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私の被爆体験記―原爆に焼かれた兄― 
新保 壬三(しんぽ じんそう) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2017年 
被爆場所 広島県立広島商業学校(広島市皆実町一丁目[現:広島市南区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島商業学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は当時十三歳、広島県立広島商業学校2年生で、学校で被爆しました。被爆体験について考えるとき、私自身のことよりも、亡くなったすぐ上の兄・五三のことが頭に浮かびます。兄は当時十五歳、私と同じ学校の四年生でした。
 
●被爆前の生活
私は八人きょうだいで、実家は広島県山県(やまがた)郡壬生(みぶ)町(現在の北広島町)にありました。地元の国民学校卒業後、昭和十九年四月に、私は広島市江波町にあった広島商業学校に入学しました。通学のため、就職していた一番上の姉と次の姉、同じ学校に通う兄と私の四人で、横川町二丁目の割烹旅館の二階に間借りしていました。割烹旅館は不夜城という名前でしたが、当時は夜遅くまでお酒を出すような商売はできず、水曜日だけ夕方六時から店を開けていました。三時間くらいの営業でしたが、お客は軍人が多かったように思います。不夜城の前の道をまっすぐ進んで三篠橋を渡ると、陸軍の施設がある基町でした。二階で寝ていると、早朝に陸軍幼年学校の生徒たちが軍靴を鳴らして走っていく音が聞こえ、目が覚めたものです。
 
●広島商業学校と学徒動員
広島県立広島商業学校は当時、中国地方の中等教育課程の施設でこれだけのものはないと言われた、鉄筋コンクリート造り三階建ての立派な設備の校舎でした。しかし私が入学した年の五月に、江波町の校舎を陸軍兵器学校広島分教所に徴用され、私たち生徒は皆実町一丁目の広島師範学校の旧校舎に移らなければならなくなりました。机などの大きな備品は陸軍がトラックで運びましたが、細々した荷物や、化学の授業で使う薬品のビンなどは風呂敷で包んで自分たちで運びました。江波から皆実町の学校まで、片道約四キロの道程を歩いて、一日二往復二日間かけて引っ越し作業をしました。

皆実町に移ってからは、おんぼろの木造校舎で勉強していましたが、農家の手伝いや軍需工場へ行くといった勤労奉仕に動員されることが増えていきました。初めて動員されて作業したのは、観音の野球場のグラウンドに「タコつぼ」と呼ばれる一人用の防空壕を掘る作業で、スタンドにはサツマイモを植えさせられました。

昭和二十年になると、建物疎開作業に動員されるようになりました。建物疎開とは、空襲に備えて街に防火帯を作るために家屋を取り壊すことです。兵隊さんが壊す家の屋根に上がってロープを付け、家の柱の下の方を切っていき、それから私たちのような子どもに、よいしょ、よいしょ、とロープを引っ張らせます。すると中の柱が切ってあるので、家がばっと倒れるのです。当時の建物は土壁だったので、家一棟倒しても、巻き上がるほこりで何も見えなくなりなりました。その後の、崩れた瓦や材木を仕分して片付けるのも、私たちの仕事でした。毎日のように建物疎開に出ていて、まともな授業はほとんどありませんでした。

そのころ食料は配給制で、十分なものはありませんでしたが、うちは実家から食べ物を届けてもらって、何とかやっていました。配給で多かったのはミカンや大豆で、大豆は炒ってポケットに入れて、作業の合間にかじっていました。
 
●里帰り
私たちの父は、山県郡壬生町で材木業を営んでいました。その父が急に、「七月二十五日から一週間ほど、無理してでも休みを取って帰ってこい」と言ってきました。そこで私たちきょうだい四人で壬生へ帰り、両親や他のきょうだいと、久しぶりに家族水入らずで過ごしました。このときが両親にとって、元気な兄の姿を見た最後の時間になったのですが、今にして思えば、父に何か虫が知らせたのかもしれません。

父は横川に住んでいる私たちに、広島で何かあったときにはそれぞれが散り散りばらばらになるだろうから、母の里の親戚の、安佐郡八木村の家に必ず帰ってこいと言って、集まる場所を決めていました。

七月三十一日に私たち四人は広島へ戻り、八月一日からはそれぞれの職場や学校へ行きました。そうして八月六日を迎えたのです。
 
●八月六日
八月六日、姉たちは仕事を休んで田舎へ食料の買い出しに行く予定で、兄と私は、それぞれ広島市内の建物疎開作業への動員が決まっていました。

兄は昭和十九年の二学期から、学徒動員で南蟹屋町にあった亀田製砥所の工場に通っていましたが、八月五、六、七日の三日間は、市役所近くの雑魚場町の作業に駆り出されることになっていました。工場の仕事よりも、市内の建物疎開が最優先ということだったのでしょう。兄は五日の作業に続き、六日の朝も出かけていきました。兄は作業現場に現地集合だったのだと思います。私は学校から作業場所が近かったので、学校に集合してから向かうことになっていました。

その日私は、友人たちと、「今日はたいぎいのう、行くまあかのう……」というような話をしながら登校しました。学校から半径六キロ以内は乗り物に乗ってはいけないという規則があったので、普段から横川から皆実町まで徒歩で通学していました。いつものように横川から寺町の裏を通って相生橋を渡り、猿楽町から本通りと電車通りの間の道を抜け、市内電車の宇品線に沿って白神社の方まで進み、そこから宝町の方向へ街を横切って、比治山のそばにある学校へ歩きました。

学校に着くと、もう校庭では生徒たちが朝礼台の方を向いて整列し、朝礼が始まっていました。皆、作業で使うバールやロープといった道具を持っています。こうなると、今から出て行っても遅刻したことで先生から大目玉の大説教なので、私たちは「朝礼には出まあや」と言って、校舎の中で待つことにしました。

朝礼がそろそろ終わるというころ、私は友達と二人で、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下の間にある便所に行きました。そこに入る前、上空に二機のB29が南から北へ飛んでいるのが見えました。便所の窓はよろい戸で、十センチ幅の板が開閉できるようになっていましたが、夏場なので開けてありました。

突然その板の隙間から、ぶわっと青いような赤いような、溶接の火花のような光が、ゴオーッという音と同時に入ってきました。何かの照明だろうか、でもこの明るい時間に一体なんだろうと思った瞬間、ドーンッと建物ごと持ち上げられ、私は一瞬宙に浮き、地面に叩きつけられました。それからはもう真っ暗です。私は暗闇の中にあお向けの状態で、身動きができません。いっぺんに倒壊した建物の柱や壁土が全身におおいかぶさり、膝や太ももの上のあたりを押さえつけられていました。どのくらいの時間がたったのか、顔の左側の方がだんだんと明るくなってきました。横目でそちらを見ると、材木が折り重なっているのが見え、そこは他の場所よりも重なりが薄いように思えました。私は材木を腕で支えて、体をずらしてみました。すると何とか体が動いたので、体をずらすことを繰り返して、瓦礫の中から抜け出しました。足は痛みましたが、立ち上がって歩くことができたので、これなら逃げられると思いました。

一緒に便所に行った友達も、建物の下敷きになっていました。彼は瓦礫の下から「助けてくれ」と言っていましたが、私一人の力では出してやることができませんでした。そのときは、自分自身のことだけで精一杯で、私は友達を置いて逃げました。なぜ自分が、あんな殺生なことをしなければならなかったのかと思います。
 
●避難するなかで
学校と比治山の間には、陸軍の通信隊の施設がありました。私は学校のすぐ裏側にあった、幅二メートルくらいのドブ川を越えて、通信隊の中を走り抜け、比治山へ逃げました。普通だったら、軍の施設ですから守衛がいるはずなのですが、このときは誰もいませんでした。どんどん走って山へ上がっていくと、比治山は陸軍の要塞のようになっていて、高射砲や立派な防空壕があり、中へ避難させてもらいました。結果的にその後の爆撃はなかったのですが、そのころは誰でも空襲が一度で終わるはずがないと考えるのが常識で、まだ次があるという恐怖感がありました。防空壕の中にいると、何度か高射砲を撃つドーンという音が聞こえました。空には何もいないのに撃っていたのだと思います。

防空壕には後から後から、体の焼けた人たちが避難してきて、すし詰め状態になりました。時間がたつと、その人たちのけがや、やけどから汁が出て、通気性がない壕の中はひどい臭いが充満しました。その様子は本当に悲惨でした。着ていた物はほとんど焼けて、手足や顔の皮膚が溶けたように剥けてぶらさがっていました。女学生は特にかわいそうでした。当時はみんな白い半袖と黒っぽいモンペ姿でしたから、虫眼鏡で光を当てると黒いものがよく燃えるのと同じで、黒いモンペはすぐに燃えてしまい、上も下もぼろぼろでほかに身にまとうものがありませんでした。私は午後二時か三時ごろまでそこにいましたが、耐えられなくなって外へ出てみました。

防空壕の外へ出ると、鉄道が動いているという情報を聞きました。可部線は三滝駅から可部方面へ運転していて、芸備線は矢賀から北へ向けて動いているようだという話でした。私は父が「何かあったら八木の親戚のところへ帰ってこい」と言っていたことを思い出しました。親戚の家は安佐郡八木村、現在の可部線梅林駅の近くです。比治山から広島市内を見渡すと、一面火の海で可部線につながる横川の方へは行かれそうにありません。しかし、比治山の東側の段原は、山の陰になっていて火災は発生していませんでした。そこで私は東側へ下りていき、段原の街を縫うように歩いて、矢賀駅までたどり着きました。途中で友達の一人と出会い、二人で芸備線の列車に乗せてもらって安芸矢口駅で降りました。友達は可部線の古市橋駅に自転車を置いているというので一緒に行くことにしましたが、太田川を渡らなければなりません。駅の近くに渡し船があったのですが、お金がありませんでした。そこで船頭さんに、「お金がないけど乗せてくれる?」と頼んでみると、「おお、乗れ乗れ」と言って、川内村の温井まで渡してくれました。そこからは古市橋駅を目指して二人で歩き、着いたときにはもう日が暮れていました。そこで友達とは別れました。
 
●家族との再会
古市橋駅の辺りも大勢の人が避難してきていました。薄暗く人でごった返す橋の上で、なんという偶然か、二人の姉がそこにいたのです。お互いに、よく見つけられたものだと思います。

姉たちは買い出しに行く予定でしたが、その前に次の姉はすぐ近くの郵便局へ出かけ、上の姉は部屋にいました。原爆投下の瞬間は二人とも屋内にいたのでやけどはありませんが、次の姉はガラスの破片でけがをし、出血もかなりあったようです。次の姉はすぐに上の姉のところへ戻って、互いの無事を確かめました。不夜城の大家さんが建物の下敷きになって助けを求めていましたが、二人の力ではどうすることもできず、やがてやけどを負った人々が次々と横川へ逃げてきて、姉たちも他の人が行く方へ避難したそうです。

姉たちと再会を喜びましたが、私が一人でいるのを見て、「五三は」と聞かれました。姉たちも私も、兄がどうしているのか分かりませんでした。仕方がないので、ひとまずそこから四キロほど先にある八木の親戚の家へ向かいました。親戚の家に着いたのは、午後八時を回っていたと思います。小高い場所にある家からは、燃えている広島市内が一望できました。「ああ、あそこへおるんだろうか、どうしとるかのう」兄のことが心配で一晩中眠ることができませんでした。

明くる朝、壬生から父が近所の人と二人で、自転車に乗ってきてくれました。父は兄がいないのを見て、私に「お前は壬生へ帰れ」と言って、父自身は兄を捜しに広島市内へ向かいました。姉たちも兄を捜しに行き、私は親戚に握り飯を作ってもらって、一人で歩いて帰りました。大林というあたりを歩いていると、後ろから来たトラックがすっと止まって声をかけられ、荷台に乗せてくれました。荷台はやけどを負った人でいっぱいでしたが、何とか空いた場所に乗せてもらいました。吉田か三次(みよし)の方へ帰るトラックだったので、刈田(かりた)というところで降ろしてもらい、そこからはずっと歩いて、夕方壬生へ帰り着きました。

兄を捜しに行った父たちでしたが、横川から市内方面は火災で入ることができず、その日の夜中に壬生に帰ってきました。
 
●兄・五三の捜索
八月八日、今度は一番上の兄が、「今日はわしが行く」と言って、弁当を持って朝早くに自転車で出かけて行きました。上の兄は昭和十三年から十七年まで軍隊にいましたが、除隊して妻子と一緒に実家で暮らしていました。いつまた召集されるかと、不安に思っていたそうです。

上の兄は、八日は手がかりを得られず広島市内で野宿し、九日に五三の元の動員先だった亀田製砥所の工場を訪ねました。そこで、昨日工場へ戻ってきた生徒が二人いて、その一人が五三だったと聞き消息が分かりました。五三は工場から、救護所になっていた矢野国民学校に収容されたということでした。上の兄はすぐにトラックの手配をして、五三を矢野国民学校まで迎えに行きました。収容されている部屋を教えてもらい、そこで「新保五三おるか」と呼ぶと、小さい声で「はい」と返事があったそうですが、そこに行ってみても、みんな顔が腫れていてぼた餅のようで、誰が誰だか分からず、再度呼んでみたそうです。返事をした人のところで「ほんまに五三か」とたずねると、か細い声で「はい、五三です。昨日までは元気だったが、今日はもう元気がない」と、ただそれだけ言ってあとは意識が薄らいでいったようでした。

上の兄はその日のうちに五三を壬生へ連れて帰りました。連れ帰られた五三はほとんど意識がなく、全身大やけどで、衣服は救護所でもらったのか薄い上着を一枚掛けているだけでした。
 
●兄の看病
母や祖母、姉たち家族が交代で、つきっきりで兄の看病をしました。今のようなベッドはありませんから、戸板の上に畳を敷き、その上に布団を敷いて、並べた台に戸板ごと載せて寝台代わりにしました。盆前の一番暑い時期なので、家の中でも涼しい場所を選んで兄を寝かせ、夜は仏間に、昼間は風通しのいい部屋へ戸板ごと移動していました。兄は全身が焼けており、やけどから出た汁で、布団の下の畳までぐしょぐしょになるほどでした。

兄はあの日、雑魚場町の建物疎開現場に行き、八時十五分にはもう作業を始めていました。被爆後、生きて工場にたどり着いたのは兄ともう一人だけだったそうです。同じ場所にいたほとんどの生徒が亡くなりました。兄はときどき、うわ言のように「工場におらしてくれりゃあ、こげなことになりゃせんかったのに、こんだけ焼けちゃおらんのにのう」「アメリカのやつら……」と言っていました。いままで通り工場に動員されていれば、こんなやけどをすることもなかったのに、ということです。建物疎開を最優先にして市内の建物をなくしても、結果的に何もならなかったのに、兄はさぞ、残念だったことでしょう。

八月十五日、十二時に終戦のラジオ放送を聞きました。兄にも聞こえる場所にラジオを置いていたのですが、兄が聞いていたのかどうか分かりません。私は、これ以上のひどい目に遭うんだろうかと、ちらりと考えました。

八月十六日、私は母と、帽子を買いに壬生の店へ行ってくると話していました。私も身一つで逃げてきたので、持ち物がほとんどありませんでした。その会話が聞こえたのか、兄が「おい、壬三、わしのも買うといてくれ」と言いました。私はとっさに、「よし、買うてきたる」と答えましたが、兄がやけどから回復し、帽子をかぶれる状態になるとは、とても思えませんでした。それから三日後の八月十九日、兄は十五歳でこの世を去りました。
 
●戦後の生活
私が広島商業学校に復学したのは、昭和二十年の十一月でした。打越町の遠い親戚の家の四畳半を貸してもらえることになり、上の姉は結婚が決まっていたので、次の姉と二人でそこへ住み学校へ通いました。以前住んでいた横川の割烹旅館のあたりは完全に焼けており、道の様子で場所が分かるくらいでした。横川から遮る物なく似島や黄金山が見え、間にコンクリートの建物がぽこぽこと焼け残っていました。

私の同級生で、校庭で整列していた人たちは、ピカッと光った瞬間、反射的に光の方を向いたのでしょうか、右半身と顔を焼かれた者がたくさんいました。私が復学したころも、傷がひどくて学校に戻れないという人が何人もいました。同学年で石田兵器製作所に動員されていた一クラスは、建物疎開に向かっていて全滅したそうです。

学校は皆実町から江波の校舎に復帰し、陸軍兵器学校になっていた後を片付けて、授業が再開されました。広島商業学校は野球部が強いことで有名な学校で、きれいに整地されたグラウンドがありましたが、「タコつぼ」が掘られ、歩くのが難しいほどでこぼこになっていました。そこを野球部の生徒たちがモッコを担いで土を運んで、均していた様子を覚えています。

昭和二十三年、学制改革で広島商業学校は廃止になりました。生徒は新設された高等学校の商業科に編入されましたが、私は山県(やまがた)郡出身ということで、住んでいるのは打越町なのに可部高等学校に行くように言われました。打越から三日ほど通いましたが、住まいから遠く元々女学校で男子もあまりいないので、教育委員会へ行っていろいろ手続きをし、打越から近い基町高等学校三年へ編入することになりました。そのため、私は旧制広島商業学校第四十八期生で最後の卒業生で、基町高等学校の第一回卒業生でもあります。街の中には大きな建物がほとんどないので、学校のある基町から、授業と授業の間に八丁堀までまっすぐに行って映画を見て戻ってくる、というようなこともできました。

卒業後は自営で働きました。戦時中、トラックを軍隊に徴発され、父が木材の輸送に苦労していたこともあって、終戦後に長兄がトラックを一台購入し、私が卒業するころには複数台の自動車を所有していました。卒業後はその車を使って仕事を始め、その延長線上で運送業をずっとやってきました。今では私の孫が続けています。
 
●兄への思い
被爆体験は、同じように経験した姉たちと話すことはありましたが、それ以外の家族に聞かせることは、あまりありませんでした。一度頼まれて、私の母校の壬生小学校で、子どもたちに話をしたことがあるくらいです。この度は娘が勧めてくれて、私の体験を形にしておこうと思いました。

原爆でたくさんの人が亡くなりました。私より大勢の被爆者を目撃した人もいることでしょう。私も多くの悲惨な状況を目の当たりにしました。

ですが私にとって決して忘れられないのは、建物疎開に動員されて全身を焼かれた兄のことです。兄にどんなに手厚い看護をしても、助かりはしませんでした。救護所から連れ帰ってからの十日間、よくも生きていたと思います。あの耐えていた兄の姿が、今も私の頭を離れません。 

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