私は原爆が投下された、昭和二〇年八月六日は広島市南段原町の広島女子商業学校内の船舶砲兵通信教育隊(暁第六一八〇部隊■本隊)に所属し、教育を受けておりました。
八月六日の原爆が投下された日は雲一つない快晴で朝から暑い一日となりました。丁度月曜で朝礼が通信講堂で行なわれ、点呼のあと中隊長の訓話が恒例となっておりましたが、隊長の体調が悪るく、早速演習を開始せよとの命で各班長の指揮により講堂から退出する為廻れ右の号令と同時に激しい光線と大きな爆発音がおき無意識のうちにその場に伏せたのですが気がついた時は、兵舎が倒壊し、その下敷になっていました。何がおきたのか全く見当もつかず、顔からはどこからともなく血が流れおち、このままでは又何かおきると思い、早く脱出しようと懸命にもがきましたが何分大きな建物が倒れ下敷となり材木に、はさまれているので、一人ではどうしても出ることが出来ず、大声で助けを求めるも声が通じずそのうち力もなくなりつかれ来たので、しばらく思案し乍ら脱出を試み乍ら外の様子を伺っていると、しばらくして人のざわめく声が聞えて来たので、元気をとりもどし、大声で助けを求めた処、やうやく通じることが出来て、助け出されて見ると、市内一円火の海となっており、兵舎の南側の比治山へ通ずる道路には真黒に火傷した市民が泣きわめき乍ら登って行く姿がありました。私の兵舎は全部倒壊し瓦礫の山となりました。が、兵隊は兵舎の中に居た事が幸してか、大傷した人は少なかった様です。殆んどが打撲、擦過傷でしたが、無線機の監視に着いていた兵隊が重傷を負った様です。私達は自分の傷が快癒すると早速市内へ市民の収容に従事することになり、数日間はその作業に従事しました。真夏のことであり、市内は悪臭がただよい惨状は筆舌には尽し難いものがありました。が五〇年を過ぎ今、こうして元気にいることが不思議な気持ちですが、なくなられた多く方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
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