原爆投下時にいた場所と状況
広島市千田町一丁目
瓦礫の下敷になってて、身動きが出来なかった。ガラスの破片、その他で全身に負傷。助け出され、五分後位に、火の海になった。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
爆心地より一・五キロメートル、千田町(日赤病院)で被爆しました。瓦礫の下敷きになり、助け出されて五分後位に火の海となりました。八月六日の晩は移動した鷹野橋で野宿、見渡す限り一面の火の海でした。日赤病院に来れば助けてもらえるだろうと所狭ましと人が集まり、それを太陽が容赦なく照らしつけ、水を求めるうめき声、虫の息の人、火傷した皮膚をボロ布のようにひきづっていた姿が目に焼きついて居ます。特に印象強いのは、お腹をすかした赤ちゃんがオッパイが欲しくて、か細い声で泣いていました。ところが火傷をしている口がくっついていて飲むことが出来ません。母親は乳が流し込めるようにと、自分の唾液で赤ちゃんの口をぬらし、少しづゝ飲ませていた痛ましい姿は決して忘れることは出来ません。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
終生の仕事ともなった踊りを勉強すべく上京。
唾液の出も少く、白血球も三分の一しか無く、いろいろと身体の故障に泣き病院通いをしながらの苦しい修業でしたが、好きな踊りが心の支えとなり、前向きに無我夢中に生きて来ました。
私の人生を大きく支えてくれたスペイン舞踊に出会えたことを本当に幸せに思って居ります。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
毎年八月六日が近づくと、嫌でも当時のことが甦えり、いろいろと思うことどもは有りますが、いくら悔んでも元の身体にはなりませんので、出来るだけ前向きに人生を生きて行こうと努めております。
核実験の中止と、核の廃絶は、生きとし生けるもの全てへの犯罪として強く訴え続けなければと思います。 |