陸軍船舶特別幹部候補生隊に入隊し、香川県の小豆島で基礎訓練を受け、海上挺進戦隊(通称マルレ)と特別輸送挺の通信(通称マルユ)とに分れてそれぞれの任地で教育と訓練を受けました。私は広島の比治山にある船舶通信補充隊に転属し、千田町にある小学校で訓練を受けていました。
八月六日の早朝に宇品にある船舶司令部から千田町の小学校に帰りました。八時一五分頃、点呼中にB29機から原爆が投下され、稲妻にも似た光と猛烈な爆風で吹き飛ばされました。私達は四列縦隊で整列をしていましたが、私は基準兵となっていたので校門まで飛ばされていました。光と熱風が去ったあと、暗い灰色の中で破壊され舞上った多くの破片が空から、ふりかかる中で、友の呼び合う声で、気持ちをもちなおし、互いに友と確認しあいましたが顔はふくれあがり、頭髪は焼けて、左の半分は火傷し、名前を言はないとわからないくらいでした。倒壊した校舎の棟木に太股をはさまれ、身動きの出来ない人もおりましたが、助けるすべもなく迫り来る火の中で、比治山えとあるきました。川に差しかかった時に火傷の体を冷すために川に入った人達・・・この人達は抵抗する力もなく沈んでいきました。私は喉の乾きをいやすために、水道管から吹き出している水を少し飲みましたが、胸の皮膚が急にふくらみ、腕の皮膚の剥がれた部分からブツブツと水滴のようなものが吹き出して来ました。足は裏から、くるぶしまで、大きな水ぶくれとなり、足と指の区別がつきませんでした。やっと比治山に辿りつき、腰を下すと、心身の痛みが出て来てじっと耐えていました。
夕暮れになって山を降りよとの指示があり、這うようにして道路に辿り着きました。其処には重傷者と軽傷者と分けて居る人がいて、私に重傷者の方に行けと指図しました。救助のトラックには担架に乗せられた者を中心にして、たくさんの人達が乗っていました。薄暗くなった焼ケ野原に、火と霧のような煙が広がり、まだまだ、たくさんの被災者が、よこたわっているようでした。トラックは宇品の船舶練習部につきました。余りにも多い死傷者で、始めての夜は庭ですごしました。むき出しの傷が風に当たると痛く、うめきました。一日めの直射日光が庭によこたわる負傷者に容赦なく照りつけ、潮風は砂を運び傷口に吹きつけました。二日めは廊下、三日めは室内と、室内に隣人と膚がふれ合うほどいたのに、だんだんと床が広くとれるようになりました。それは、一定期間に死者となった人達が多かったのです。
被災から四日か五日めに私の治療の順番がまわって来ました。八月の太陽は皮膚の表面の患部をカサカサにして乾かし、それを剥して「軟膏」や「赤チン」を塗る。治療は大変な苦痛でした。膿と血が混り合い寝ている背中や腰をベットリとぬらしました。幾日かたって、傷の部分に多くの小さな蛆虫が這い回るようになりました。神経の過敏な耳の穴、首すじ、胸は苦痛でした。又、水への執念は相当なものでした。死ぬとわかった者には水を与えるが、八月の炎天下で、どの患者も必死に臨時の看護者に水を飲ませてくれとせがみましたが、与えられませんでした。煙管に排泄する小便でも飲みたいと思いました。
幾日か、たって広島第一陸軍病院に担架で運ばれ、ここで治療を受けることになりましたが病院の内部は破壊され吹き抜けのようになっていました。私の横にいた同期の人は頭部に大きな裂傷があり、その傷口に小さな蛆虫がたくさん湧いていました。余り言葉をかわせずに前夜から大声を出し始め、しきりに母親を呼びつづけ、夜明けに、その短い生涯を閉じました。
戦争は一般市民も大量に無差別に殺傷し、核兵器は本人だけでなく放射能は子孫に至るまで汚染します。核兵器の力で己れの言い分を通す。この考へ方は間違っています。
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