国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
假野 幸光(かりの ゆきみつ) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島女子商業学校(広島市南段原町[現:広島市南区段原南一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶砲兵団司令部(暁第6180部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は原爆が投下された、昭和二〇年八月六日は広島市南段原町の広島女子商業学校内の船舶砲兵通信教育隊(暁第六一八〇部隊■本隊)に所属し、教育を受けておりました。
 
八月六日の原爆が投下された日は雲一つない快晴で朝から暑い一日となりました。丁度月曜で朝礼が通信講堂で行なわれ、点呼のあと中隊長の訓話が恒例となっておりましたが、隊長の体調が悪るく、早速演習を開始せよとの命で各班長の指揮により講堂から退出する為廻れ右の号令と同時に激しい光線と大きな爆発音がおき無意識のうちにその場に伏せたのですが気がついた時は、兵舎が倒壊し、その下敷になっていました。何がおきたのか全く見当もつかず、顔からはどこからともなく血が流れおち、このままでは又何かおきると思い、早く脱出しようと懸命にもがきましたが何分大きな建物が倒れ下敷となり材木に、はさまれているので、一人ではどうしても出ることが出来ず、大声で助けを求めるも声が通じずそのうち力もなくなりつかれ来たので、しばらく思案し乍ら脱出を試み乍ら外の様子を伺っていると、しばらくして人のざわめく声が聞えて来たので、元気をとりもどし、大声で助けを求めた処、やうやく通じることが出来て、助け出されて見ると、市内一円火の海となっており、兵舎の南側の比治山へ通ずる道路には真黒に火傷した市民が泣きわめき乍ら登って行く姿がありました。私の兵舎は全部倒壊し瓦礫の山となりました。が、兵隊は兵舎の中に居た事が幸してか、大傷した人は少なかった様です。殆んどが打撲、擦過傷でしたが、無線機の監視に着いていた兵隊が重傷を負った様です。私達は自分の傷が快癒すると早速市内へ市民の収容に従事することになり、数日間はその作業に従事しました。真夏のことであり、市内は悪臭がただよい惨状は筆舌には尽し難いものがありました。が五〇年を過ぎ今、こうして元気にいることが不思議な気持ちですが、なくなられた多く方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針