忘れようとしても忘れることのできないあの日。一瞬にして広島を廃墟としたあの悪魔の日。
学徒動員先の呉をあとにし、特甲幹として久留米予備士官学校へ入校すべく広島の実家へ帰っていた。広島出発を翌七日と決めていたため、六日朝広島市翠町の家を出て母校へ出発のあいさつのため電車にて広島駅まで行った。駅から徒歩にて東雲町の母校(現広島大学教育学部)へ行くべく猿猴橋を渡り家並に沿って歩き始めたとき、ピカッと光ると同時に音と熱風が吹き抜け、一瞬なにがおこったかわからないし、どういう道を通って家に帰ったか今でも思い出せない。
翌七日、汽車が動いている所まで歩いて行くべく爆心地に近づくほど、道路上に焼け焦げた死体をよけながら、また、またぎながら、ふと電車の中を見ると、入口に重なるように死んでいる人々、駅には焼けただれた傷をした人々。
原爆の悲惨さを目の前に見たあの光景が、今でも目をつむると浮かんでくる。二度とあんな悲惨な光景を作り出してはいけない。核兵器をこの地球上より抹殺しなければいけないと、心深く刻みつけたのも、原爆で死んでいった傷つけられた多数の人々をまのあたりにし、また、自分自身傷ついたあの日からだ。
今でも教室で、原爆の悲惨さ戦争の残酷さを生徒の前で訴え続けている。
焼け焦げし瓦のかけら握りしめ
原爆で逝きし友を忍びつ
(阿南市上中町中原)
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