八月六日、あの日は大変よいお天気だった。私は女学校一年生だった。学校に着いて少し経った時、空襲警報が鳴った。急いで防空頭巾をかぶり防空壕に避難した。しばらくして警報解除のサイレンが鳴り、みんな壕から出て教室に行った。二時間目の授業で家事のテストがあった。答案用紙に答えを書いていた。あの頃は家事の実習をする食材がなく、授業は講義が主でノートばかりとっていた。たまに実習があると嬉しかった。お弁当以外に食べ物が頂けるのだから大喜びしたものだ。食糧難で育ち盛りの私たちはいつも空腹で、気力だけで頑張っていた。朝礼の時、貧血で倒れる生徒たちが何人もいた。私もそのうちの一人だった。
そのテスト中のことだった。B29が飛来した。もう警報は解除になったのにと不審に思う間もなく、稲光が百も一度に光ったかと思うほど、目も眩むような光がピカーッと光った。暑い夏の日で窓をいっぱいに開けていたからよかったが、閉めていたら吹いてきた爆風でガラスが壊れてけが人が出たことだろう。光に続いて轟音と熱風が吹き込んできた。机上のテスト用紙が吹き飛んだ。先生に「机の下に隠れなさい」と言われ、私たちは目と耳を指で押さえて机の下にかがんでしばらく待った。少したって何事も起こらないので「もう、大丈夫だから席に着きなさい」の先生の言葉で机の下から出て、恐る恐る窓の外を見て驚いた。まるで隣村に大きな爆弾でも落とされて焼けているように、大きな赤黒い煙が山盛りになったようにこんもりと見える。盛り上がった煙が上へ高く高く上った。どんどん上がってキノコ状になった。見る見るうちにキノコが伸びていった。そして茎の中ほどからちぎれて傘の部分が風にのってゆうゆうと空を飛んだ。大きなキノコの傘が飛んでいく姿は不気味だった。下の茎の部分は赤黒く燃え盛っていた。今まで見たこともない経験に泣き出す生徒もいた。
あの頃、女学校に間借りして仕事をしていた陸軍の被服廠があった。軍からそこへ連絡が入ったようで、「今までにない大型爆弾が広島市に落されて、広島市は全滅」というニュースが先生から知らされた。私の村ではなく、四里も離れた広島だと分かってほっとしたものの、全滅というのがどんな状態なのか見当もつかないが、あの煙の様子では余程ひどいものであろうと思った。
下校の指示が出て、友達と連れ立って帰途についた。教室を出た時、ものすごい夕立が降った。大粒の雨がポタポタ降って来たのだ。誰言うとなく、あれほどのを雨乞いしたのだから、と言い合った。私たちは濡れながら家路へと急いだ。それはほんの通り雨ですぐに晴れた。
可部線の電車は動いていなかった。私たちは歩いて八木まで帰ることにした。可部のはずれまで来た時、後から来たトラックが止まって、「乗りなさい」と言われた。兵隊さんのトラックだ。私たちは荷台に乗せてもらった。荷台にはあちこちに血が付いていた。きっとやけどや傷を負った兵隊さんを田舎に運んだ帰りだったのだ。次の傷病兵を運ぶために広島に向っていたトラックだと思った私たちは、上八木駅と梅林駅で降ろしてもらってお礼を言って別れた。家に帰ると祖母と母と弟がいた。隣りの家のふすまが飛んでしまったそうだ。うちは山の陰だったので、何事もなかったらしい。
私は被災したと知らせのあった父を探しに三滝の土手へ行くことになった。土手を広島のほうへ歩いて行った。多くの被災者と行き会った。頭か顔か見分けもつかぬほど黒く焼け焦げた人々や、手のもげた人や、着ていたものが焼けて焦げ付いている人たちや、男女の区別のつかぬほど黒く焦げた人たちが歩いて来た。それはそれは酷い状態の人々の群れだった。
私はその人たちと反対の方向へ歩いて行った。まるで地獄をさまよっているようだと思った。それにも増して爆弾の匂いというのか、建物が焦げ、動物が焦げ、薬品が焦げる匂いが混ざったような、胸が悪くなるようなものすごい匂いなのだ。普通の火事のそれとは異なったもので、後にも先にも匂ったことはなかった。七十年経った今でも思い出される酷い匂いだった。
私は火が燃え盛っている市内まで入ったが、途中、兵隊さんが休んでいるような所は見付からなかった。市内には消防隊や兵隊さんたちが救助や整理に携わっておられたのではないかと考えられる。市内は、何もかも吹き飛び、建物は潰れ、ビルも崩れ鉄骨が剥き出し紅く火を噴いて焼けていた。もう父を探すのを諦めて引き返すことにした。暗くならないうちに帰らねばならない。急いで焼け焦げたぞうりを引きずりながら来た道を引き返した。帰り道にはもっと大勢の被災者がひしめいていた。それは酷い姿の人たちだった。ようやく辿り着いたけどもう歩けそうもない人や、体が赤く剥けた動けない人々や、ものすごい姿の人たちの間を通ってうちへ帰りついた。母も弟と帰り着いたところだった。
私は土手には兵隊さんはいなかった、と言った。母も亀山には父はいなかった、と言った。学校には傷ついた兵隊さんと、国防婦人会の人でごったがえしていたそうだ。母は、月末に出産を控えていたのでもう歩けないと言う。明日は私が一人で三入りまで行くことになった。
翌朝、可部線の電車が動いたので電車で行った。可部駅に下りておどろいた。広場にはテントが張られ、むしろが敷かれ被災者が寝かされていた。その人たちには蝿がたかっていた。国防婦人会の人たちがお世話をしていたが、人手不足で大変みたいだった。
大鍋に重湯が炊かれて、道行く人にもサーブされていた。水を欲しがる被災者にコップでついであげていた。手をやけどしている人には飲ませてあげていた。私はそれらを横目で見て三入りへ向って歩いて行った。
学校には教室も廊下もむしろがいっぱい敷かれ、兵隊さんが寝かされていた。私は室内に入って父を探して歩いた。みな兵隊服を着ていて包帯や三角巾で巻かれているので見つけられない。
私は一度外へ出て名簿を見せてもらった。父の名前があった。再び室内に入ってうろうろしていると、「よう来てくれたのう」と父の声が聞こえた。頭を三角巾で覆われた顔は目も開かないほどむくんでいる。声をかけてくれないと分からないほど、人相が変わっていた。頭の皮が半分とれている父の世話をして明日を約束して帰った。
それから私の三入行きの毎日が始まった。三入での私の手伝いは、手拭いを水で絞ってくる。兵隊さんはそれで顔や手足を拭いて気持ちよさそうだった。汚れた手拭いを洗って、また兵隊さんへ手渡すと「お姉ちゃん、ありがとうな」と言われた。室内は膿みと血ともっといやな匂いで満ちていた。吐き気のしそうなものだった。気の毒な兵隊さんを見ると、そうしてあげずにはいられなかった。
私が持って行った梅干しを父は喜んでしゃぶっていた。三日目頃から父は座って私が行くのを待っていてくれるようになった。ある日、母が手に入れたお酒を水筒に入れて持って行った。「今日は特別おいしいお茶を持って来ました」と言って父に飲ませた。
父は一口飲んでニタッと笑った。他の兵隊さんにも少しずつ分けた。皆、一口飲んで、うれしそうに「こんなおいしいお茶を飲んだことがない」と笑って「こんな所でくたばってたまるか!」と元気が出た。終戦まで毎日、私の三入かよいが続いた。
八木の方では、原爆の日から毎日、多くの死体が運び込まれて、その死体処理が大変だった。火葬場だけでは処理出来ないので、川原に焼き場を三カ所作って、夜を日に継いで焼かれた。
暑い日だったから死体が腐敗する。やけどをした皮膚は掴めばズルッと剥ける。それを一体ずつ焼いて、名札のついているのは紙に包んで名前を付けて、名札のないのはただ紙に包んで保管されていった。
後日、あの仕事をなさった皆さんが「あの時は一生懸命だったからとにかく頑張ったけど、今思い出すとぞっとする」と言っておられた。その方たちも等しく原爆症を発症したと聞いた。
あの時の人を焼く匂いは、何にも例えられない匂いだった。髪の毛と肉と骨を一度に焦がす、胸が悪くなるような、吐き気のする嫌な匂いだった。それは七十年たった今でも鼻から離れないのだ。
あのように酷いことがあったのが七十年も前のことなのに、私には昨日のことのように思い出される。忘れることが出来ないのだ。
瞬時に数万の人が無差別に亡くなり、生き残った人たちも一生原爆症で薬も治療法もなく苦しんでいることを、原爆を落とした米国はなんと思い考えているのだろうか。責任のひとかけらもないとどうして言えるのだろうか。この目で見、この耳で聞き、この鼻で嗅いだあの地獄は七十年経った今も、鮮やかに蘇るのだ。物忘れする年なのに、どうしても忘れられないのだ。
今我は生きておれどもあの地獄死んでもきっと忘れまじ。
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