建物は焼けていて雨を避けられるような場所は無いので、皆びしょぬれになりました。

しばらくは家族と一緒にいましたが、夕方近くに軍の人たちがトラックでやってきました。負傷者をトラックに乗せ、青崎や東雲の救護所に運んでいたようです。しかし、私はけがを負って出血がひどく、動かすと命にかかわる危険な状態でした。すると、知り合いのご夫婦が、私を預かってくれるとおっしゃったので、私はその場に残ることになりました。私以外の家族はトラックに乗り、青崎の方へ運ばれていきました。
 
●焼け跡での二晩
家族と別れた後、ご夫婦が焼け残りのトタンや布団を拾ってきてくださり、焼け残った塀とトタンで作った日陰の下に布団を敷き、そこに寝かせてくださいました。そこには、六日と七日の二晩いました。二晩過ごした中で、最も記憶に残っているのは臭いです。とにかくすごい臭いで、経験した人にしか分からないかもしれませんが、食欲も無くなる程の何とも言えない臭いがしていました。

その間はずっと寝たきりでしたが、六日の夕方頃に炊き出しがあったのを覚えています。兵隊さんがやってきて、ドラム缶か鍋か分かりませんが、炊き出しをしているのが見えました。その材料が、カボチャでした。カボチャといっても現在のようなものではなく、身の厚さが一センチくらいしかない土手カボチャでした。もちろん私は寝たきりなので食べることはできませんが、その臭いが鼻につき今でもはっきりと覚えています。カボチャを見るとそのときの臭いを思い出し、五、六十年間ずっとカボチャを食べることができませんでした。現在は、少しだけ食べられるようになりました。
 
●疎開先での治療
八月八日、疎開先に誰も帰ってこないのを心配して、祖父が捜しに来ました。祖父が鶴見橋を目指してやってきたところ、知り合いの方と遭遇し、私を預かっていることを聞いたのだそうです。どこからか大八車を借りてきて、疎開先まで大八車で連れて帰ってくれました。気を失っていたのか、祖父に再会したときのことや運ばれていたときのことは覚えていません。

やっと疎開先の川内村まで戻っても、薬も無いしお医者さまもいないので、安佐郡口田村(現在の広島市安佐北区)の救護所に連れていってもらいました。しかし、そこでも赤チンを塗る程度の治療しかしてもらえませんでした。

たまたま、安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)に、当時の主治医の先生が疎開していました。おそらく祖父が先生に相談したのだと思いますが、週に一回程度、家に治療に来てもらうことになりました。

治療で赤チンを塗るために、傷の部分についているガーゼを剝がすのですが、ガーゼと皮膚がくっついており、皮膚も一緒に剝がれるのです。相当痛かったのだと思いますが、「痛い」とか「助けて」とか泣くわけではなく、「殺せ」と叫んでいたそうです。先生が来る度にその騒動なので、家の周りには近所の人が集まってきていたそうです。

昭和二十年の九月の終わりか十月頃、眼科に入院しました。その頃の記憶はありますが、それまでは被爆からずっと意識がもうろうとしていたのか、あるいは気が付いていたときもあるのかもしれませんが、はっきりと覚えてはいません。

左足全体と右腕に特にひどい傷を負っていました。恐らく、筋肉まで傷ついていたようです。動かしてはいけないと言うので、枕を当てて固定し半年間そのままの状態で過ごし、ようやく傷が治りました。しかし、動かさないようにしていたので、一定の角度のままで関節が固まり、右腕のひじが曲がらなくなってしまいました。当時は、左利きは敬遠されていたので、どうにか右腕が使えるように治さないと、結婚できないのではと親は不安に思っていたのでしょう。関節が動かせないと、ご飯も食べられないし、お化粧もできず不便でしたが、何とかやっていました。
 
●戦後の生活
父は、十月頃に復員し、その後、市役所に復職しました。翌二十一年の三月か四月頃に木材が支給されたので、薬研堀町の元の家があった場所にバラックを建て、そこで生活するようになりました。市内の家に戻るまでの間は、ずっと寝たきりの状態でした。

そして、その年の二学期から、また六年生として幟町国民学校に通い始めました。その頃には、足を引きずりながらですが、つえを使わなくても歩けるようになっていました。自分でも不思議なことに、そのような状態でドッジボールをしたりもしていました。

幟町国民学校を卒業した後は、昭和二十二年に、広島高等師範学校附属中学校に入学し、昭和二十八年に広島大学教育学部附属東千田高等学校を卒業しました。

昭和二十六年に、骨に詳しい先生が見つかり疑似関節の手術をしてもらい、ひじの関節が動かせるようになりました。ところが、鉛筆を持つことができなくなり文字を書くことが難しくなりました。そのため、濃い鉛筆を使い、スケッチをするように文字を書いていました。授業中は、皆のように聞きながら素早く書き留めることはできませんでしたが、内容を聞いて覚え、覚えている内に書き留めて、といったふうにしていました。体育については、左足のケロイドがずっと消えなかったために、中学・高校の六年間は実技はしないで、代わりにレポートを提出していました。

被爆後、様々な困難があったと思いますが、被爆直後のことを考えると、大抵のことは苦労とは感じませんでした。
 
●病気と援護について
後々数えてみると、身体全体で傷が百個くらいあったので、結婚はできないだろうなと思っていたのですが、自分を受け入れてくれる人と出会い結婚しました。しかし、子どもを身ごもったときには、無事に生まれてくれるかという不安がありました。

また、三十歳過ぎから高血圧が出始めました。高血圧になる人には決まったタイプがあるそうなのですが、私はそのタイプには当てはまりませんでした。病院では、他に悪い所がどこにも無いのに血圧だけ高い、本態性高血圧と診断されました。また、同じ頃から白内障の症状が出ており、サングラスを掛けなければまぶしくて外へ出られない程でした。今振り返ってみると、若年性高血圧も白内障も原爆症に該当しますが、当時は、お医者さんも分からないようでした。

被爆者健康手帳に関しても、医療費や手当が付くようになって初めて取得する人が増えたように思います。

また、四十歳過ぎの頃に子宮肉腫、その後、大腸ポリープが幾つか発見され、五、六年は通院しました。それでも、平成二十年くらいまでは何とか過ごしていましたが、四、五年前頃から急に体のあちこちの調子が悪くなりました。

七十五歳の頃には、乳癌にもなり手術をしました。また、股関節も悪く、本来であれば人工股関節に入れ替えるつもりで手術をしたのですが、結局うまくいきませんでした。他にも、心臓にも不安を抱えていますし、現在も生きているのが不思議な程たくさんの病気をしました。
 
●平和について思うこと
以前、平和記念公園で、「原爆はどうしたらなくせるか」と聞かれたことがあります。そこで、「原爆を持っている国の大統領が被爆者になられたらなくなるよ」と答えました。原爆のスイッチを押す人は、スイッチを押せばそれきりです。その先がどうなるかは知らないのです。知らないくらい怖いことはありません。

今の日本は平和だと言えます。これから戦争がしたいという人が増えていけば、戦争になり日本も巻き込まれるでしょう。戦争がだめだって言える人がどこまで生きていられるかということだと思います。

戦後に生まれた人にとっては、「平和な日本」が当たり前の状態で、比較するものがない人に平和について考えなさいというのは難しいと思います。戦争を経験した人でないと、その「当たり前」の値打ちは分かりません。だからこそ、被爆体験証言者が必要だと言われているのだと思います。今の若い人たちに、「当たり前が一番幸せなのよ」と言ってあげたいです。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針