勤労動員中の三菱重工広島造船所(江波)で被爆しました。閃光を感じて爆風が来るまで数秒の余裕があり、床に伏せてガラスの破片による怪我もありませんでした。当時、戦時下の訓練のお蔭でしょう。
夕方まで状況が不明のまま造船所内で待機させられていました。一七時過ぎ帰宅となりましたが、市内中心部は通過出来ず、同級の友達一人と江波の山文から渡し舟で死体の流れて来る中を吉島に渡り、刑務所南側から千田町電鉄北側、比治山橋と火災地の縁を辿るように段原小学校まで歩きました。そこで友人の下宿(親戚)を探しましたが、周辺には火が残っていて手掛かりを見つけることが出来ませんでした。止むを得ず、東雲町の私の姉の家に同行しました。暗くなった街跡に何時までも燃えていた赤い炎が脳裏に残っています。クラスの中には江波から宇品まで泳いで帰った者もいました。
翌日は親戚を探す友人と別れ私は造船所に出勤しました。これが当時の子供なりの義務感だったのでしょう。途中、国泰寺の防火水槽に数人の人・・・・中には、虚空に何かを掴むように両手を伸ばしたまま亡くなっておられた婦人もおられました。断末の苦しみがどのようであったでしょう。更に、西側の大手町の通りでは、焼けた電車の中に立ったまま焼死しておられる多くの方を見ました。
数日後、江波の電停近くを自転車で出勤していた時のことでした。全身の火傷で体が肥大化し皮膚の垂れ下った方が、自転車に乗せてくれないかと云って来ました。時刻を気にしていたためか、それを断ったのが今もって心の中に重しとなっています。
亡くなられた方達のご冥福をお祈り致します。
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