私は昭和八年生れの八十二才です。
戦前、戦中、戦後を経験した。貴重な人材だと思います。小学校六年生の時でした。生涯忘れることの出来ない原爆が、広島市の上空で炸裂した八月六日午前八時十五分も体験したのです。
夏休みの時期だと云うのに、何故か登校していたのです。その途中で線路づたいに歩いてたら、急にパッと目の前が異様に明るくなり、その瞬間暑いと感じ、両手で顔を覆っていました。この熱線で皆、火傷したと思います。そのあと地震かと思う位ぐらぐらと地面が揺れました。(この事は余り知られていません)どの位時が経ったか、気が付いた時急に雨が降って来ました。それも黒い雨なのです。きっと地上の色々な物が焼けて舞い上り、雨に混ざって黒い雨になって降って来たのだと、私なりに推測しています。
そこからが大変だったのです。あっと云う間に、全身火傷の人達が続々と歩いて来るではありませんか!吃驚しましたが、どちらからも火の手が上っているので、余り怖くもなく、その人達をしっかりと見ました。着ている物も無くなり裸足で、よく見ると全身皮膚がつるっと一皮むけてしまって垂れ下がり、男女の区別もつかないのです。余りの暑さと痛さで麻痺したのか、泣きわめいてる様子でもなく、唯、何かに接触すると痛みが増すのでしょう、両手を前に出していました。一皮むけているのですから、勿論血も出ていることでしょうけど、真っ赤で煤けて頭髪もありません。力尽きる迄どこへ向って歩いているのでしょう。
幸いにも私の家は爆心地より少し離れていましたから、焼けてはいませんでしたが、とても住める状態ではありません。床の間には、大人でも一抱もある大きな石が壁を突き破って鎮座していましたし、昔風の廻り縁の建物でしたから、ガラス戸が沢山ありましたので、ガラスの破片が身体中に突き刺さって、お互いに取り合いしました。中に入り込んで、取れないのもありましたが、お医者さんも重傷者が一杯なのでそんな者は診て貰えなかったのです。縁の下には力尽きて沢山の人がもぐり込んで呻き声がしています。「水、水」と、てんでに云うので、飲ませたら死ぬと云われていましたが冥土の土産に飲ませて上げました。夕方頃には身体に蛆が湧き、目、鼻、耳、どこも蛆だらけなのです。まもなく皆、死に絶え亡くなりました。
翌日には家の前で死体を井桁にして火葬しました。私はまだ子供でしたので大人のする事を見るだけでしたが、今思うと火葬にした人の住所や氏名を調べていれば良かったかな、と後悔しています。
広岡恭子
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