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戸畑から広島へ 
渡邊 襄(わたなべ のぼる) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1948年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和十九年(一九四四年)の六月二十日の夜、私達はB29の最初の空襲を経験した。(注1)当時戸畑に住んでいた私達は支那大陸からの本格的本土空襲を先ず受けたわけであるが、この時は爆弾だけで、防空訓練でさんざんおどかされていた焼夷弾の洗礼は受けなかった。

この頃から、戦争の結果に対する不安が国民の間にも漸く潜在意識となってモヤモヤと憂うつな気分を漂わし始めていて、政府や軍の躍起の宣伝にも拘わらず、食料の不足などに対する不満と共に、どうにもならぬ焦々とした落ち着かぬ生活の連続であった。

この年の九月、私達は空襲の危険、輸送の困難、荷造資材の不足という最悪の条件のうちに、七年間住み慣れた戸畑を去って、広島工業専門学校へ転勤することになった。郷里に帰って北九州の空爆から逃れてホットしたのも束の間、年が明けて二十年の二月頃から空襲はいよいよ本物となって、都市に住む人達は遅かれ早かれ焼夷弾によって焼かれることを覚悟せざるをえない有様となった。疎開などまさかと思っていたのが、どうやら真剣に考えねばならなくなってきたのもこの頃であった。

時も時、私自身にとって容易ならぬことが起こった。忘れもせぬ二月十八日、遂にあの呪うべき召集令状を受け取ったのである。まさかと思っていたが、これを手にした時は、身体中の血がスーッとひくような気がして、眼の前が暗くなったように思われた。戦況斯くの如く不利なる際、応召したら最後、まあ十中八九命は無いという観念をせざるを得ない情勢にあったからでもあろう。

音もなく降り積む大雪の朝、山口市の連隊に、屠所の羊よろしく入隊したのは二月二十二日で、それから十数日間というものはあの馬鹿げた竹槍突撃や、土の塊を持って戦車爆破の演習など、およそ正気の沙汰とは思えぬことをやらされて、軍人などという連中の馬鹿さ加減にただ呆れるばかりであった。兵役を男子の誉れのように世間では言うが、これじゃ懲役とちっとも変わらぬ、いやそれどころか監獄の方がまだましだろうと思った。兵舎の中では、口では勅諭とか何とか偉そうなことを言っても、偽善、阿諛(あゆ)注:へつらい、詐欺、窃盗は日常茶飯事の如く行われ、更に人殺しを罪悪と思わぬ不適な精神を日夜たたき込むのであるから、とても監獄以上によからぬ所であることは当然であろう。その証拠には敗戦後の今日、強盗殺人事件が著しく増えたのも、全く積年の兵役による罪業だと私は思っている。ともあれ、兵舎から見た娑婆(しゃば)の風はなんとよいものであるかと、しみじみと感じた。「自由」は、「金」よりも貴いと悟ったのもこの時である。演習場で古い兵隊が走る汽車を見て、「ああ、満期箱が走る。早うあれで家へ往(い)にたいもんじゃ。」と言うのを聞いて、うまいことを言うもんだと感心した。令状一本で引っ張り出された兵隊同志の間には、いわば同病相憐れむといったものが交流していて、何となしに親しみ易いところがあった。殊にこの度の招集が何れも四十近い老兵、初年兵ばかりであったことなどが、一層その感を深からしめていた。

ところで、私は招集から入隊までの数日、八方手を尽くして奔走した効き目で、どうやら他の召集兵達と一緒に南朝鮮の沿岸警備に追いやられることだけは免れ、三月十日の陸軍記念日の早朝、唯一人例の満期箱で山口から広島へと帰ってくることができた。だが、招集解除とはゆかず、宇品にある船舶部隊の電波兵器係に転属を命ぜられたのである。

幸か不幸か、その年の一月、電波兵器に関する研究で陸軍臨時嘱託を命ぜられていた私は、ここで再び☆一つの一兵卒として引き続き同じ仕事に従事することになったので、嘱託として出入りしていた司令部に最下級の兵隊でおつとめということになったのであるから、いろんな珍談奇談が起こったのである。いちいちこんな事を書いていては紙面をつぶすばかりで相済まぬからやめるが、今でも当時の学生だった卒業生が訪ねてくると話に出るのであるが、「一兵卒の先生が、将校や下士官を連れて学校に来ておられたが、先生の方は手ぶらなのに、将校、下士官連中は重い実験機材を持ったり、車を引っ張ったりして来て、実験や研究の手伝いをしていたのは傑作でしたね。」と。

なるほど私は広島の部隊へ帰ってからは殆ど毎日学校の実験室に出ていて、軍の仕事をやっていたのであるから当然なわけで、更に六月になってからは一つ☆の兵隊服のままで毎週講義をしたりしていたのであって、応召前の生活とあまり違わないことになった。ただ夜だけはバラックの兵舎に帰り、点呼を受けラッパで寝かされ、ラッパで起こされ、時には不寝番までやるという小うるさい下宿屋(?)に寝起きせねばならぬことが、大変なことであった。

こんな生活が続くうち、空襲はいよいよ激しくなり、めぼしい都会は殆ど焼かれ、呉軍港付近に隠されていた虎の子の残存艦艇までしらみつぶしに沈められたり、瀬戸内海には無数の機雷が投下されたりして、内地にいる我々兵隊もいつかは竹槍組かななどと噂をしていた。

折も折、八月六日の午前八時十五分頃、記憶されるべき原子爆弾が頭上に炸裂したのであった。投下点から約三キロメートル余りの所で道路上にいた私は、数百トンのマグネシウムを燃やした様な光と熱を感じ、次の瞬間には恐るべき爆風によって乗っていた自転車もろとも数メートル吹き飛ばされた。次の数十秒間というものは静寂と暗黒であったが、次第に夜が明けるようにボンヤリと明るくなってくると同時に、自分の体には何ら傷も受けていないことが判って、やれやれと思うと同時に、一体今のものは何であったか判断に苦しんだ。B29の聞き慣れた爆音が聞えたかなと思ったとたんの事で、警報も解除されているこの晴天の朝、焼夷弾でもなし、爆弾にしてはおかしいと。市内はその日の内に焦土と化し、焼け残った家も満足なものは一軒もないという惨状のうちに夜を迎えた。半壊した兵舎に帰って短波によるサンフランシスコ放送を盗み聴いてはじめて、原子爆弾を広島に使用して、その結果成功を収めた、広島には七十五年間生物の生息は不可能である等ということを知った。

当時の市内の惨状は到底ここに筆で尽くすことはできない。何しろ十万人程の人が一瞬にして圧死、焼死、溺死、病死したのであるから、それから一ヶ月ばかりは市内至る所、死体を焼く煙と臭いに悩まされたものである。幸い私の自宅は大破したけれども焼失は免れ、家族の負傷も大したことなしに済んだが、近所の家では誰かしら犠牲者があり、全くこの世の地獄という言葉以外に適当な表現がない。

この日から二、三日後ソ連の参戦、八月十五日の終戦、九月七日の私の復員、更に九月二十日の五十年来の大暴風雨(注2)で広島の再度の大水害等まだまだ書きたいことは多いが、あまり長くなるのでこの辺で切り上げることにする。私も原子爆弾症も起こらず、どうやら元気に暮らしてきている。目下広島の家は両親が住んでいるが、私達の家族はこの川尻町にノンビリと暮らしている。気候もよく、呉線沿線の随一の健康地で、風光もよく、食料もまあ心配なしにやっているから、通りがかりの諸兄はぜひ一度立ち寄ってもらいたい。終戦以来会ったのは、一昨年上京の際、A、B、昨年福岡にてC、D、の諸兄で、この度E君のお世話で久し振りに「五八會誌」が発刊されることは誠に嬉しい限りである。E兄のご厚意に深謝する。

終わりに、戦時中企画した卒業十年記念の家族写真アルバムは、ついに戦争のために中止になったが、あの当時集まった写真は十枚ばかりある。もう六、七年前のものであるが、かえって思い出となっておもしろいかもしれないので、もしご希望があり、且つ写真を提供された諸兄のお許しさえあれば、小生が一冊のアルバムに貼って回覧したらと考える。ご賛同の方はハガキでご一報を乞う。なお写真で最新のものと取り替えたい方、まだ提出していないが、新たにお送り下さる方は至急お送り下さるよう希望する。

(昭和二十三年)七月四日

編注

1. 北九州の八幡製鉄を目標とした空襲は、のべ五回あり、最初は昭和十九年(一九四四)六月十六日未明の一時間半にわたる空襲であった。
(六月二十日は記憶違いか)

大きな被害が出たのは十九年八月二十日(日)午後の四回目の空襲でB29約百機の二時間にわたる波状攻撃だった。二十年八月八日の焼夷弾を主にした五回目の空襲で旧八幡市の三分の二が焼失した。

福岡シティ銀行発行「北九州に強くなろうシリーズNo.一四」(平成一四年九月二六日発行) 『「八幡製鉄」ものがたり』(水野勲氏)による

2.枕崎台風 昭和二〇年(一九四五年) 九月一七日~九月一八日

沖縄付近を北上した台風第一六号は、九月一七日一四時頃鹿児島県枕崎市付近に上陸した。枕崎(鹿児島県枕崎市)で観測された最低海面気圧九一六・三ヘクトパスカルは、室戸台風の際に室戸岬(高知県室戸市)で観測された九一一・六ヘクトパスカル(当時の記録として、もっとも低い海面気圧)に次ぐ低い値となった。台風は北東に進み、九州、四国、近畿、北陸、東北地方を通過して三陸沖へ進んだ。

宮崎県細島(灯台:海上保安庁)で最大風速毎秒五一・三メートル(最大瞬間風速毎秒七五・五メートル)、枕崎で毎秒四〇・〇メートル(同、毎秒六二・七メートル)、広島で毎秒三〇・二メートル(同、毎秒四五・三メートル)を観測するなど猛烈な風が吹いた。期間降水量も九州、中国地方では二〇〇ミリを超えたところがあった。

終戦後間もないことで気象情報も少なかったことや防災体制も十分でなかったため各地で大きな被害が発生した。特に広島県では二千名を超える死者・行方不明者が出た。
  

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